第3話
処は駅線から大きく逸れて藪の内、立ち居塞がる竹群を前に頭下げ、御免なすってと両の手左右に掻きつつ進む
しかもしかも、かの猿の尻がまた熟れた
さりとて外から野次飛ばすほどの楽はなし、書生風情が将校に軍略を語るがごとき不遜は厳に慎まれるべきで、この妖しげな光こそが命運の針を狂わす磁力だったのだ、それこそ傾城の魅惑すらも凌駕するほどの。尤も渦中の凡夫は与り知らぬことで、せいぜい猿公奴に高楊枝させてなるものかと怒りに任せるつもりでしかなかったろうが。
この追走劇の顛末は、やはり人の子側の白旗で。凡夫も決して
「畜生。折角お高けぇ塩イクラを奮発したってのによぅ――」
倒れてなお飯のことが頭をよぎる図太さを詰るべきか、ある種の逞しさを褒めるべきか、それはさておいて。荒ぶる呼気を抑えつ首をもたげたのとほぼ同時、凡夫の口が阿呆、もとい蛤型にパクリと開きっぱなしになったれば、続いて零れた科白もまた阿呆のソレ――ここはどこだ?
無我夢中の記憶とはいえ、確かに四囲は恒に竹と日差の相交わる青柳の、明々とした昼の
「猿の次は狐ってかぃ。ヘッ、化かそうたってそうはいかねぇや」
と息巻いたが声は震える、肩は戦慄く、伸ばした背なもたちまち丸まった。へっぴり腰を揶揄うように葉擦れの音がぞろりと撫でて、瞠目した先に聳えるのは果たして本当に竹群であったろうか。ちょうど壺の絵が顔に見える錯視めいた感覚が凡夫を捕らえてあって、
「やだねぇ、俺っちはただ、盗みを働く不心得者に、ちぃと灸を据えてやろうって思っただけでさぁ」
そんな非を相手方に擦りつけては火に油を注ぎそうなものなのに、この期に及んでまだヘラリと弁明してみせたのは、おそらくまだ凡夫が社会通念の奴隷を抜けていなかったからであろう。即ちこの世は並べて怪異なし、幽霊の正体みたり何とやら――と、これではどちらが不心得かわかったものじゃない。不敬の報いはすぐ訪れる、後退る背中にドンと硬く、凸凹と隆起した質感が伝わって、どん詰まりにございの不吉な報せに凡夫は恐るおそる顧みると。
そこには生気に満ちた青竹の相なぞ影も形も留めない、罅割れた樹皮に大蛇の如き蔓が幾重にも巻き付いた、まさしく樹怪と呼ぶのが相応の幹が、哀れな贄の精も根も吸い尽くさんと待ち構え、と少なくとも凡夫にはそう映ったようで。飛び退いた拍子に何やら枯草を踏みつけたらしい音が、これまた凡夫には因果な響きと聴こえたという――ペキリと、何かが折れる音。堪忍袋の緒が切れる音。
悲鳴を上げず、命を乞うこともせず、直ちに虚空めがけて飛び出した凡夫の行動は間違いなく英断で、何なら盟友セリヌンティウスがためにひた駆けるメロスの如き雄々しさすら見出すことができたろう。しかし群盲象を撫でるとはよく云うたもの、遠目からは凡夫の滑稽は明らかで、胴ごと蔓に絡めとられておるとも知らず、一歩も前に進まぬまま必死に足をばたつかせる様はちょうど人参ぶら下げられた馬のようであったとか。
「冗談じゃねぇ、まだこんなとこで――」
くたばるわけにはいかねぇ、と言い終わらぬうちに、巻きの解けかけた
「おお、ほんに人の子が
などと惚けてみせた捕物の立役者、もといかの麗妖の掠れ声を拾わずしておねんねしたのはなお幸であり。ついでに申し添えるならば、常々徒なる生への執着に苛評をものする分際で、命惜しやと吐いて欺瞞を露呈しなかったのは僥倖であったのだそうに違いあるまい。
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