第2話
さてこの男、何氏かはともかく名をタダオといい、漢字で「凡夫」と書かせるあたり如何なる思想の親元に生まれ付いたか容易に察しがつくというもので。こういう家のお定まりとして凡夫も幼少期には忌まわしき名を呪い、また名付け親に噛みつきもしたようであるが、今では吾が子を
とはいえ世を儚むばかりで
結局のところ、流れゆく歳月に磨かれたのは文才でなく売れないなりの渡世術であったというオチがつく。いや、渡世術なぞという可愛げのある化粧を落とせば要はのらりくらりと日暮らし送る手管を身に付けたということで、此春も懐を余分に温めていそうな知り合いをひとつつき。執筆の種を拾いに行くから
是非はともかく、当面暮しに困らぬだけの金銭を得た凡夫であるが、それを博奕や色事のために蕩尽しなかったことだけは褒めてやっても良いだろう。何なら物書きの種云々はあながち嘘でもなくて、こうして懐中に余裕ができると電車に揺られて辺縁の地へ、一昔前の文豪さながらの執筆旅行へ出向くこともしばしばであり。此度も当座に入り用な額を忍ばせ残りは襤褸
幾つか鈍行を乗り継ぎ到着したのは山の駅、それも観光地でなくいつ廃路となっても不思議でない寂れた
案の定、顔をのぞかせた三つの俵型、艶光りする白ムスビは瞬く間に消え失せた。まあその速かったことはやかったこと、凡夫自身食うたか食わぬか判然とせぬほどで、
「あんりゃ、俺の飯はどこにいった」
などと寝言までほざく始末。
ところで凡夫は食事の記憶を失くすにはあまりにも若輩に過ぎ、また食うたのを食うてないと言い張るほど強欲でもないと自認する。となればこういう場合の常道は落ちておらぬか確かめることで、当然凡夫もそれに倣った――ない。だがここで即座に盗られたと決めつけるのは愚の骨頂、
それでも物取りの仕業が慮外であったのは、凡夫が穢れを知らぬ聖人君子であったからでは勿論ない。見てもみよ、此処な春のうららの駅の
「キィ」
「あん、何でこんなところにサルがいやがる――」
目が
「――何を晒すか、このエテ公がぁ!」
「キィィィッ」
嗚呼、そんなに威嚇したとて握飯は返らぬというに、凡夫は怒鳴るのを止められなんだ。然るに猿は去って、凡夫も去る方角は改札とは真反対、延々と伸びる線路を舞台に一人と一匹、或いは二匹が鬼かいなを演ずる不毛に凡夫が思いを致さなかったはずもないのだけれど、この時ばかりは食い物の恨みが勝ったか、広義の近親憎悪に陥ったのか。もしくは毛むくじゃらの手と手を行き交う白球に、かつて悪ガキ共に大事な帽子を投げ回された記憶を刺激されたからなのか。当人すら知る由はなく、真相はやがて猿と凡夫の影とともに藪の中へと失せにけり……。
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