第2話

 さてこの男、何氏かはともかく名をタダオといい、漢字で「凡夫」と書かせるあたり如何なる思想の親元に生まれ付いたか容易に察しがつくというもので。こういう家のお定まりとして凡夫も幼少期には忌まわしき名を呪い、また名付け親に噛みつきもしたようであるが、今では吾が子を障碍ラーフラと命名しくさったシッダルタ太子よりはマシかと己を納得させる程度には落ち着いたようである。しかも親に反発するとは申せど所詮蛙の子は蛙、人の子は人で、凡夫も例に漏れず代々継承される血の記憶より自由というわけにはゆかず、厭穢欣浄とまでは言わぬも多分に現世に対するペシミスティックな気風を立派に引き継いでしまったらしい。

 とはいえ世を儚むばかりで御飯おまんまにありつけるのは聖職者か金利生活者というのが古来よりの相場であって、どちらの括りからも洩れた凡夫は一応のところ文士として身を立てておるということになっている。なっている、というのは無論そこに大いなる誇張があるからで、どだい世間様を筆峰鋭く扱き下ろした挙句に残れる虚無の大平原にて恍惚と嘆き節を謳ってみせる、凡夫の人品骨柄がこれでもかと滲み出た文章が、今日何人たりとも貴賤の別あるべからずという建前を信奉する人々に歓迎されるはずもなし。実態はというと世に出た作品はただの一つきり、それも出版業界と縁の深い親戚に再三頼み込んで何とか産声を上げたという代物で、当然の如く鳴かず飛ばず。

 結局のところ、流れゆく歳月に磨かれたのは文才でなく売れないなりの渡世術であったというオチがつく。いや、渡世術なぞという可愛げのある化粧を落とせば要はのらりくらりと日暮らし送る手管を身に付けたということで、此春も懐を余分に温めていそうな知り合いをひとつつき。執筆の種を拾いに行くから一寸ちょいと旅のお足を恵んでおくんなまし、嫌かそうか、ところで今度君のワイフとお茶する約束をしたのだけども、君の昔話で盛り上がるかもしれぬがよろしく頼む。とこちらは針金あちらは小金、越前守様も莞爾にっこりされるに間違いない双方損なし丸儲けの取引きをしてきたという。

 是非はともかく、当面暮しに困らぬだけの金銭を得た凡夫であるが、それを博奕や色事のために蕩尽しなかったことだけは褒めてやっても良いだろう。何なら物書きの種云々はあながち嘘でもなくて、こうして懐中に余裕ができると電車に揺られて辺縁の地へ、一昔前の文豪さながらの執筆旅行へ出向くこともしばしばであり。此度も当座に入り用な額を忍ばせ残りは襤褸住居アパートの自室の箪笥に押し込んで、あとは真っ新な綴本とインクと万年筆と、経木包みの握飯にウヰスキイの革水筒とを信玄袋に突込むと荷物はそれっきり、身は軽く心も軽く、市井の煩わしさから逃れる旅へといざ往かん――と、そこまではよかったのだ、そこまでは。

 幾つか鈍行を乗り継ぎ到着したのは山の駅、それも観光地でなくいつ廃路となっても不思議でない寂れた駅舎ホームのコンクリに、降り立ちざらりと草履を馴染ませながら凡夫はウンと伸びをしつ、山間の地を覆う大気を肌で捉える、鼻で味わう。期待通りの青く澄んだ香りに笑みこぼれたのも束の間のこと、匂いだけで足るものかと車中でお預け食うた腹の蟲が抗議して、ひとまず駅舎の朽ちかけた長椅子ベンチに腰下ろす。まあそう急かしなさんな、目の前に広がるあおあお、そしてあおと時折り土色からなる眺望パノラマが去らぬのと同じこと、握飯だって逃げやしねえ。そう独り言つるも経木の紐解く指の忙しなさが、凡夫の本音を物語り。

 案の定、顔をのぞかせた三つの俵型、艶光りする白ムスビは瞬く間に消え失せた。まあその速かったことはやかったこと、凡夫自身食うたか食わぬか判然とせぬほどで、


「あんりゃ、俺の飯はどこにいった」


などと寝言までほざく始末。

 

 ところで凡夫は食事の記憶を失くすにはあまりにも若輩に過ぎ、また食うたのを食うてないと言い張るほど強欲でもないと自認する。となればこういう場合の常道は落ちておらぬか確かめることで、当然凡夫もそれに倣った――ない。だがここで即座に盗られたと決めつけるのは愚の骨頂、かみは血で血を洗う闘争からしもは夫婦の痴話喧嘩に至るまで、あらゆる諍いは他者を悪と断ずることを端緒とするのであって、このとき凡夫も経木の隅に佇む沢庵和尚のありがたい説法を噛み締めたかどうか、そんなことは定かでないが、とにかく六度とゆかずも二度三度と信玄袋ふくろの中、ベンチの下、線路の上まで見渡したれども見つからぬ。

 それでも物取りの仕業が慮外であったのは、凡夫が穢れを知らぬ聖人君子であったからでは勿論ない。見てもみよ、此処な春のうららの駅のいえ、上り下りの旅人はおろか、帰省かえりを待つ母子の姿もいずこやら。人がおらずばよこしまる余地もなし、代りにあるのは芳春に酔う蝶々か、春永を謳うキビタキか、あとはせいぜい器用にお手玉する猿ぐらい――。


「キィ」

「あん、何でこんなところにサルがいやがる――」


 目がうた。それはちょうど凡夫が灯台下暗しのげんにのっとり己の尻があった辺りを調べようと振り向いたときで、曲がりなりにも人里にましらが出没するのに寸瞬思考が奪われた、為に気がつくのが遅れたのだろう。おやまあ、此奴が掌で弄んでおる白いのはひょっとすると、お手玉でなく握飯ではあるまいか。


「――何を晒すか、このエテ公がぁ!」

「キィィィッ」


 嗚呼、そんなに威嚇したとて握飯は返らぬというに、凡夫は怒鳴るのを止められなんだ。然るに猿は去って、凡夫も去る方角は改札とは真反対、延々と伸びる線路を舞台に一人と一匹、或いは二匹が鬼かいなを演ずる不毛に凡夫が思いを致さなかったはずもないのだけれど、この時ばかりは食い物の恨みが勝ったか、広義の近親憎悪に陥ったのか。もしくは毛むくじゃらの手と手を行き交う白球に、かつて悪ガキ共に大事な帽子を投げ回された記憶を刺激されたからなのか。当人すら知る由はなく、真相はやがて猿と凡夫の影とともに藪の中へと失せにけり……。

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