妖界珍記

律角夢双

第1話

 沢に垂らした釣糸は浮きもせず、沈みもせずに穏やかで、たいの揺れを伝えて大小気ままな波紋を作り出す。円の芯をじっと睨めば、苔生す岩と岩の狭間に潜む藻草たち、葉の一々まで隈なく見通される澄み具合、流れもサララと清らな楽を奏でて心洗われるかのよう。

 ふと空を見遣ると、青碧せいへきの大海原に白小雲しらさぐもが幾つも帆をかけて、少しもこせつく気配はなくユルリと漂うてある。いかに急ぎの旅人と雖も足を止め、行雲流水とはまさにこれ、吾もまたかくの如くあれかしと、息を深々吸い込むに違いない――


「ハァァァァァ」


――というのに。この釣人の吐息ときたら、爽やかさとはおおよそ無縁の長嘆息。肺腑に溜まる積年の淀みが色にも出でなんという響きの理由はいづくにや。

 そもこの男、おけら程度で気に病むような生熟なまなれとは思われぬ。というのも身形からして蓬頭垢面ほうとうくめんの不精髭、唐茶色の作務衣姿はどこの隠棲者かという風体の、そのくせはだえは生気に満ち溢れて文弱の徒にありがちな血色の悪さは毫ほども見られぬときた。

 忍耐強さにかけてはなど何のその、或いは阿闍梨の行さえ平左とこなしそうな男はしかし、溜息に続いて海藻の如き頭をわしわしと、搔き毟ってはもひとつ吐息。重低なるは焦慮というより呆れを乗せたというべきか、ヤンレヤレと尻に加えた軽侮がどこか親愛の情さえ滲ませて、なれば魚以外に悪罵を飛礫とぶつける相手がいるだろう。と当て推量を櫂と手に取り詮索の小舟を漕ぎ出すや否や、ゆるなる川がサッと趣を変えて、万余の白刃を突き立てるかの鋭さでドゥと流れ込んだ先は崖、下界めがけて奔る白蛇の如き瀑布の只中に、ひとつ、人影の。


「いやっほぉぉぉぉぉぅ」


……いや、ヒトでは、ないのかも。


 第一滝壺へと呑まれつつある人間とあっては大事、如何なる不覚、痛恨の彼をして黄泉路を早まらしめたのか、止めようともせなんだ男は何と冷酷非道の輩であるかと、それこそ劇作の一つも書けそうなものだけど。あいにく聴こえてきたのは奇声、ないしは嬌声ともいうべき種類の甲高さを帯びて、なるほど男が溜息つくのはこの誰彼憚らず喚いておる痴者に対してかと知られるのだが、では彼奴は一体、何する者。

 誤解させるを承知で言えば、彼奴はの真っ最中であった。無論東国の古史古伝の謂れを妄信して四肢を尾ひれ背びれとバタつかせるなら失笑モノ、及ばぬ鯉の何とやらだが、彼奴とてそこまで格致に昏く分斉を知らぬわけではないらしく。むしろ逆で流れに逆らうどころか身を庇うこともせず、滝壺よりそれこそ天昇る竜の如く噴き上がる流れに乗って崖上へ、運ばれるに任せるこれは滝登りならぬ昇り滝と、さも自然じねんことわりかのように綴って恐縮であるが、当の痴者なにがしが当然之介の体であるから仕方あるまい。

 さてノスケ氏が噴射の勢いそのままに中空へと飛び出した、姿を男は聢と目で捉えてあって。やや何と面妖な、滝に逆らうのでは飽き足らず、ついには宙を舞うまで覚えた人型とはおったまげ、いよいよ吾が先か世が先か、末期まつご近しと観念するならそも斯様な辺境にて暢気に釣糸など垂れておるはずも。むしろ驚きも何もあったものか、前髪隠れの双つまなこが莫迦の一つ覚えの曲芸師を見る冷ややかさすら湛えるという有り様で、ノスケ氏被甲目アルマジロよろしく膝を抱えつクルクル回る、飛び散る滴は陽光を浴びて水晶と瞬き降り注ぐ、と、ちょうどその先には男の垂らした糸筋が――。


 手繰るまでもなく帰結は明らかというもので――バッチャン、と擬音の字面が皮肉なまでに似つかわしい、歳枯れ見栄も何もかも捨て果てにし老婆のしかめ面、思わず聯想しそうな品の無い大音響をば伴連れに、みごと着水に失敗したノスケのせいで釣りの風情は台無しとなりにける。ついでに盛大な水飛沫をずんぶり被って色男も台無しに……なったかどうかは伏せてやるのが情けであろう。


「ばきゃぁろう、魚が逃げちまうだろうが」


と男は纏わりつく黒藻、もとい毛髪を掃いもせず言葉汚なに罵るも、口の端がニヤリと吊り上がる辺り本気の度合いはお察しで。相も変わらず窺い知れぬ視線の先では、ただいま沢に墜落したノスケ氏が徐に立ち上がる、こちらは耳下までんだ御髪より清水を滴らせながら、


「おんし、吾が来るより遥か前から釣糸を垂れておったの。一尾も掛からぬのは、おんしの腕の悪きゆえであろ」


と応えた声は掠れていながら妙に艶濡れるというあやふやさ、上裸の姿も亀甲の如く割れた腹となよつく乳白の肩を併せ持ち、男が見ても女が見ても怪しい胸の疼きを覚えかねない出で立ちなのに。そんな疚しさなど一瞬で吹き飛ぶほどに奇異なのは、


「それを吾のせいにするとは……ホホ、器が知れるというものよな」


と容赦なく切り捨てたのとは裏腹な、柔く甘く細まる栗色の眸が二つ、三つ――つ五つ。


「デコっぱちのは伊達じゃありゃあせんってか。流石は無駄に長命な妖怪サマ、物の道理ってのをよぅく心得ていらっしゃるらしい」


 憎まれ口もまた涼し、とばかりに手櫛で梳いてみせたノスケ氏改めこの麗妖。男の指摘通りに額へ三つ、双眸と合わせてちょうど五芒を成すのがどこか禁術の紋様めいて、それこそヒトの身では世を一面、平板に捉えるのがやっとのところ、三の目十方、の目は三世、五の目でついに神仏の域を見透かすような。けれども総体の纏う気は物々しさとは無縁、どころか気安さ、人懐こさすら漂わせてあるというのが、何とも、不思議な。

 

 ともあれ今はそのことよりも――むくつけき釣り男と雅な五つ目妖怪と、相交わるべからざる人と妖とがいかにして知己ちかづきとなったのか、まずはその辺りの事情から語らなくてはなるまいて。

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