影の薄い僕

世良ストラ

影の薄い僕

「今日も32人全員出席だな」

「せんせーい! 山田がいませんよ!」

「山田はそこにいるじゃないか」

「あれっ? ホントだ! すみません! 影が薄くて気づきませんでしたー」



 高校一年の夏。教室が笑いで満たされる。

 これが毎朝恒例の光景だ。


 中学の頃は何もなかった。

 皆勤賞だったくらいだ。

 それがどうだろう、高校に進学した途端にあいつ――自称クラスの人気者――に目をつけられた。

 もちろん、クラスメイトは僕がバカにされていることを分かっているはずだ。

 でも、何もしてくれない。

 担任なんて、クラスの雰囲気がいいと自慢するほどだ――完全にイカれている。


 当然のことながら、こんな学校に頼れる者は誰一人としていない。

 家族に相談する気にはなれない。

 僕自身でなんとかするしかないが、この問題はかなりスムーズに螺旋階段を下へ下へと転がり落ち続けている。


 毎日僕をいじって何が楽しいんだろうか。

 バカなのは僕以外の全員だ。

 そんな反抗的な色が目に表れていることを感じながらも、顔を上げて自分の意思を伝えることができない。



 ……みんな嫌いだ……僕のことも大嫌いだ。

 


「おい! 山田!」



 あいつの雄叫び。



「何ですか?」



 なんで、同い年に丁寧語なんだ。

 嫌になる。



「掃除やっとけよ。影が薄いやつにしかできない仕事なんだからな!」



 と、僕の肩をさも親友であるかのような仕草と笑顔で何度も叩く。

 これが無言の圧力というやつだ。

 断る余地はないんだぞ、という魂胆が笑顔の裏で睨みをきかせている。



 ……おまえらの当番だろ! なんでやらなきゃいけないんだよ!



 そんなことを心で唱えつつ、言葉が口から出てくることを期待したところで、出てくるのは酸素を使い果たした空気だけだ。

 僕はのどをつぶすように相手の足下を見ていて、気がつくとホウキが気持ちよさそうに手に収まっている。


 教室には僕一人。

 他には人の温かみがまだ残っている机と椅子。

 担任の特権を誇示するような教壇。

 そして、手に収まっている『友達』の住処である掃除道具入れ。

 どれもこれも影を持っている。

 僕の影と比べても、濃さはさほど変わらない。

 僕の影が薄いなら、みんなだって薄いんだ。

 なのに、なのに……。



「なんで、同じ濃さなのに、お前らは誰からも見えてるんだよ!」



 掃除道具入れに小声で愚痴を吐き捨てる。

 ホウキを振りかざしながら、世界へのいらだち、自分へのいらだちを、小さな塵とゴミ、教室の無機物にぶつけていく。



 ……お前の影を消してやる! 消してやる! 消す! 消えろ!



 床が削れるような勢いで、ホウキが壊れるくらいの勢いで、僕は何度も掃除道具入れの影をホウキでこすった。



 ……こんなことして何になる。



 僕は自分を嘲り笑った。

 掃除道具入れに怒りをぶつけ、何度もホウキを――殺人を犯した罪の痕跡を消すかのように――往復させながら、汗水を垂らしている自分を想像すると笑えてきたのだ。


 ぼくは一人笑いながら、掃除道具入れにホウキをしまおうと扉の取手に手をかけた。

 そのとき、ある異変に気がついた。

 バカみたいにこすっていた道具入れの影が薄くなっているように見えたのだ。

 教室の木の床に張り付いている影が、教壇や机、自分の影のどれよりも薄く、消えかけのロウソクの火のようにふらふらと揺らいでいるように見える。



 ……光の当たり方の問題か? 



 試しにすぐ横に立ってみたが、やはり道具入れの影の方が僕の影よりも明らかに薄い。



 ……ホウキでこすったから、本当に影が薄くなったのか?



 僕は頭の中をハテナで一杯にしながらも、さらに影をこすり続けた。

 五分ほどこすり続けた――そして、掃除道具入れの影は、完全に消え去った。


 僕は掃除道具入れよりも上の立場に立てたような気がして心が躍った。

 僕の影は薄くない。

 影がないやつだっているんだ。

 そう思いながらも飛び跳ねたい衝動を抑え、ホウキ片手に床を見下ろしたまま――神様が地上の人間どもを天から見下ろすような気分で――立ち尽くしていた。


 僕は試しに他の影もこすってみた。

 影の小さな黒板消しで試したところ、やはり影が消える。


 でも、影が消えたからなんだというのか。

 影が薄いという言葉の意味は『存在が目立たない』ということだったか。

 なら、影の消えた黒板消しと掃除道具入れは、他人からは完全に見えなくなっているのだろうか。

 僕には見えているから、一人ではこの仮説を立証しようがない。

 となれば、他人の協力が必要だ。



 ……黒板消しを廊下に置いてみるか。



 僕は廊下の真ん中に影の消えた黒板消しを置き、掃除をしている振りをしながら人が通るのを待った。


 一人、二人と通るものの、黒板消しトラップは小さすぎて皆またいでいってしまう。

 五人目までは見事にスカだ。

 次は六人目。

 足の着地点に黒板消しがやっときた。

 足が振り下ろされる動きがスローモーションに見える。

 足の裏が黒板消しの背中に触れ、スポンジの腹が沈み込む。

 六人目はもう一方の足を上げた際に完全にバランスを崩し、前のめりに倒れ、膝が割れたかと思うほどの見事な音を奏でた。



「痛てっーな! 何なんだよ!」



 六人目はそう口にしながらも、黒板消しに怒りをぶつけるわけでもなく、落としたコンタクトレンズを探すかのように床を注意深く見ただけで去って行った。



 ……他の人には見えていないんだ。影を消されると、僕にしか見えなくなるんだ。



 そう確信した僕の頭の中では、あるイメージが幾パターンも展開していた。

 影の消えたあいつが、他人から完全に無視される姿。

 あいつが、唯一存在を視認できる僕に頼ってくる姿。

 家来のように僕にすり寄ってくるあいつの無様な姿。







 翌日。

 掃除道具入れがなくなったという一悶着はあったが、僕は早速行動に出た。

 が、しかし……。



「何だテメー! ホウキ持って近づいてくるんじゃねーよ! 気持ち悪いな!」



 昨日の興奮状態で忘れていたこと――影を消すには、影をホウキで何度もこする必要があるということ。

 あいつの影を何度もこすれる隙なんてあるはずがない。

 こんな初歩的なことすら考える頭が自分には無かったのかと思うと、自分がさらに嫌になる。


 そんな訳で、その日もひとりで掃除をしながら影を眺めていた。

 昨日から何も変わっていない現実――自分。


 嫌がらせとして、影を消した物をまき散らすことはできる。

 だが、それで僕への嫌がらせがなくなるわけじゃない。

 僕の存在感を際立たせて、あいつが僕に何も言えないくらいのオーラを纏うしかない。

 でもどうやってサイヤ人のようなオーラを手に入れるというのか。

 それが出来るなら、こんなことで悩む必要なんてそもそもないのだ。


 そんなことを思いながら影を見て、ふと頭をよぎったのは、



 ……影を濃く出来れば、オーラが出るかもしれない……。



 ということだった。


 僕はなぜだかわからないが影を消せるという能力を手にした。

 影を操れると誇大広告を打って出るとすれば、影を濃くすることだってできてもいいじゃないか。

 影を濃くするのは意外と単純なことかもしれない。

 すぐに思いつく方法はひとつだ。


 僕は教室の掃除を簡単に済ませ、美術室へ直行した。

 美術室に誰もいないことを確認し、水彩絵の具と筆を準備する。

 影がくっきりと出るように窓際に立ち、太陽に背を向ける。

 絵の具の飛び散った床――幾人もの生徒の合作――の上に、押しつぶされた僕の影が出来上がる。


 考えついた方法、それは、影に色を上塗りすることだった。

 僕はしゃがみ込み、黒色の絵の具を歯磨き粉のように筆にのせ、床でつぶれている自分の影に絵の具を載せていった。

 もちろん、影が濃くなっているように見えるが、床が黒くなっているだけ――というのが一般的な捉え方だろう。


 二本ほどチューブを空にしてから、僕はしゃがみこんだままゆっくりと横にずれ、影から解放された床をじっと見た。

 そこには、塗りたくったはずの絵の具の痕跡は皆無だった。

 あったのは、何も変わっていない古傷の絵の具だけだった。


 僕は立った。

 そのまま美術室の端まで走った。

 もちろん影は同じ速度で付いてくる――影は主人である僕の従者なのだから当然だ。

 しかも、美術室にある机や椅子の影よりも、明らかに濃くなっている。



 ……成功だ! 影が濃くなった!



 僕は夕方の気配を漂わせるオレンジの太陽の下、濃くなった従者の影とワルツを踊りながら家路についた。







 始業式ぶりに訪れた、楽しみな今日一日の目覚め。

 僕は朝一に登校した。

 クラスメイトが教室にいる僕を見たときの反応を一人一人確認したかったからだ。


 朝はまじめな生徒達が小出しにやってくる。

 皆、教室の戸を開けて僕を見ると、一瞬立ち止まってから自分の席に着く。

 どう見えているかは他人のみぞ知るだが、何かが変わっていることは確かなようだ。


 その後、また一人と教室が制服を着たコピー人形で満たされていく。

 ホームルーム間近にいつも通りあいつがやってくる。

 後ろには担任が家来のように付いてくる。



「あっぶねえ。遅刻するところだった!」

「いつもギリギリだな! 早く席に着け!」



 二人とも教室に足を踏み入れて、僕を見るなり固まった。

 ほんの一瞬かもしれないが、僕には二人の表情のすべてがしっかりと――顔のしわの動きから産毛のしなりまで――見えていた。

 目をかっと見開き、眉をつり上げ固まった顔の上半分。

 対照的に、顔の下半分は弛緩したかのように口が緩み、白い歯が口からこぼれでていた。


 あいつは何かに怯えるように、教室の後ろの僕を気にしながら腰をずっしりと下ろした。

 担任も僕の存在が気になるようで、何度も僕を目で確認しながら教壇の前に立ち、一息つくと、僕を真っ直ぐ見てから出席簿を開いた。


 いつも通りの点呼。

 その後、「今日も32人全員出席だな……」という決まり文句が響く。

 声に覇気がないようにも聞こえる。

 そして、あいつのルーティーン。



「せんせーい! 山田がいませんよ!」



 この言葉は発されなかった。

 小刻みに教室を揺らす笑いも起こらなかった。



 ……僕は変わったんだ。あいつらより上になった。あいつらに認められる存在になったんだ。



 その日、掃除を押しつけられることもなかった僕は、校舎に人気が無くなるまで図書室で時間を潰していた。

 物理の教科書をパラパラと捲りながら校舎内の音に耳を澄まし、美術室に忍び込むタイミングを見計らう。


 校舎内の湿ったざわめきが収まってきた頃、僕は教科書を乱雑にカバンにしまい、周囲を警戒しながら席を立った。

 内側から破裂しそうな鼓動の高鳴りを感じながらも、何食わぬ顔と歩調で美術室に潜入する。

 そこでやることはただ一つ――影をさらに濃くすること。

 誰からも認められる存在となり、この小さな学校世界だけじゃなく、世界中の人々を超えた存在となること。

 人という存在すらも超えるかもしれない。


 僕は制服に飛び散る絵の具は気にせず、ひたすら自分の影に黒色の絵の具を塗り重ねていった。

 絵の具のチューブを何本使ったかはわからない。

 キャンバスに塗っていたら、絵の具の厚い層ができていたに違いない。


 夕方になり、帰途につく準備をし始める頃には、影は主である僕の肉体以上に目立つ存在となっていた。



 ……これで、明日は人気者間違いなしだ。



 僕はこの影が他人に見られないように、人通りの少ない遠回りの道を選んで帰っていった。

 昨日のように踊りながら帰って、この影を見せびらかすのはもったいないと思ったからだ。

 やっと手に入れたこの影が他人に奪われてしまうのでは、という強迫観念に囚われていた。







 翌日。

 雲一つ無い青空の向こうでは、太陽が地上にいる人間を焼かんとするがごとく、上空から黄色い光の矢を隙間なく射っていた。


 今日も朝一で登校だ。

 僕はいつも通り通学路を歩いていた。

 強い日差しに皮膚が悲鳴を上げながら涙を流している一方で、内なる僕は高らかに笑っていた。

 絵の具で黒くなった影は、強い日差しでさらに濃さを増していたのだ。

 黒を通り越して漆黒の闇が歩く先に広がっているようにも見える。



 ……どんな風に周りからは見えているんだろう? すぐに町の噂になっちゃったりして。



 妄想に浸りながら、一歩一歩、足を左右交互に前に出す。

 脳という自動操縦者によって、何も考えることなく動く足、進む体。

 いつも通り歩いているはずだったが、次第に違和感を覚え始めた。



 ……あれ、おかしいな。地面が柔らかいような気がする。



 足の裏に抵抗し、いきっていた地面が、しだいに体育で使うマットレスのように力を吸収し始めたような気がしたのだ。


 一歩。

 一歩。

 前へ。

 前へ。 


 マットレスどころではない。

 家で母が使っているエアーベッドのように、完全に沈み込んでいるではないか。


 僕は歩みを止めたが、立ち止まっているとさらに沈み込む。

 後ろに下がっても変わらない。

 前に進んでも変わらない。

 が、僕は気づいてしまった。

 地面が沈み込んでいるのは、僕の影の部分だけであることを。


 僕は自分の影から逃れようと大きく一歩踏み出した。

 もちろん、そんなことで逃げられるわけがない。

 影は僕の体から離れることはない。

 影は肉体にピッタリと付いてくる従者なのだ。

 いや、従者なのか?

 今、肉体を取り込もうと、自分が肉体の上位に立とうと、主人になろうとしている影。

 影が肉体とは別の意思を持ったとでもいうのだろうか。



 ……僕の影から逃げるには、別の影に入るしかない!



 今や、僕の肉体は腰あたりまで沈み込んでいた。

 僕は立ち並ぶ家々の影に入ろうと道の脇を目指した。

 泥沼の中でもがくように地面を泳いだ。



 ……これで大丈夫だ。



 そう思ったが、自分の影を見て愕然とした。

 僕の影は、家の影の中でも、歪な体の形をしっかりと浮かび上がらせていたのだ。


 僕の体は家の影の中でも沈んでいき、僕の存在は今や頭だけになっていた。

 もがくための手足を失った僕は、このまま消えゆく運命を受け入れざるを得ない状況まで追い込まれていたが、意外にも冷静だった。


 全くもって人間とは不思議なものだ。

 どんな悲劇的な運命であろうとも、受け入れると一度決心してしまえば、血が上った頭も冷めてくる。


 僕は冷め切った一頭身の体で、どこで道を間違えたのかと何とはなしに考え始めていた。

 僕が欲にまかせて、影を濃くしすぎたのが原因なのかな。

 僕が悪いのかな。

 誰かに認められることだけを考えて、誰かの上に立つことだけを考えて、暴走しちゃったからなのかな。

 自分に無いものを追い求めた結果、自分というものを無くしていたのかな。


 僕は口がまだあるうちに、最後の言葉を地上の光の世界に残すことにした。



「もっと、自分を信じてあげれば良かった……」



 口がなくなり、目から上だけになる。


 ここでよぎったのはあいつのこと。

 頭の中の真っ黒なスクリーンいっぱいに、あいつの顔が映し出される。

 黒い感情が心の中で渦を巻き始める。



 ……あいつも……いなくなればいいんだ。



 結局、最後に残した言葉――内なる言葉――はこれだった。







 学校。

 八時三十分。



「あっぶねえ。遅刻するところだった!」



 いつも通り始業ギリギリにやってくるあいつ。

 僕だったものはあいつの後ろにピッタリと付いている。


 さらに、その後ろから担任が付いてくる。



「お前、影が濃くないか?」

「ホントだ! やっぱり俺は、オーラが違いますからね!」



 あいつは肩を縮こませて笑う。

 あいつの足元にいる僕だったものも笑っている。



「そんなこと言ってないで早く席に着け!」



 担任があいつの頭を出席簿で小突こうとする。

 のけぞるあいつに合わせて、僕だったものものけぞる。



「じゃあ、出席を取るぞ……伊藤!」

「はい!」

「加藤!」

「はい!」

 ……いつも通りの光景。

「今日も31人全員出席だな」

 ……いつも通りのホームルーム。

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