牧野新の受難

東山蓮

牧野新の受難

ぼく、もしかしなくてもかなり不審者じゃない?


朝七時半の空気はいつもより甘い匂いがして好きだから、朝練の予定を立てていないときでも早い時間に家を出ることがある。

気持ちのいい冷えた空気に足を弾ませる健康優良児、牧野新の悩みの種は一個下の後輩にあった。

曰く、彼は新を追って同じ高校の陸上部に入部した。

理由はついに教えてくれなかったが、あの目が嘘だと言われたらもう何も信じられない。昔飼っていた犬のすだちより澄んでいた。きっと真剣に考えて「牧野新のいる高校」に進んだのだろう。

まあしかし、そのわりに新への尊敬や好意のようなものは一切見えないところに、人より臆病な新は心臓が締め付けられるような恐ろしさを感じている。

常にぎゅっと眉間に皺を寄せているし、敬語も使ってくれた試しはない。むしろ、初対面で自身より年上だと勘違いした新のほうが今でも敬語を使っている。

そして大変腹立たしいことに、傍若無人・唯我独尊、その化身のような存在が、上下関係にうるさい陸上部でやっていけてる理由はひとつ。ひと目見ただけでわかる、どんなあまのじゃくだって逆らえない圧倒的な強さだ。

「強い」はさまざまだが、陸上、その中でも長距離走にあたって思いつく強さを彼はコンプリートしている。速い、頑丈、柔軟...まあとにかく走るためだけに生まれてきたと形容される男というものだ。特に競技中の姿勢は見事なもので、あの社会で生きることを放棄したような態度からは想像もつかないほど教科書通りにこなしてみせる。

そんな前途有望な後輩になぜ一介のランナーである新が頭を悩ませなければいけないのかと問われると、確かに己が対峙する問題ではないような気がするが、男...津田はとにかく授業に参加しない。

我が陸上部の長距離部門では朝練は自主参加となっており、絶対に参加しなければいけないものではない。おそらくだが、それをいいことに、津田はのんびり眠って昼休み頃に登校する。そして部活にはしれっと参加する。

そんな困った津田だが、彼が陸上部に必要不可欠な存在で、かつ赤点を取ったことがないこともあり、顧問は役員出勤の津田に目を瞑っていた。が、先週、ついに教員会議で問題となり、「遅刻をした日には部活動に参加させない」という通称津田ルールが可決されたというわけだ。

そしてそのしわ寄せが新に回ってきてしまった。「牧野には懐いているようだし、どうにか津田を連れてくるように」とやけに体の分厚い顧問に肩を叩かれてしまったら、もう断れない。本当は「懐かれてるんじゃなくて、ナメられてるだけです。ぼくが行っても無駄かと」とでも言いたかったが、あいにく新は根っから体育会系だった。上には逆らえない。

昨日の晩のうちにインストールしたグーグルマップ片手に津田の住むアパートの一室の前に立っている。失礼ながら、息子に全国区で陸上をさせる余裕のある家には見えなかった。

冒頭に戻るが、新は自身のしていることをもう一度振り返った。

部活の先輩が予告もなしに早朝から家に尋ねてくるというのは、いくら津田が相手でもやっていいことなのだろうか。彼も家族と一緒に住んでいるだろうし、早朝からチャイムを鳴らして睡眠時間や支度の時間を削ってしまうのはとても迷惑だ。行けば間違いないだろうと考えなしに訪問したが、今更こんなに悩むなら、電話をかけるかLINEを送るかにすればよかった。

ドアに背を向けかけたところで、もう一度向き直す。

それでも、津田が退学したら大問題だ。新は津田が高校に入学し、自身が樹立した3000m障害の日本記録を塗り変えられてからというもの、一度も彼に先着できていない。というか彼は、この競技に関しては入学後から負け無しだから、先着できた日本人は存在しない。万年2番手として、彼に勝ちたいと思うことはあれど、彼さえいなければと思うことはないから、津田に勝ちたい自分のためにも彼を叩き起して学校に連れていかなければならない。

時刻は7時40分。あと10分以内にここを発たなければ間違いなく遅刻する。

意を決してチャイムを鳴らした。


「何、宅配?」


20秒ほど間、それからガチャガチャと乱暴に鍵が開かれ、額をギリギリ掠めるように扉が空いた。出てきたのは、長距離選手には珍しく180cmある新と、たった5cmほどしか目線の変わらない大柄な女性だった。肉食獣のような瞳が彼にそっくりだ。間違いなく津田の母親だろう。


「牧野新です。津田...松利くんの部活の先輩で」


ドアに頭をぶつかりかけたことでドッドッドと高鳴る心臓を押さえつけながら名乗ると、女性は納得したように「ああ」と返事し、「ショウリ!!」と玄関から見て左側の部屋を怒鳴りつけた。新には姉がふたりと妹がひとりおり、様々なタイプの女性に囲まれて育っているが、ノーモーションで腹から声を、しかもアパートで出せる人には初めて出会った。予測できなかった早朝からの怒声に、驚きで体が固まる。


「マキノアラタって言ったっけ?それ...あの牧野、ふ、合宿でエロ本持ち込んで部員の前で怒られた...」

「...ちがァっ、くはないんですけど、や、そんなに広まってる話なんですか?」



全くもって予想していなかった方向からどデカい爆弾をぶち込まれたように飛び跳ねた。なぜそれを、と言うまでもない。間違いなく津田がチクった。あんにゃろ、そんなにぼくのことが嫌いか。

確かに合宿のアダルト本事件は、こっそりと年齢制限のある漫画雑誌を持ち込んだ後輩が男子の長距離部門で使っていた部屋に置き忘れ、それが顧問に見つかったところから始まる。

しかしそれには続きがあるのだ!

新は事実無根。それどころか、アダルト漫画が持ち込まれたことすら知らなかった。

合宿最終日の朝食後、新たち長距離部門の部屋を使用していた生徒が前に来るように言われ、顧問がその漫画を高々と掲げたことで初めて知った。「誰のものだ」と熊のような恐ろしい気を放って犯人に自首を勧めた顧問に新は思わず身震いをして、ふと右隣に首を向けた瞬間に新の10倍は震えている1年生を見て全てを悟った。

ここは自分が先輩として、恥を買って出なければいけない。新の視線に気がついた1年生と合った目には涙の膜が張っている。観念したように右隣の後輩の喉仏がごくりと動いた瞬間、新は勢いよく挙手をして叫んだ。


「その『乱交夏合宿〜マネージャーの俺が選手の性欲処理だなんて聞いてない〜』はぼくのです!!」


そして静寂。これは一生ネタにされるだろうなと、凪いだ心で考えていた。



地獄の思い出が蘇り、その場でのたうち回りたくなった。ここで後輩を庇って...などと言い訳をしても怪しいし、情けない。筋は通すものだ。はい、そうです。ぼくが持ち込みましたと言わなければいけない。


「知らないけど広まってんじゃね、高校生ってそういうの好きだろ。まあ松利がめずらしく自分から話してきたんだよ。後輩庇ったんだろ?『あんまり必死だから、みんな新だと思ってないのに新が持ち込んだことになって場がおさまった』って。カッケーじゃんおまえ」

「やめてください....」


津田くん大好き!!

どうにかして全ての尊厳が破壊されることを回避した。なんと津田は、物語のクライマックスである新の宣言だけを抜き取らず丁寧に説明してくれていたようだ。本当に助かる。津田には嫌われていないかもしれない。


「後輩庇うし、言葉遣いキレーだし、おまえ女きょうだいいるよね?そんな感じする」

「それ、よく言われるんですけど、分かるものなんですか?姉2人と妹1人の4人きょうだいです」


「4人か〜」と独りごちる津田の母から視線を外す。嵐が過ぎ去り、どっと疲れがのしかかってきた。帰りたい、というかなんで来てしまったんだろう。やっぱり引き返して、津田のことは電話で起こせばよかった。そもそも、親しくもない後輩のためにここまでしてやろうと思わなければよかった。恥をかいたし過剰に驚いた。そして新が今まで運が悪いと思ったことの大半、いや「同じ時期に津田松利がいる」こと以外は全て自分の性格のせいだと気がついてしまった。


「つか、アイツ顔も性格もアタシ似なのに男の趣味は全然ちげえな」

「えっ、あ、はい...?」


先程の大声と黒歴史に一日ぶん驚いた新に追い打ちがかけられる。半生の反省を行ううちに、完全に専門外の話が始まってしまったと思った。左側の部屋からかすかに足音がして、頼むから早く身支度を終えてくれと強く願う。日本記録保持者なんだから、身支度の速度でも日本上位にくい込んでくれとめちゃくちゃな暴論をぶつけた。


「いや、アイツの親父、チビな上に地黒な感じだったし、毛も黒いんだよ。でもアラタはでけえし白いじゃん」

「あっ、はい」


お母さん似なんだ、とふと思った。まあ似てるしな。話の方向性は全く見えないが、大方「男の趣味」というのは恋愛的な意味ではなく仲のいい友人を指すようなものだろう。彼の同級生のことにはあまり詳しくないが、それを除けばいちばん長い時間を共有してコミュニケーションをとる相手は間違いなく互いだから、彼の母にとってはそこまで違和感のある言い回しではないのだろうか、と結論づける。...「親しくない後輩」という評価は撤回しなければいけないかもしれない。


「はよ」

「『はよ』じゃないですよ。きみ、ぼくが来なかったらどうするつもりだったの」

「来たからいいだろ」

「そうだけどさ〜...」


話題の中心にいた津田松利がのそのそとやってきた。助かったという気持ちの反面、きみがちゃんとしてたらぼくは朝からこんなに頭を回さなくてすんだのにとこっそり悪態をつく。

腕時計を見ると、7時46分だった。登校時刻には間に合うだろう。彼の母が「早く行けよ」と欠伸をしながら玄関のそばに置かれてた弁当箱で津田の頭を叩く。


「朝早くからすいません、もしかしたら明日も来るかもしれないんですけど...」

「別にいいよ。また来な」


気乗りのしない言葉に曖昧な返事をし、ようやく外に出る。背中に大量の汗をかいていることに気がついた。

気温は、玄関前で逡巡していた時よりも上がっているように感じる。それでも肌寒い。


「おまえ、どの大学行くの」


少し歩いたところで、思い出すように尋ねてきた。沈黙が苦しいと感じる性格でもなうように見えるから、きっと本当に気になっただけだろう。


「うーん、いくつか声をかけていただいてるんですけど、関西のほうかな。一人暮らしで」

「なんで」

「あっちは箱根に出ないでしょ。ぼく、サンショーのほうに本腰入れようと思ってるんですよね。中途半端にしてたらきみに置いてかれるってわかったから」


サンショーとは3000m障害のことだ。トラック内のハードルや水濠を越える、陸上の中ではあまり知られていない競技。家族やコーチと話し合って出した結論を津田にもそのままに伝える。「置いていかれる」と口に出した時、首筋を鋭い牙に噛まれたような恐怖が走った。彼を追い越すことに夢中だったのに、いつの間にか置いていかれていました、なんてあまりにも恐ろしい結末だ。


「俺は駅伝もやりたいけど」

「別に駅伝も障害も両方取ろうとすることを否定してるわけじゃありませんよ。ぼくの問題です」

「そっか」


不服そうに自分は駅伝もやる宣言をすると、今度は不自然に黙り込んだ。性格上普段から話さなくなることはあれど、この沈黙はなんだか不思議な気持ちにさせた。言わんとしていることがあるのに、それを言えずにこちらを伺うようなしぐさ。先輩として助け舟を出してやりたい気持ちはあれど、なんの話をしたいのかも、そもそも彼が会話を求めているかも分からず何も出来ない。彼とはそういう関係だ。

ぴりぴりとした空気が漂う。気まずい、ぼく何かしちゃったっけ。

ため息をこらえてあれこれ考えていると、右隣から何かが飛んできた。間一髪で両手で受け止める。本日2、3度目の不意打ちにまたも鼓動が速まり、先程までは尖って痛い空気を放っていた後輩に勢いよく顔を向ける。張り詰めた空気とは裏腹に、仏頂面のこちらを見ていた。あ、楽しそう。


「やるよ。そのキーケース、結構いいやつだぜ」


キーケース。その言葉に、飛んできたものをキャッチしてから暇させていた両手を開くと、黒い四角が現れた。朝の日差しを受けてつやつや光っているが、そのつやは控えめで上品だ。誕生日などの記念日を外れたこの時期やモノの良さを見ても新にとっては思わぬ贈り物だが、卒業祝いだろうと素直に感謝を伝えて受け取る。失礼ながら、彼の割にはセンスのいいものを贈ってくれるなと考えてしまった。


「年季入ってんのは許せよ。親父の遺品だとどうしてもな。まあ使ってねえモンらしいしいいだろ」

「へ〜...は、遺品?!もっ、らえませんよそんな大事なもの!」


そんなもの、いち先輩の卒業祝いに渡さないでほしい。新でも知っているブランドがひっそりと刻印されたキーケースを慌てて押し返そうとするが、「ありがとうっつったんだから責任持て」と手のひらに収められてしまった。

気づけば、校門の中に入ってしまっていた。猶予は約50m、1分もない。

さすがに「父親の遺品」には勝てないが、金額では良い勝負をしてくれそうなものを、新はひとつだけ持っている。一瞬のうちに信じられないくらいぐるぐると迷いこんだが、覚悟は決まった。左腕から慣れた手つきでそれを抜き取り、津田の着ている学ランのポケットに突っ込む。もう下駄箱の前に来ていた。

今から7年前、小学5年生のときに行われたオリンピックの長距離で、とある選手がつけていた腕時計。誕生日プレゼント3年分とサンタクロース1年分を引き換えに得た頑丈で憧れの象徴だったものだ。

これできみとは決別だが、元気にしててくれよ。

半泣きで腕時計にそう伝えると、足早に下足入れに向かった。


「ありがたく受け取るけど、いっこ間違ってる。大事だからおまえに持ってもらうんだよ」


人もまばらな3年生の下足入れのゾーンにわざわざ寄った後輩は、少ない人間の注目を一身に引き寄せる。靴を取り替えるためにしゃがんだ新を覆うように見下している。ならばこちらも負けてはいられない。走りでこれから勝とうとしてる相手に、口で負けたらもう二度と勝てないだろう。負けじと立ち上がり、新よりほんの少し下にある顔だけを見つめた。

かちり、歯車が噛み合う。

前言撤回。今日の朝、きみを迎えに行くことができてよかったよ。


「わざわざ寄越さなくても、全部奪ってあげるからね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

牧野新の受難 東山蓮 @Ren_East

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ