第3話 文化祭
リョウと出会ったのは十年以上も前、中学三年生の秋だった。
水泳部が強いこの高校を目指すことはほとんど決まっていたけれど、一応学校の雰囲気も知っておこうと足を運んだ文化祭でのこと。
突き抜けるような明るさで屋台の呼び込みが飛び交い、香ばしく煙る鉄板焼きがお腹の欲を刺激する。
やけに上手いイラストの描かれたベニヤ板の看板と、クラスごとに特色のある教室での出し物の案内。メインステージからは時折上がる歓声が聞こえてくる。
涼やかな秋風に熱気が混ざって、あのときは高校生がすごく大人に見えていて。不思議な高揚感に押し上げられるような気分で西館の外階段を上りきった。
そこで水泳部は男女混合のフリーリレーをしていた。
初代から続いている伝統の文化祭パフォーマンスだ。だから私が入部してからも毎年やってきたけれど、やっぱり「憧れの水泳部」として見たこの年のものは特別だった。
高い空から降り注ぐ陽射しにきらきら光る水面や、背高なイチョウの色づき始めたフィルタを通した小さな木漏れ日や、プールサイドで声を掛け合う部員たちのようす――すぐに思い出すことのできる、言い表しようもない感動を抱いたあの日のこと。
なにより、とぽんと跳ねる水の音が、よかったから。
気づいたときにはフェンスに寄りかかってストローを咥えていたものだ。
「きみ中学生?」
それはたしかに少年のもので、けれど声変わりをしたのか判断しかねるやわらかな声だった。
突然の問いかけ。驚きすぎて跳ねた身体にびゃらんとフェンスが鳴る。清涼な音を飲んでいたのに急に変な味が混ざったことで顔をしかめると、彼は「あ、ごめん」と笑う。
「……いえ、あの、びっくりしすぎちゃって。その、今年受験で、ここに入れたらいいなと思ってて…………えっと、あなたも、中学生?」
曖昧で薄い笑みを浮かべた表情は大人びて見えるけれど、同年代の雰囲気があった。
「そ。水泳やりたいから、ここか、私立だけど望明で迷ってて。でもまあ――」
だって。
言葉を切った彼の視線の先には私の指に挟まったストローがあって、反対に私の視線は彼の指に向いていた。まさに今使われていたであろうストローに。
それは確信だったのだと思う。
水泳部に入りたかった私たちは、ここで、このプールサイドで、手放せない音を見つけてしまった。
いわゆる吸音世代。今の元号に――音を飲める時代になってから生まれた私たちは、ストローで音を飲むことを当たり前にしてきた。だから子供だろうが、簡単に手のうちを見せることはしない。
たとえストローを向けた先が明らかであったとしても。少なくとも明言は避ける。
「勉強は? できるほう?」
「まあまあ、かな……教科によるというか」
「へえ。じゃあお互いがんばろうね?」
今思えばあの笑みはこちらを馬鹿にしていたのだろうけれど、当時はただ、同じ音にストローを咥えた
あるいは明らかだったからこそ、それ以上の会話を持たなかったのか。
文武両道を掲げるこの人気校の受験戦争を、それでも互いに勝ち抜いてくるだろうと。ここがいずれ、母校になるのだろうと。
このプールの水を、自分の身体で鳴らすようになるのだろうと。
*
忍び込んだ母校のプールで吸う音は、あの日の感動を内包している。
侵入者に水面を揺らすことを許した深夜のプール。ちゃぷ、ちゃぱん。鳴るのはたった二人分の波音だけど、遠く不思議な喧騒が蘇る。
なんとなく、秋になると昔のことを話したくなる。
「中三のときって」
共有した中三の時間はあのひと時しかないから、どれだけ言葉を省いてもリョウには通じるものだ。
「うん」
「リョウ、声変わりしてた?」
「ん、どうだろ。してた気がするけど。今とあんま変わらなくない?」
「さすがに変わらなくはないと思うけど」
「老けた?」
「そりゃね」
はは、と苦さを滲ませた声でリョウは笑った。
学生の頃であれば、ここで彼は何食わぬ顔をしながら私へ水をかけたことだろう。私が訂正するまで延々と。それはもう支配者面で。
けれど最近は違う。
そういうふうに、私たちは少しずつ変わってきている。
リョウの生み出す音を吸うために咥えたストローから、そっと口を離した。
「……ヒカ?」
節操のない私の珍しい中断に、目ざとい彼は訝しげな表情になる。
「お気に召さなかったかな」
「や、そうじゃなくて」
あの日だけじゃないのだ。
「気に入ってはくれてるんだ」
「ちがっ……くはないけど」
このプールで、水泳部として過ごしてきた日々を、内包している。
沼にはまらなかった安堵を。結果を残した達成感を。
あの日の感じを思い出す私は、少しだけ立場を弱くしてしまう。
リョウの鳴らす音は欲深くて罪深い。だからずるい。
高校を卒業して、違う道へ進んだはずの私たちは母校のプールに繋がれたままで。未だ来ぬ、けれどいつか必ず抱くであろう激情を内包している。
こんなにも互いの音に依存して、いいわけがないのに。
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