第2話 ダイエット

 私たちが生まれる少し前に元号が変わり、日本は「音を飲める」時代になった。

 国民には専用の吸音ストローが配られ、大企業などには新時代に合わせた文化の発展に寄与するようお達しがあったという。

 時代が変わることに慣れた大人は多い。だけどIT化の波は社会の順応力を軽く上回った。システム周りの大規模な改修が追いつかなくて大変だったなぁ、とよく上司は言う。私が勤めているのはそれぞれの時代の特徴によって生きにくさを抱える人を支援する会社で、政府からの補助があるとはいえ、変化の影響をもろに受けるのだ。

 はたして次はどのような変化を迎えるのか、私は今から戦々恐々としている。

 ……その頃にはこの馬鹿げた習慣も終わらせているのだろうという、おかしな感慨とともに。


       *


 夜の学校に忍び込む。

 たいへんよろしくない行為だ。それでも私たちはなんとなく、そう、なんとなく、母校へ足を運ぶのをやめられないでいる。そこに――プールに水が張られている限りは、なんとなく。

「太ったね」「痩せた?」発言は同時だった。服の下に着ていた競泳水着。互いに見慣れた身体のライン。当然、変化にだって簡単に気づける。少し太ったらしいリョウが先に続きを言う。「失恋――じゃなくて喧嘩でもした?」

「残念。逆です。幸せ痩せ」

「語感が悪いし浮かれてるのもキモい」

「うるさいな」

 同じ高校の水泳部出身である私たちに、身体的な話題を出すことへの恥じらいはない。口先だけの軽やかな戯れを秋の夜風に流して、シャワーコーナーで水を浴びる。

 スタート台へ向かうリョウを確認。私はプールサイドに置きっぱなしのビート板を拝借。

 段差を一段下りると、真夜中の水はさすがに冷たい。満月は温もりを宿さない。それでも小さな勇気で身体を預ければ、とぽんと揺らぐ波はやわらかい。

 穏やかに始まりそうな夜長は、しかし、じゃぼんばしゃんと切り裂くようなしぶきの音にぐちゃぐちゃにされる。

 私は緩む口もとをそのままに、左手で抱えたビート板に浮力を任せて仰向けになった。

 右手はもちろん、口へ持っていくストローを。


 リョウは、飛び込みが苦手だ。フォームが上手く決まらないのだ。イルカみたいに頭から綺麗な弧を描くのではなくて、頭と胸あたりが同時に着水する。

 けっこう派手に水しぶきがあがるものだから、飛び込みには自信のある私は痛そうだなと思う。前に「痛くないの?」と聞いたときは「痛くない。でも上手く飛び込めてないのはわかる。あと失敗して太ももまで同時だとさすがに痛い」と返ってきた。いつも失敗してるじゃんとは言わないであげた。

 泳げばリョウはかなり速い。それに普段からなにかとそつなくこなす彼が不格好にばしゃんと着水するのはなかなか可愛らしいのだけれど、本人はずっと気にしているらしく人のいないところで練習している。私が見ているのはいいのだろうか。

「ねえ、飛び込みばっかやってないで、泳いだら? ダイエットにならないよ」

「ダイエットのために泳いでるわけじゃないんだけど」

 茶化したつもりがやけに真面目なトーンで返された。

 すぐ冗談だよと言えばいいのだろうけれどそれもなんか違う気がして、うっと黙ってしまう。こういうさじ加減はいつだって難しい。

「あっ、ちょっと」

 そんなふうに考えているとコースロープをくぐって水中から近づいてきたリョウにビート板をもぎ取られた。ついでに顎でスタート台を示される。

「ヒカの番」

「はいはい」

 難しいはずのさじ加減は、いつだって簡単にされてしまう。

 ここの水泳部は男女ともにそれなりの強豪校だ。そういう部はさらりとした人間関係のところが多いはずなのに、はっきり言ってうちの部は泥沼だった。主に恋愛方面で。

 でも、私たちは沈まなかった。

 私たちはお互いがいたから沈まずにやってこられた。確かめあうなんて恥ずかしいことをするつもりはないけれど、たぶんそう。

 だから彼との関係は、とても難しい。


 クロールを泳ぐ音を聞かれている。

 あまり息の続かない私は、本当はふた掻きに一度くらいのペースで息継ぎをしたい。けれど今はできるだけ長く頭を沈めておく。

 だんだん息が苦しくなってきて、ぷはっと水面から顔を出して、また引っ込める。

 そのタイミングで吸われたんだろうなと思う。

 考えるだけでくらくらしてくる。

 なにかが減らされている気がした。ある意味ダイエットっぽいような。

 実際に私、音を飲まれているわけで。


       *


「リョウ、ダイエットしたほうがいいよ」

「やっぱり? ヤバい?」

 プールサイドに腰かけて子供みたくバタ足をしていたリョウが、はは、と自分の腹を摘んだ。

 誤魔化すように微笑む彼の手の中には、座っているからという言い訳が通用しないレベルの贅肉。

 幸せ太りかな、と自然に湧いた思考を慌てて消す。

「触っとく?」

「いらん。早う消費したまえ」

 ま、これくらい脂肪をつけてたほうが沈まなさそうだけど、とはもちろん言わない。

 咥えたストローは、合図のつもりだ。

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