きみと嚥下

ナナシマイ

第1話 月見

 駅前ロータリーを望む歩行者デッキの手すりにもたれかかる。住宅街らしい古びた軋み。風はいい感じにひんやりしていて、けれど雑居ビルに入った居酒屋チェーンの鈍くこもった臭いが煩わしい。千鳥足のサラリーマンやら大学生やらが街灯の影に消えていく。

 零時五十分。終電は少し前に出発済みである。

 とはいえその終電に乗ってきた私には関係のないことだ。まあ、歩いて帰れないこともないのだけれど。

 深夜の待ち合わせ。さすがにこの駅で「今から夜を始めるぞ」なんて空気感の人間は私しかいなくて、いるのは華金を言い訳にすでにできあがった夜を持ち歩いている人たちばかりで。つまるところ行き場のないやる気を持て余すのが煩わしい。

 今感じている煩わしさは大体がここに帰結する。

 相手が遅刻することなどわかっていても、こちらは最終電車の動く通りに到着するしかないのだ。このあたりの線路はきっちり南北に走っているらしいなぁなんて、こぶし一つぶん西へ寄った満月を見ながらどうでもいいことを考えた。


 静かな靴音がして、隣に黒っぽい人影が並ぶ。私は思わずトレンチコートのポケットに入れていた金属製のストローを握りしめる。

「待った?」

「待たされること前提という意味では、べつに」

 遅刻魔な待ち合わせ相手――リョウもチェスターコートのポケットに手を突っ込んでいて、悪びれることなく頬を緩めた。

「はは、彼女相手なら遅刻しないんだけどね」

「あっそう」

「あれ、ヒカちゃん? 怒っちゃった?」

「もはや怒る気も起きないって」

「うーん、俺が彼氏だったら『待ってる時間も楽しいようふふ』って笑ったほうが可愛いと思うかな」

「私の彼氏はそもそも遅刻しないから」

 一瞬だけ黙ったリョウはにこりと微笑みを作って「いたんだ。いつから?」と聞いてくる。興味なんてない。恋愛にこれっぽっちも縁のなかった私に恋人ができたことに驚いているだけだ。

「春先。今年の」

「へえ。よかったね」

 べつに構わない。私だって半年経った今でも驚いている。


 向かうのは歩いて二十分くらい離れた場所にある私たちの出身高校だ。駅前の大通りを渡ると途端に道が暗くなって、そんな住宅街を抜け、畑の広がる中にぽつんと建っている。

 りんりんしゃらしゃら秋の音がして、アラサー目前にがくんと体力の落ちたリョウのわずかに乱れた息と混じる。秋の花粉がまだ続いているらしく、少し鼻が詰まっているような音だ。ポケットに入れたままの手はまだ出さない。

 今夜はよく晴れていて、月明かりから逃れるすべもなくて。

 私たちがこうして会うのは月の丸い夜が多い。あんまり暗いと危ないからだけど、私はそれをせめてもの償いだと考えてしまう。

 潜まず、月のもとに曝そうと。

 リョウはまあまあ最低な性格をしているけれど、私も大概だ。

「ヒカ、だめだよ」

「……わかってる」

 ポケットの中にあるストローを痛いほどに握っている私に気づいたのか、リョウがふっと意地悪げに笑った。焦らすように歩みを遅め、こちらの反応を覗う。

 腹が立つ。

 私を弄ぶリョウにも、彼の思惑通りに焦れてしまう自分にも。


 母校はもう見えている。あともう少し、もう少しなのだから、私だけでも先に到着してしまおうと考えて、大きく一歩を踏み出したところで肘を引っ張られる感覚。

 絶妙な力加減で掴んでくる手に、ポケットの中にあった私の手は簡単に引き出された。

 リョウの手の中にあった物が私の袖口のボタンに当たって。

 か――とかすかに硬い音がした。

「やめて」

「やだ。ゆっくり行こうよ。せっかく月も明るいし。ね?」

 なにが、ね? だ。こんなときばかり可愛こぶるんじゃないよ。月が明るいのはいつものことでしょ。というかなんで私より手が冷たいの。

 言いたいことはたくさんあるのに、どれもこれも唇から飛び出す前に飲み込んでしまう。ああ間違えた。今は、心臓が大運動会中だから変に飲み込んだら――

「……っ、ぇほっ」

 触れていた手が離れる。

 自分の言葉が胸に詰まるなんて、二重に痛い。それを「あらら」と笑って見ているリョウはやっぱりひどい男だしもう我慢しなくていいんじゃないかと駅からずっと握っていたストローを咥えながら顔を上げて傍観者を睨んだら彼はすでに自分のストローを口にしていた。

「大変な顔になってるよ」

「さいてい」

 慣れたようにタイミングを見計らって、ちゅう、と私の声を吸われた。

 私も負けじと彼の立てる音をストローで吸う。

 飲み込めば、それは青春という袋を裏っ返しにしたような、苦くてとろりとしていて、けれどどこか甘い酩酊の味。

「知ってる。ゆっくりって言ったばかりなのに、我慢できなくて、ごめんね?」

 でもヒカの音は美味しいから、と目をやわく細める彼に、どんな味がしたか聞いたことはない。さすがに聞けない。

 秋を含んだ鼓動の音が少しだけ私を満たす。これは罪なのだろうか。答えはノーで、そしてイェス。

 ふたたび母校へと歩きだした私たちを、丸くて明るい月が見ている。

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