壁になった女の子④

「オー、白蔵。ちょうどよかったァ、ヒマなら少し手伝ってくれない?」


一人で図書室へと向かう道中、階段からぬっと顔を出した大男に俺は面喰らってしまった。彼は、ユーラ・レイバーン先生。教師と生徒含め、この学校で隠神よりも背の高い唯一の人物である。

青年時代はヘビー級のボクサーだったとかで、その肉体は四十を超えた今でも鋼のような筋肉に覆われている。こんな厳つい人物が生徒指導の役割を担っているというのだから、不真面目な生徒たちの肩身は狭い。

隠神を"最強の不良"と称すなら、レイバーン先生は"最恐の教師"。我が校のパワーバランスを保つ二大巨頭だ。おかげで椰子木高校の不良というものは、表じゃレイバーン先生に怯え、裏じゃ隠神に怯えながら、細々と不良稼業を営んでいるらしい。


「手伝いって、なんのですか?」

「落書き消しのさ。ほら、見てみなよコレェ」


レイバーン先生が消化栓の扉を開く。内側には、年季の入った落書きがいくつも塗り重なっていた。最近描かれたと思しきものもあれば、描いた張本人はとっくに卒業しているだろうと一目でわかるものもある。

いかんせん古い校舎だから、このような光景は珍しくなかった。目立つ落書きは生徒会でも消して回っているのだが、一見してわからない場所に描かれたものはどうしても見落としてしまう。先生はなにかの拍子でこの落書きスポットを見つけ、掃除することにしたらしい。彼の握るバケツには、洗剤やスポンジが乱雑に突っ込まれていた。


「ああ先生、こういうのは俺がやりますよ。より良い学園づくりが生徒会の務めですから!」

「ハッハッハ、頼もしいねェ。でもけっこうな量だしさァ、二人でちゃちゃっと消していこうか」


一人で引き受けようとしたのだが、レイバーン先生は「二人でやったほうが早いっショ」と笑って手伝ってくれた。こんな雑務ひとつ生徒に押し付けたって問題はなかろうに、律儀な先生である。

不真面目な生徒には悪鬼羅刹のごとく恐れられている彼だが、ごく一般的な生徒に対しては優しい先生なのだ。曲がりなりにも真面目に学校生活を送っている俺は、レイバーン先生とは良好な関係を築けていた。


「アーアー、どうして落書きなんかするのかねェ。オレには若者の気持ちは理解できないよ、ホント」

「どういうつもりなんでしょうね。特に、自分たちの名前を相合傘に書き入れてるカップル。軽犯罪で誓った愛なんてロクなもんじゃないですよ」

「なんか白蔵、カップルへのアタリが強いね? キミ、彼女とかいないのォ?」

「はッ! 俺は、生・徒・会・長ですよ? 全校生徒の模範となるべきこの俺が! 不純異性交遊なんて以ての外!」


そんな強がりを言いながら、油性ペンの頑固な落書きをゴシゴシと消していく。

消火栓の扉裏にはいろいろなことが書かれていたが、特に多いのが恋愛系の落書きだった。「オレらの"愛"は永遠に……」だの、「卒業してもずっと大好きだよ」だの、「アオイさん、また会いたい」だの……鳥肌が立つったらない。

愛を誓うも囁き合うも勝手だが、そういったやり取りはぜひ当人同士で完結させていただきたいものである。その気持ちを消火栓の扉の裏に書き残す意味がまるでわからん。縁もゆかりもない人間に愛の言葉を刻まれる消火栓くんの気持ちを考えたことがあるのか。もしも俺が消化栓なら、こんなところに相合傘を書くカップルなんて別れてしまえ、と念じるに違いないのに。


「ところで白蔵。手伝いを頼んでおいてなんだけどさァ、もしかして生徒会の仕事の最中だった?」


スポンジにエタノールを染み込ませつつ、レイバーン先生が申し訳なさそうに聞いてきた。生徒会の仕事中といえばそうなのだが、別段急ぎというわけでもなかったし、気を遣っていただく必要はないのだが。


「校内の美化に努めるのも生徒会の仕事の一環ですから。それに、ちょっとオバケについて調べていただけなので」


レイバーン先生は「オバケ?」と呟いて手を止める。

苦手なピーマンを前にした子供のような、服の中に蜘蛛が入り込んでしまったときのような。レイバーン先生の顔には、この上なくわかりやすい嫌悪感が浮かんでいた。


「レイバーン先生、もしかしてオバケ苦手ですか?」

「大っ嫌い。特にジャパニーズホラーが苦手でねェ……こっちに住んで二十年以上になるけど、いまだに慣れないよォ」

「先生がオバケを怖がるなんて意外です。てっきり怖いものナシなタイプかと」

「ゾンビなんかは、べつに怖くないんだけどねェ。銃もきくし、殴れば倒せるし。やはり暴力はすべてを解決するのよ」

「教師の口から『やはり暴力はすべてを解決する』なんて聞く日がくるとは……」

「でも日本のオバケって基本、透けてるじゃない? 物理攻撃無効のスキル持ってるのよォ、こっちのオバケ。日本人ってチートスキル好きだよね。死んだら無敵になった件、じゃないのよホントさァ」


ようはこの先生、物理攻撃が通じない存在が苦手ということらしい。オバケは殴れないから嫌い、か。対人戦ではそうそう負ける心配のない元ボクサーならではの感性かもしれない。

一瞬わかりあえるかと思ったが、俺と先生の「オバケ嫌い」はベクトルがだいぶ違うような気がする。なにしろ俺は、ゾンビも普通に怖い。レイバーン先生の考え方は、どちらかといえば隠神に近いのかもしれなかった。


「でも白蔵はオバケ好きなんだ? わざわざ調べてるってコトはさァ」

「いえ嫌いですね。消火栓に愛の言葉を書き残すカップルより嫌いです」

「よっぽどキライじゃん。じゃ、どうしてオバケの調べものなんか?」

「実は今、生徒会で百鬼椰行の撲滅キャンペーンみたいなことをやってまして」


レイバーン先生に事情を話した。百鬼椰行を解決しないと隠神に学校中の備品を破壊されかねない……なんて伝えるわけにもいかないので、そこらの事情はぼかしつつ。

現実的な視点から百鬼椰行を撲滅しようとしていることを伝えると、レイバーン先生は「いいじゃん!」と賛同してくれた。同じオバケ嫌いとして、そこのところはわかりあえるようだ。


「あっ、だけど生徒会でってコトは隠神も参加してる感じィ?」

「はい。変な奴ですけど、仮にもうちの副会長なので」

「……もしかして百鬼椰行の撲滅ってさァ、隠神が言い出したコトだったりする?」

「そうですけど、よくわかりましたね」

「いやァー……アハハ……」


隠神の話が出た途端、レイバーン先生はなんとなく居心地悪そうにしていた。他の先生ならともかく、レイバーン先生は隠神を恐れたりするようなタイプじゃないと思ったんだが。


「あー、この辺は落ちにくいなァ。よし、チョット強硬手段で消すかァ!」


ぎこちない空気をごまかすように、レイバーン先生は明るい声で掃除に戻った。

先生は油性ペンの落書きに研磨剤を塗布し、スポンジをナイロンたわしに持ち変えてガシガシと削っていく。ここまできたら、消すというより削っているようなものだった。

おかげで落書きは綺麗さっぱり消え去ったが、ついでに消火栓の赤いペンキも少し剥がれて消えている。レイバーン先生は「やべ」と呟いてこちらを見たが、すぐに「マァ……必要な犠牲だよね、うん」と適当ぶっこいていた。まぁ先生がいいと言うのなら、いいんだけど。


「ところでレイバーン先生って、この学校に来て何年目になります?」


ふと思い立って、レイバーン先生にそんなことを聞いてみた。"壁になった女の子"の調査のためである。

もし本当にこの学校で女子生徒の行方不明事件なんてものが発生していたなら、当時の教師陣がそんな大事件を忘れているはずがないからだ。


「"今は"四年目に突入したトコ」

「今は?」

「椰子木高校に赴任してくるの、二回目なんだよ。十年チョット前に異動したんだけど、また戻ってきたんだよねェ」


話を聞いてみれば、レイバーン先生が初めて椰子木高校に赴任したのは2001年なのだそうだ。それから十年ほど勤務したあと姉妹校に異動して、三年前に椰子木高校に戻ってきたのだという。

これはツイている……! 椰子木高校はこれでも私立ゆえに長年留まっている教師も少なくないが、さすがに二十年も昔のことを知っている教師は珍しい。レイバーン先生を椰子木高校の生き字引と表現しても決して過言ではないだろう。


「じゃあ先生、"壁になった女の子"っていう怪談を知ってますか!?」


俺は"壁になった女の子"について調べていることをレイバーン先生に話した。

知りたいのは、体育館の建て替え時期に行方不明になった女子生徒がいたかどうか。レイバーン先生は訝しげに話を聞いていたが、やがて「そんなバカな」と口を開いた。


「今の体育館が建てられたのはオレが椰子木高校にきてすぐのころだったケド、行方不明になった子なんかいなかったよォ」


これはかなり有力な証言だった。レイバーン先生はさらに「少なくともオレが椰子木高校にいる十数年の間、行方不明者なんか一人も出てないから」と付け加えてくれた。

レイバーン先生の証言が事実なら、"壁になった女の子"の怪談における「体育館の壁に女子生徒が埋まっている」という前提が覆る。実に強力な否定材料だ。失踪事件など起こっていないと判明しただけで、この怪談の怖さは急激に目減りしたといっていい。蟷螂坂のクラスメイトの子も、それを聞けば恐怖がかなり和らぐのではないだろうか。


「そうそう、体育館といえばさァ。誰も失踪はしなかったケド、建て替えを巡ってちょっとした事件があったんだよ」


レイバーン先生がそこまで話したところで、消火栓の落書きはあらかた消し終わった。掃除用具をバケツの中に片づけて、俺はレイバーン先生に追随して歩き出す。


「昔の椰子木高校にはさァ、体育館に卒業壁画を残す文化があったんだ。えーと、たしかこの辺に昔の写真が……あ、ほら、コレだ」


掃除用具入れに向かう道中、ちょうど図書室の前を通った。ここの大きな掲示板には「椰子木高校のあゆみ」と題された数十枚の写真が飾られている。

創立当時の木造校舎。今とはデザインの異なる制服に身を包んだ男女。中庭にそびえたつ大きな木。俺の知る椰子木高校とは全然違う、過ぎ去りし時代の椰子木高校を収めた写真が並んでいる。旧体育館の写真はそのなかに紛れていた。

旧体育館の壁には、めいっぱいにカラフルなイラストが描かれていた。椰子木高校の制服に身を包んだ男女や、色とりどりの花々、魚や動物や、謎めいたキャラクター。モチーフはさまざまだ。よく見ると区画ごとに絵のタッチが違い、飛び飛びに「○○期生卒業記念」という文字が踊っている。どうやら毎年、卒業生が描き足していったものらしい。


「へぇ、昔の体育館ってこんな感じだったんですか」

「すごいモンだろォ? 体育館が丸ごとアート作品! って感じでさァ。毎年、美術部の三年生が描いてたんだよ」

「今の体育館にはこういうの描かれてませんよね」

「そー、だから建て替えの当時はけっこうモメたんだよ。新築の体育館に卒業壁画を描かせるかどうかってのは、教師の間でも意見が分かれてねェ」


現在の体育館に卒業壁画はない。当時の教師陣の議論の結果、長く続いてきた卒業壁画の文化は潰えることとなったようだ。

レイバーン先生はどちらかというと卒業壁画を継続することに賛成の立場だったそうだが、反対派の気持ちも正直わかる。建て替えですっかり綺麗になった体育館にベタベタと塗料をぬりつけるのは、いかに卒業記念の名目だろうと勇気がいりそうだ。


「当時の椰子校生……特に美術部の生徒にとって、卒業壁画は高校三年間の集大成みたいなモンだったからねェ。新しい体育館に壁画は描けないってわかると、撤回を求める署名活動なんかも起こってさァ」


卒業壁画が禁止されたことに対する当時の生徒たちの反発は、それはもう凄かったらしい。美術部員が中心となってデモやボイコットまで発生していたそうだ。

しかし、そこまでしても決定は覆らなかった。なんら進展は得られないまま、彼らの卒業の日はじわじわと近づいてくる。騒動の中心だった美術部の三年生は受験や就職活動に忙しくなり、抵抗勢力の勢いは日に日に衰えていくかに思えた。


「だけど、美術部は秘密裏にトンデモナイ計画を進めていたんだよ」

「とんでもない計画?」

「夜中の学校の忍び込んで、一晩で卒業壁画を描こうとしたのさァ」

「勝手に、ってことですか?」


レイバーン先生は「そう。すごいコトするよねェ」と言って笑った。風化した今でこそ明るく話せるが、事件当時は決して笑いごとではなかっただろう。

決行したのは美術部三年生の六人組だった。彼らは閉門後の校内にこっそり侵入し、完成直後の体育館の壁に卒業壁画を描こうとしたのである。無許可でそんな騒動を起こせば、退学になる可能性だってあるはずなのに。卒業壁画を描くために退学だなんて馬鹿げた話ではあるが……当時の美術部員にとって、卒業壁画はそれだけ大事なものだったのだ。


「それで壁画は完成したんですか?」

「イーヤ、途中で警備員に見つかって御用。オレも夜中に呼び出されたりしてさァ、大騒ぎだったよ」


結局、美術部員たちの一大計画は未完のまま終わってしまった。本来であれば完成まで何ヵ月もかかる壁画をたった一晩で完成させようというのだから、はじめから無謀な計画であったことには違いない。

真っ暗闇の中で途中まで描かれた一部分も、すぐに消されてしまったそうだ。この計画に参加した生徒には一週間の停学が言い渡され、これをもって騒動は沈静化したらしい。


「そういうコトもあって新しい体育館をよく思わない子たちがいたからさァ。壁に人間が埋まってるとかっていう変な噂は、それで流されちゃったのかもねェ」


レイバーン先生はしみじみと言った。たしかにあり得そうな見解だ。

つまるところ"壁になった女の子"という怪談は、新しい体育館に対する反感の結晶だったのかもしれない。根も葉もない悪口が人から人へと渡り歩くうちに、やがて怪談という形をとったのではないか。

建設されたばかりの体育館に生徒のグループが忍び込んだという話も、"壁になった女の子"の前段にどことなく似ていた。美術部員の逸話が捻じ曲がって伝わり、今の怪談に繋がったのだろうか。なんだか一気に"壁になった女の子"の真相に近づいたような気がした。


「オー、雨が降ってきたねェ。手伝いありがと、白蔵。そろそろ帰り支度をしてきな」


空はいつのまにか鉛のような雲に覆われ、すでに小さな雨粒が窓を叩き出していた。

今朝はよく晴れていたから、傘なんか持ってきていないのに。一応、このあと図書室にも寄ろうと思っていたのだが……今日のところは早めに退散したほうがいいかもしれない。

俺は「そうですね、雨脚が強くなる前に」とレイバーン先生に挨拶をして、急ぎ生徒会室に戻った。荷物を取りに向かう間も、窓の外では蛇口をひねったように雨の勢いが増していく。学生カバンを回収するころには、すっかり土砂降りになっていた。まだ日没には少しだけ早いが、青黒い闇が景色を覆いつつある。


「どうやって帰ろう」と独り言ち、なにげなくズボンの右ポケットを漁る。人差し指が、布を突き抜けて太ももに触れた。ポケットの底に穴が開いているのだ、と気づく。

まずい。右ポケットに入れておいたはずの自宅のカギが消えている。左ポケット、胸ポケットと、ダメ元で体じゅうをまさぐってみたがどこにもない。わかっていながら学生カバンの中も調べてみるが、やっぱりカギは見つからなかった。

知らぬ間にポケットの穴から落ちてしまった、と考えるより他にないだろう。困ったことに、いつどこで落としたのか見当もつかない。


「とりあえず来た道を戻ってみるか」


生徒会室のあるB棟三階から、先ほどレイバーン先生と一緒に落書き消しをしたA棟一階まで、地面に注意を向けながらそろそろと歩いて戻る。

突然の豪雨にみな慌てて帰ってしまったのか、その間に誰かとすれ違うことはなかった。不自然に白く光る天井の電燈が、誰もいない廊下をじっと照らしている。ざあざあと雨音は響いているのに、やたらと静かだった。

先ほどの消火器のところまで戻ってきてみたが、残念ながらカギは落ちていなかった。あと、今日行った場所といえば……体育館裏か?

ここから体育館裏まではほんの一分とかからずに移動できる。外は相変わらずの豪雨だが、なるべく屋根の下を通るようにすれば大して濡れもしないだろう。しかし。


「一人であんなとこ行きたくないなぁ……」


体育館裏。すなわち"壁になった女の子"の出現ポイントだ。

レイバーン先生のおかげで、それが根も葉もない噂である可能性は高まったが……まだ完全に解明できたわけではないし、一人で体育館裏になんか絶対に行きたくなかった。

あの場所になんの問題もないことは、さっきみんなで確認したじゃないか。今行っても当然、なんの変哲もない壁があるだけだろう。オバケなんかいない。オバケなんかウソだ。そう頭で理解していても、やっぱり怖いものは怖い。ああ、こんなことなら隠神を先に帰したりするんじゃなかった。


「ま、まぁ、アレだ。鍵が落ちてないか見るだけだ。壁を見ないようにサッと通り過ぎればいいわけで」


あえて口に出して、自分に言い聞かせた。これしきで挫けていては、すべての百鬼椰行の解明なんて夢のまた夢だ。きっとこの先、一人で恐怖に立ち向かわなければならない局面はいくらでもくる。

俺は「よし」と一声出して、一大決心のもと外へ出た。体育館に最も近いA棟一階から抜けて、なるべく軒下を通るように体育館裏へと近づいていく。壁伝いに歩けばさほど濡れないだろうという期待は残念ながら外れ。ごうごうと唸る強風が、霧吹きのように壁を打ち付けていたからだ。ものの数十秒で俺の制服はしっとりと水を含み、濡れずに歩こうという考えはすっかり洗い流されてしまった。


びしょ濡れになって辿り着いた体育館裏には思わぬ光景が広がっていて、俺は雨の中しばらく立ち尽くすこととなった。山側の擁壁から大量の雨水が流れ出し、まるで滝のように体育館裏の通路へと降り注いでいたからだ。

考えてもみれば当然のことである。体育館のすぐ裏手は切り立った断崖になっているから、山に降った雨水がこちら側に流れ落ちてくるわけだ。上にもなんらかの排水設備はあるはずだが、突然の土砂降りでキャパを超えた分の雨水は学校側に溢れてくるのだろう。

幾本もの水流が勢いよくコンクリートを洗い、飛沫が建物の明かりを反射してキラキラと砕け散る様は美しくもあった。幻の滝だ。大雨の日、全身ずぶ濡れになる覚悟で体育館裏を訪れなければこの光景は見られない。

しかし困った。コンクリート製の犬走りは数センチほど水が張って川のようになっている。壊れやしないかとヒヤヒヤしながらスマホのライトで照らしてみたが、流れる水が光を乱反射して余計に見えづらい。かといって、すっかり暮れた中で手探りというのも現実的ではない。そもそもこの水流では、とっくに鍵が押し流されてしまった可能性もあった。


「……母さんが帰ってくるまで玄関で待つしかないか」


俺は早々に鍵探しをあきらめ、ざぶざぶと水をかき分けながら教室棟に戻ろうとした。視界の端に何かが映ったのは、その時だった。

スマホのライトで一瞬だけ照らされた体育館裏の壁に、何かがいたような気がする。雨で体温は下がりきっているはずなのに、ぶわっ、と全身に汗をかいたのがわかった。

きっと勘違いだ。先入観からくる思い込みだ。自分にそう言い聞かせていなければ、おかしくなってしまいそうだった。なにしろ一瞬だけ見えたそれが、不気味な笑顔を浮かべていたような気がしたから。

"壁になった女の子"? いやいや、あり得ない。つい数時間前、みんなで確認したばかりじゃないか。体育館裏の壁には何の変哲もなかった。きっと今もそうだ。壁に女の子の顔が浮かび上がっていることなんてあり得ない。俺の横には、今もまっさらなコンクリートがあるだけだ。

冷静さを保とうと、必死で考えを巡らせる。しかしその間にも、何かに見られているような悪寒を感じていた。頭が痛い。足が動かない。すべては恐怖心からくる思い込みだ。それはわかっているのに、体がうまく動いてくれなかった。

いっそ、思い切って壁を直視してみようか。大丈夫、何も問題はないはずだ。ほんのちょっとだけ勇気を出せば、あぁ、やっぱり何もなかった、怖がりすぎだった、と胸をなでおろせる。よし、見よう。さっさと壁を確認して、それで気分よく帰宅しようじゃないか。

何度も何度も自分に言い聞かせて、俺はとうとう決心した。は、は、は、と短く息を吐いて、思い切りよく壁にライトを向けた。そして、"それ"と目が合った。


「ひっ」


息がつまる。手が震えて、スマホを水の中に落としてしまった。あたりがふっと暗くなる。

いた。いたいたいたいた。見間違いじゃない。壁に、女の子の顔が浮かび上がっていた。こっちを向いて、笑っていた。

パレイドリア効果? ただの壁のシミが人の顔に見えただけ? 今のが? そんな馬鹿な。第一、人の顔そっくりのシミなんてさっきまでなかったじゃないか。

ざんばらに乱れたオカッパ頭。顔面に不釣り合いなほど大きな目。醜く歪んだ口からは、血が滴っている。俺が目撃したのは、そんな不気味な生首だった。とてもじゃないが、偶然できた壁のシミだとは思えない。


ぱしゃ、ぱしゃ。


ふいに、背後から水を蹴る音が聞こえた。誰かがこちらに近づいてきているのだ。一瞬、助けがきたと錯覚したが、すぐに嫌な想像が脳内を駆け巡った。

雨脚が強く、空は漆黒の闇に覆われている。ほとんどの生徒が帰宅したはずのこの時間、土砂降りの中を近づいてくる"誰か"は果たして生きた人間なのだろうか、と。


――体育館のそばを通るときは必ず目を伏せてくださいね? "壁になった女の子"と目が合ったら、アナタも壁の中に引きずり込まれてしまいますから。


蟷螂坂の言葉がよぎる。

いやいやいや、そんな。ねぇ? あり得ないでしょ。あり得ない……よね?


ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ。


水たまりを踏む音が少しずつ鮮明になっていく。"誰か"は明らかにこちらを目指してあるいていた。足音の主はもう、曲がり角のすぐそこにいる。もう数秒も経てば、俺と鉢合わせすることになるだろう。

大丈夫、きっと見回りの先生か、居残っていた生徒に違いない。そう考えながらも、心臓がばくばくと音を立てていた。向こうの闇から"壁になった女の子"が現れるのではないか。そんな疑念がこびりついて離れないのだ。


ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ。


足音が早くなる。俺の精神状態は限界に近かった。目の前には不気味な顔が浮かび上がった壁、曲がり角からは謎の足音。本能が、今すぐ逃げるべきだと警鐘を鳴らしていた。そして――


「みつけた」


女性の声でそう聞こえた瞬間、俺は弾けたように走り出した。水没したスマホを拾う余裕もなく、「っうわぁぁぁあぁあぁ!!」と絶叫して豪雨の中を駆け抜ける。俺はパニックのままに学校を飛び出し、そのままの勢いで帰途についたのだった。


「和泉ちゃーん……ってあれ? なんで逃げるんですか。人がせっかく落とし物を拾ってきてあげたのに」


絶叫と共に走り去っていく俺の背中を見やり、隠神が不機嫌そうに呟く。俺の精神にトドメを刺した声の主が隠神で、拾った鍵を届けるためにわざわざ俺を探していたのだと知らされたのはその翌日のことだった。

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