幽霊の、正体見たり、壊したり②

詳しい事情も聞かず、俺は美術室に向けて走り出した。

廊下を走ってはいけません、なんて注意してくる教師はいない。生徒会長である俺が校内を走り回るのは、たいてい隠神絡みのトラブルを解決するためだとみんな知っているからだ。

全校生徒はおろか、教師の中にも隠神に畏怖の感情を抱く者は多かった。だから隠神がなにか問題を起こすと、その相談は教師ではなく俺のところに持ち込まれる。俺は諸般の事情により、隠神にモノを言える数少ない人材だったからだ。


「隠神ィ! なにやってんだお前はまた!」


そう叫びながら美術室の扉を開ける。目に飛び込んできたのは、右手で美術部部長の胸倉を、左手でヴィーナスの石膏像をわしづかみにする隠神の姿だった。

周囲では美術部員たちがおろおろと動き回っていて、みな一斉に「たすけてくれ」という視線をこちらに向けてきた。どういう状況なのかさっぱりわからない。わからないが、今まさに隠神が問題を起こしていることだけはひしひしと伝わってきた。


「あら。和泉ちゃんじゃないですか。ごきげんいかが?」

「……よぉ隠神。ごきげんは最悪だよ、おかげさまで」


ぜぇぜぇと息を切らしながら隠神の巨体を見上げる。悲しいかな、俺の身長は隠神よりもリンゴ五つ分ほど小さい。

隠神伊予。俺と同じ高校三年生で女子生徒。二メートルジャストの身長と、人間離れした筋力。トップモデルのようなスタイルから繰り出される、バーサーカーのごとき格闘術。泣く子がもっと泣く"椰子木の怪物"と言えば、この町で知らぬ者はいない。


「で、隠神? 今日はどのような悪事を働いていらっしゃるんだお前は」

「その言い方だと、まるで私が毎日悪いことをしているみたいじゃないですか」

「そう聞こえたなら身に覚えがあるんだろ。いいから、とりあえず部長さんを離してやれよ」


隠神が右手をパッと開くと、解放された美術部部長が「ひぃぃ」と声をあげながら俺の背後に回りこんできた。

たぶん隠神に聞いても詳しい事情はわからないので、俺は美術部部長に対して「何があったのか説明してもらえますか」と声をかけた。


「ヴィーナス像を盗もうとしているんです、その人!」


まるでアイアンクローでもかけるように、隠神はヴィーナス像の顔を鷲掴みにしていた。

どうやらそれは美術室の備品らしい。主にデッサン用のモチーフとして使用されている、石膏で形作られたヴィーナスの胸像だった。


「盗もうとしているだなんて人聞きが悪いですね」

「違うのか? 俺の目には今まさにヴィーナス像を盗んだ女が映っているんだが」

「違いますよ。私はただ、このヴィーナス像をブチ壊そうとしているだけです」

「なお悪いわ」


先ほどから俺を盾にして震えている美術部部長に、さらに詳しい話を聞いてみる。

およそ十五分ほど前。美術部の皆さんがヴィーナス像のデッサンをしていたところ、隠神はいきなり乱入してきたらしい。突如として現れた"椰子木の怪物"に固まる美術部員たち。タイミング悪く、顧問の先生も不在だった。

隠神は「ごめんあそばせ」と一言だけ発すると、むんずとヴィーナス像の頭部を鷲掴み、そのままどこかへ持ち去ろうとしたそうだ。パニックになった美術部部長は、勇敢にも「うちの備品を持って行かないでください!」と叫んだ。その隙に下級生の一人が生徒会室へと走り……俺が呼ばれて、現在に至るということだった。


「どうして部長さんの胸倉を掴んでたんだ。まさかとは思うが、怪我させてないだろうな」

「させてませんよ。その方、足元がおぼつかない様子だったので支えてあげていただけです」


ちらりと後ろに目をやる。彼は膝をガクガクと震わせていて、たしかに今にも倒れてしまいそうだった。隠神のことがよほど恐ろしかったのだろう。

転びそうだったから支えてあげた、という隠神の主張におそらく嘘偽りはない。俺は隠神がどんな人間なのか知っていた。何を隠そう、この女は世間で言われているほどの大悪人ではないが、超ド級のアホなのだ。


「……隠神。転びそうな人を支えるときはせめて胸倉以外を掴むようにしろ」

「金玉などですか?」

「胸倉と金玉以外を掴むようにしろ」


勇気をふりしぼって隠神の暴挙を止めようとした結果、胸倉を掴まれてしまった美術部部長の心中は察するに余りある。さぞ怖かったことだろう。

隠神が善意のつもりでも、単独で暴走族を壊滅させる女に胸倉を掴まれた当人は生きた心地がしない。心優しいライオンに頬を舐められるようなものだ。度を超えて強き者は、優しさだけで弱者を殺せるのである。


「そもそもお前、どうしてヴィーナス像なんか盗もうとしたんだ」

「ですから盗もうとしたんじゃなくて、ブチ壊そうとしてたんですよ」

「ヴィーナス像になんの恨みがあって?」

「これ自体に恨みはないですが……強いて言えば、私はオバケがキライなので」


隠神はヴィーナス像の頬のあたりを、ここん、と爪で弾いてみせた。隠神の大きな掌で隠されていたので気づかなかったが、そのヴィーナス像はかなり異様な面構えをしていた。

ヴィーナス像が血の涙を流している。少なくともファーストインプレッションではそう見えた。像の両目から頬にかけて、赤みがかった液体の流れた痕がついていたのだ。


「これ、生徒の間じゃ"血涙のヴィーナス"って呼ばれてるらしいですよ」

「……百鬼椰行か」


隠神は「そう呼ばれてるらしいですね」と答えた。また、百鬼椰行。またまたまたまた百鬼椰行だ。本ッッッ当にこの学校は、隅から隅までオカルトだらけで嫌になる。

今度は"血涙のヴィーナス"か。その両目から垂れおちた二筋の赤いシミは、たしかにヴィーナス像が流した血涙のように見えた。そう見える痕があるというだけで、不思議とヴィーナス像そのものの表情も苦悶に歪んでいるような気がしてくる。

端的に言って、かなり不気味だった。物言わぬヴィーナス像がある日突然こんな状態になっていたのだとしたら、呪いや幽霊の仕業ということにしたくなる気持ちもわからないではない。……が、さしあたっての問題はそこではなくて。


「オバケが嫌いだから"血涙のヴィーナス"を壊そうとした、と?」

「ようは除霊ですよ、除霊。ヴィーナス像そのものがなくなれば、『ヴィーナス像が血の涙を流す』なんて馬鹿げた噂もなくなるでしょう?」


つまりこの女、"血涙のヴィーナス"という怪異を「ヴィーナス像ごと」この世から消し去ろうとしていたのである。そんな力任せの除霊があってたまるものか。

呪われた本があるなら燃やせばいい。動き回る銅像は溶かせばいい。隠神の言う"除霊"とはそういう類のものだった。ある種、地球の環境を守るために人類を滅ぼしてしまおう! みたいな暴論である。魔王かこいつは。


「百鬼椰行だかなんだか知りませんけど、腹が立つんですよ。物理的に存在することさえできない分際で、今を生きる私たちの青春を邪魔しようだなんて」

「それは完全に同意だが。だからって腕力にモノを言わせて解決しようってのは浅慮だろう。そのヴィーナス像はオバケである前に、我が校の大切な備品だからな?」

「ですが、これを壊せば"血涙のヴィーナス"とかいう噂は消滅するんですよ? いいことじゃないですか。おかしな怪談がひとつ減って、少しだけ学校が平和になります」

「お前、この学校にどれだけの怪談があるかわかってるのか? 今さらヴィーナス像の怪談ひとつ減ったところで、椰子木高校がどこもかしこもオカルトだらけなのは変わらん」

「であれば片っ端から壊していきましょうよ。百鬼椰行にまつわるモノすべて。そのうちオバケが憑りつく場所もなくなるでしょう」

「ここを更地に変えるつもりか。オバケが憑りつく場所より先に、俺らが通う場所がなくなるわ」


隠神はそれでも納得いっていないご様子で「百鬼椰行をなくしたいなら『壊す』以上の最適解あります?」とぼやいている。

そうやってあらゆるトラブルを腕力だけで片付けてきた結果、"椰子木の怪物"なんて悪名が広まったのだということをそろそろ自覚してほしい。

正直、なるべくオカルトには関わりたくなかった。けれどこのまま隠神を放置していたら、本当に学校中の備品を破壊し尽くされかねない。生徒会長として、俺は隠神に「破壊」以外の解決方法というものを教えてやる必要があった。


「……はぁ。わかった。"血涙のヴィーナス"の説明してやるから、それ見せろ」


「説明?」と首をかしげながら、隠神がヴィーナス像を机の上に置いた。そして俺は、じっくりとヴィーナス像を観察する。オバケなんていない。ゆえに、どこかに綻びはある。

これは俺の信念の話だ。錯覚・誤解・虚言・妄想・幻覚・恐怖。古今東西、世の中の怪奇現象ってやつの大半はそれで説明がつく。少なくとも俺はそう信じて生きてきた。

つまり"血涙のヴィーナス"にも答えはある。必ずだ。蟷螂坂の前でいつもやっているのと同じこと。よく観察して、推論を立てる。難しいことなどなにもない。冷静に対処すれば見えてくる真実はあるものだ。


「なにやってるんですか? 和泉ちゃん」

「黙って待ってろ。すぐに"血涙のヴィーナス"なんて噂が嘘っぱちだってことを暴いてやるから」


血涙のような痕は、ヴィーナス像の右目と左目、両方から流れていた。やや右目のほうが線が太いようにも見えるが、さして大きな差があるわけではない。

目から流れた涙が筋を描いて垂れていき、頬のあたりで止まっている。よく見ると眼球部分も、まるで充血しているかのように全体的に薄赤く染まっていた。色の薄いところは、赤というよりピンク色に近い。

試しに頬のあたりを人差し指で拭ってみる。すると、指の腹がほんの少しだけピンク色に染まった。……何かの塗料だろうか。しかし触ってみた感じ、液体というよりは細かい粒子のようなサラッとした感触がある。


「部長。"血涙のヴィーナス"の噂は昔からあったんですか?」


そう尋ねると、美術部の部長は「いいえ」と即答した。

どうやら"血涙のヴィーナス"は比較的最近できたばかりの百鬼椰行だったらしい。


「ヴィーナスが泣いたのは二週間ほど前ですね。び、びっくりしましたよ。今は乾いてますけど、最初に見つけたときは本当に赤い液体が流れていたんですから」

「なにか原因に心当たりは? たとえば誰かが美術室に忍び込んで、絵の具か何かで色をつけたとか」

「難しいと思います。ヴィーナス像は美術準備室のほうに保管されていて、合鍵を持っているのは部長の僕だけなんです」

「普段、美術準備室に出入りする人はいないんですか?」

「ジメジメした場所ですから、好んで入る人は……美術準備室なんて言いますが、ほとんど放置された倉庫みたいな部屋ですしね。黴臭いですし、中で作業することもまずないです。先生か僕が、ときどき絵のモチーフを取りに入るくらいで……」


仮にイタズラだとすれば、それが可能な生徒は合鍵を持っている部長だけというわけだ。

職員室から本鍵をくすねるとか、脚立を使って窓から入るとか、美術準備室に侵入する方法がまったくないわけではないが……たかだかヴィーナス像にイタズラ描きをするためだけに、そこまでする生徒がいるだろうか。


「血の涙を流す前、最後にヴィーナス像を確認したのはいつですか?」

「た、たしか血の涙を流した日の数日前だったと思います。そのときも今日みたいにデッサンのモチーフに使っていて……」


そのとき、美術部の部長は「あ」と声を出した。


「そ、そうだ。そのときにちょっとした騒動があったんですよ。四月に入ってきたばかりの新入部員に、ちょっと不真面目な子がいまして。その子がヴィーナス像にイタズラ描きをしたんです」

「その新入部員がヴィーナス像に血の涙を描いたってことですか?」

「ああいえ、血の涙ではなくてですね。デッサン用の黒い鉛筆を使ってなんですが、悪ふざけでヴィーナス像に黒目を描き入れてしまったんです。当然、すぐに叱って、しっかり消させたんですが……もしかしてヴィーナス像が血の涙を流したのは、あのときの祟りなんでしょうか……」


ヴィーナス像の目の部分をもう一度よく観察してみる。どうやら叱られた新入部員は、丹念に落書きを消したようだ。ヴィーナス像の目に、鉛筆で落書きされたような痕跡はまったく残っていなかった。

しかし落書きされたという目玉の部分を触ってみると、少し感触がざらついているのに気がついた。石膏で形作られたヴィーナス像は全体的につるつるしていたが、明らかに目玉の部分だけ質感が異なっている。


「和泉ちゃん、なにかわかりました? そろそろ壊してもいいですか?」

「ダメに決まってんだろ。なんなのお前、破壊衝動に憑りつかれてるの?」

「ちまちま考えるより、ぶっ壊したほうが手っ取り早いと思うんですけどねぇ」

「そんなことしたら状況が悪化するだけだ。第一、もう"血涙のヴィーナス"のカラクリは解けた」

「え?」


とは言うものの。美術部員を騒がせていた怪異"血涙のヴィーナス"の正体は、正直「カラクリ」だなんて呼ぶのもおこがましいほど単純なものだった。

俺はヴィーナス像の目に親指を擦りつけ、一見して血涙のような赤い粉を拭い取った。「なんですかそれ。血液の乾燥粉末?」と絶妙に気持ちの悪い質問を飛ばしてくる隠神に、ことの真相を説明する。


「これはおそらくロドトルラだ。酵母菌の一種で、世間一般には"赤カビ"って呼ばれてるものだな」

「赤カビ……って、お風呂とかに生える、あの?」


そう。"血涙のヴィーナス"の目から流れ落ちていたのは、なんのことはない。ただの赤カビだったのである。

赤カビの名で知られるが、ロドトルラは厳密にはカビではなく酵母菌の一種だ。湿気さえあればどこにでも生えてしまうため、一般家庭でも風呂場やキッチンなどで増殖するケースが珍しくない。

ロドトルラの厄介なところは、水分だけを栄養として爆発的に増えるという特性にある。黒カビなどと違って拭けば簡単に落とせるが、発生箇所に少しでも水気が残っているとあっという間に再発生してしまう。


「美術準備室はジメジメして黴臭いって言ってただろ? ロドトルラはそういう場所でよく増えるんだ。たぶん、探せばヴィーナス像の他にも赤かピンク色のカビを生やしている備品があるんじゃないかな」


合鍵をもつ部長に頼んで、ためしに美術準備室を開けてもらった。扉を開けただけで、むあっとした嫌な空気が押し寄せて来る。

元来は紫外線による収蔵品の劣化を防ぐ目的なのだろうが、美術準備室には窓がなくて薄暗い。しかし建物が古いせいか空気の入れ替えが上手くいっておらず、やたらに湿度が高くなってしまっているようだった。

美術品の保管に適した空間とは口が裂けても言えないような環境である。他にロドトルラが生えている場所はないか探そうと思ったが、ホコリとカビの臭いが鼻をついてそれどころではなかった。ここに入りたがる生徒がいないわけだ。

思わず「こんなところに置いてたら赤カビも生えるわな……」と言うと、部長は「本当はもっと綺麗に保管してあげたいんですが、なにぶん置く場所が足りなくて……」と申し訳なさそうにしていた。しかし悪いのは美術部ではない。生徒会としては今後、美術室の環境改善の働きかけをしていく必要がありそうだ。


「待ってください和泉ちゃん。その……ロボピッチャ? が原因だと言うのはわかりましたが。どうしてそれがヴィーナス像の"目"だけに生えたんです?」

「ロドトルラな。騒動の数日前、イタズラでヴィーナス像に黒目を描いた子がいるって言ってただろ。たぶんその落書きを消したとき、ヴィーナス像の目の部分のコーティング剤が剥がれたんだよ」


ヴィーナス像の表面は、防水スプレーか何かでコーティングされていた。もともと防水加工が施されていたのか、美術部の関係者が湿気対策でコーティング剤を吹き付けたのかは知らないが。

美術準備室の劣悪な環境下で何年もカビを生やさずに保管できていたのだから、コーティング剤の効果はそれなりに高かったとみられる。しかし先日のイタズラ描き事件によって、コーティング剤の一部が剥がれてしまったのだろう。

おそらく「消し方」が問題だった。叱られた新入部員は反省し、かなり入念にヴィーナス像の目を磨いたのだろう。しかし消しゴムだけでは綺麗に消えず、爪でガリガリ削ったか、あるいは紙やすりのようなものを使った可能性もある。

つまりヴィーナス像の目の部分がざらついていたのは、そこだけ削られてコーティング剤が剥がれてしまったからだ。おかげで目の部分だけ防水効果が失われ、湿気にやられたむき出しの石膏部分にロドトルラが生えた、と。おおまかな経緯はこんなところだろう。


「これだけ湿度が高い部屋なら、朝方なんかは気温差で結露することもあるはずだ。目のくぼみに溜まった結露がロドトルラを含んで赤く染まり、涙のようにこぼれ落ちていく……すると一見、血の涙を流すヴィーナス像が完成するってわけだ」


美術部の皆さんはどこか困惑し、口々に状況を整理しようとしていた。「呪いでもなんでもなかったんだ」と素直に納得する者もいれば、「そんな偶然あり得るのかな……」なんて言って疑いの目を向けてくる者もいる。

残念ながら、この場の推理だけで全員を納得させるのは無理だろう。専門家でもなんでもない俺が突然現れて「これはオバケの仕業じゃないですよ」と言っただけで、証拠もなにもないのだから。もっと時間をかけて調査すれば動かぬ証拠が見つかるかもしれないが、そこまでしても信じない人は最後まで信じてはくれないだろう。この中にだって、蟷螂坂のようなオカルト第一主義者はいるかもしれないし。科学よりオカルトを優先する人を納得させるのは極めて難しいものだ。


「まぁ、信じる信じないは皆さんのご自由に。ただ……実在するかどうかもわからない"呪い"と、世界中のどこにでも当たり前に生える"赤カビ"、どちらかを先に疑うべきかは悩むまでもないと俺は思いますけどね」


呪いや幽霊といった非科学的なものの存在を完全に否定することは難しい。そりゃ世の中には科学で解明できないものだってあるだろう。けれど、疑うにも優先順位というものはある。

目安箱の投書にあった"墓掘り金次郎"だかいう怪談と同じだ。運動場が掘り返されていたなら、二宮金次郎像に責任を押し付けるより先に、野良犬や不審者の仕業ではないか調べてみるべきだろう。

"血涙のヴィーナス"の一件だってそう。呪いなんてもののせいにする前に、ただの赤カビが原因ではないかと疑うのが先だ。"呪い"と"赤カビ"、どちらがより身近な存在かなんて考えるまでもないのだから。

見た感じ、ほとんどの美術部員は俺の話を信じてくれたようだった。全員を納得させることはできなくとも、過半数に伝わったならまずまずの結果だろう。彼らがこの説を広めることで"血涙のヴィーナス"の噂が衰退していってくれれば、なお有難いのだが。


「……ところで部長。わからなかったことがひとつあるんですが」

「はい? な、なんでしょうか……」

「美術部の皆さんはどうして、薄気味の悪いヴィーナス像のデッサンなんかしていたんですか?」

「どうしてって……呪われたヴィーナス像だなんて、最ッ高に創作意欲を掻き立てられるじゃないですか! 芸術家のはしくれとして、こんな貴重なモチーフを逃すわけにはいきませんよォ!」


美術部部長はぶるぶると震わせた手を高く掲げた。彼の一声を聞いた他の部員たちも「うんうん」と頷いている。

なるほど、俺の推理に否定的な部員がいるわけだ。彼らは"血涙のヴィーナス"という怪談に恐れを抱いてもいたが、それ以上にモチーフとしての魅力を感じていた。だから"呪い"を全否定されて、創作意欲に水を差されるのを嫌ったのだろう。そんなこととはつゆ知らず、夢のない推理を披露してしまって申し訳ない。……それにしても、"呪い"さえ創作意欲の原動力としてしまう彼らの芸術家魂は"血涙のヴィーナス"の怪談よりもよっぽど怖いかもしれなかった。


「じゃ、じゃあ俺はこんなところで。お騒がせしてすみませんでした。ほら行くぞ隠神」


じんわりと居づらくなって、俺は隠神の手を引いて美術室を出た。何メートルか廊下を歩いてから、くるりと隠神に向き直る。


「どうだ隠神。"破壊"なんてしなくても、"解明"すれば怪談は否定できるってことがわかったか」

「ふむ。勉強になりました。疑わしきはぶっ壊すのが一番早いと思ってたんですが、こういう戦い方もあるんですね」

「それがわかったら二度と学校の備品を壊したりするなよ」

「……どうしてです? 私が百鬼椰行にまつわるものを片っ端から"破壊"して、和泉ちゃんが片っ端から"解明"していけばいいじゃないですか。そしたら二倍速で百鬼椰行を根絶やしにできますよ?」

「いや、その理屈はおかしい」


オカルトと向き合う方法のお手本を示せれば、と思って"血涙のヴィーナス"を解いてみせたのだが。残念ながら隠神にはまったく響いていなかったらしい。

このまま放置すると、隠神は本当に校舎あらゆる箇所を破壊して回るだろう。それなりに長い付き合いだからわかるのだ。この女は、やると言ったらどんなに無茶なことでもやる。百鬼椰行を根絶やしにするという宣言は、すなわち椰子木高校の終わりを意味しているのだ。


「そういえば校長先生のカツラに悪霊が憑りついているっていう噂があるらしいですねぇ……いっちょ全力でブッ叩いてみますか」


隠神はふんすふんすと鼻息を荒くして歩み出した。俺は全力で隠神の足元に縋りつくけれど、そのヘラジカのような脚力は到底俺の力で止められるものではなかった。

校長先生逃げて。全力で逃げて。今、アナタの脳天が空前の危機に晒されています。命が惜しくばカツラを脱ぎ捨てて全力で逃げてください。俺はズリズリと引きずられながら、なんとか隠神を止めようと叫ぶ。


「いぬがみぃぃぃ!! ストォォォップ!! 頼むから止まれぇぇぇ!!」

「どうして止めるんですか。オバケが嫌いなのは和泉ちゃんも一緒でしょうに」

「お前みたいなパワードゴリラに殴られたら、校長先生が新しいオバケになっちゃうだろうが!」

「うら若き女子にパワードゴリラとは随分ですね。和泉ちゃんから先にオバケにしてあげましょうか」


それでもなお食い下がる。一階に降りる階段の手前まで引きずられたところで、隠神はひとつため息をついて歩みを止めた。

隠神の足に引っ張られていただけなのに、俺の呼吸はぜぇぜぇと鳴っている。一方、人間一人を足にぶら下げて歩いていた隠神は涼しい顔だ。同じ生物とは思えないほどの生命力の差を感じる。こっちは立ち上がる気も起きないほど体力を削られたっていうのに。


「もー。わかりましたよ。校長先生のカツラの件は和泉ちゃんにお任せします」

「お任せされても困るんだが……まぁ、落ち着いてくれて何よりだ」


隠神は「はーあ。せっかくオバケ退治してあげようと思ったのに」と呟いた。今日の隠神はどこか変だ。いや、こいつが変なのはいつものことなのだけれど。今日はいつにも増して変だったのだ。

俺の知る隠神伊予という人間は、これっぽっちもオカルトに興味をもっていなかった。好きとか嫌いとか怖いとか、そういう話以前に「興味がない」のである。だから今まで、彼女の口から百鬼椰行の話題が出たことなんて一度もない。

それなのに今日、隠神は突如「オバケ嫌い」を宣言し、美術室に乱入して"血涙のヴィーナス"という百鬼椰行に関わろうとした。方法こそ間違っていたが、隠神なりに百鬼椰行を解決しようとしたのである。一体どんな風の吹き回しなのだろうか。


「どうして急に百鬼椰行に関わろうと思ったんだ? お前、オカルトなんか興味なかっただろ」

「興味はないんですが、どうにも腹が立ってきましてね。とにかく私、その百鬼椰行ってやつを根絶やしにするって決めたんです」

「勘弁してくれ。さっきも言ったが、お前のやり方じゃ百鬼椰行より先に学校がなくなる」


隠神は俺の制服の後襟を掴み、まるで猫でも持ち上げるみたいに俺を立たせた。そして俺の顔を覗き込み、にやりと薄笑いを浮かべている。


「……なんだよ」

「いえね、もしも誰かが百鬼椰行を"解明"してくれたら、私が"破壊"する必要はないのになぁー、って思いまして」


俺は壁際に追い込まれ、隠神は圧をかけてきた。

あえてロマンティックに言うなら"壁ドン"というやつだが、俺と隠神では恐喝現場にしか見えるまい。圧倒的体格差の隠神に迫られると、壁そのものが迫ってきているような威容を感じる。


「百鬼椰行、邪魔だと思いません? より良い学園づくりのために」

「学校中の備品を破壊しようって奴とどっちが厄介だろうな」

「さて、どっちでしょう。けれど百鬼椰行を解けば、私が暴れるのも防げて、お得ですよねぇ」


誘導を超えて、もはや脅迫である。自分の代わりに百鬼椰行を根絶やしにしろ、と隠神はそう言いたいのだ。

俺が百鬼椰行の解明のために動けば、隠神は学校の備品には手を出さない。つまり我が青春の妨げとなる百鬼椰行を排除しつつ、隠神の暴走を止めることもできるわけだ。……なんて言うと、まるで一石二鳥に聞こえるが。

実際は俺の負担が大きすぎる。これのどこがお得だというのだ。ようは百鬼椰行と隠神、二つの問題を同時に抱え込めということではないか。正直に言おう。まっっったくもって、乗り気しない。けれども……


「……はぁ。わかった。やるよ」

「聞き分けがいい子は好きですよ」


隠神はニコニコとして、俺の頭を撫でたくる。髪がボサボサになるからやめてほしい。

俺はオバケが大嫌いだ。ゆえに、百鬼椰行の調査なんか本当は絶対にしたくない。しかし椰子木高校の生徒会長として、この問題を看過できないという本音もあった。

今まで見て見ぬフリをし続けてきたツケがきたのだ。これも百鬼椰行と向き合うよい機会なのだと思うことにしよう。


「お前に乗せられるのは癪だが、やってやろうじゃないか。百鬼椰行の解明! より良い学園づくりのために!」

「おー。さすがは生徒会長。頼りになりますねぇ」

「ただし、お前にも手伝ってもらうからな。隠神"副会長"」


隠神は「もちろんです」と胸を張った。"椰子木の怪物"、"学校一の問題児"、"暴走族を蹴散らす女"。その悪名は数知れないが、彼女にはもう一つの顔があった。

椰子木高校"生徒会副会長"隠神伊予。そう、彼女は生徒会における俺のサポート役なのだ。……まぁ実際にはサポートどころか、新たな問題を次々に生み出してくれるトラブルメーカーであったが。


さてさて、この物語は。生徒会長・白蔵和泉と、副会長・隠神伊予、椰子木高校生徒会による"百鬼椰行"との戦いの記録である。

隠神による"血涙のヴィーナス"破壊未遂事件から始まった調査の日々は、やがて"ユウレイラジオ"の始まりへと繋がっていくのだが――

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