晩夏
杞結
ある日の夕暮れのことであった。
季節は夏が過ぎる頃、日が暮れ始めてもなんとなくむし暑さの残る、そんな晩夏。どこからともなく現れた得体の知れない恐怖や不安感が、ある青年に襲いかかる。青年は一人で、赤く染まりつつある薄暗く狭い部屋の中で、ただ何をするでもなく物憂げな表情を浮かべて座っていた。
故郷──青年の生まれ育った、安らかながらも少し優しさを感じられるふるさと、しかし青年の眼には刹那として留まらない、退廃的で悲しさを感じる田舎。夕暮れ時の青年の眼は、橙色に染まる寂しげな風景が映る半透明の窓を見る。
しかし、次の瞬間に青年が気がついたときには、既にそのスクリーンは一人のせつない男を映し出していた。
今の自分はこんなにも情けない顔をしているのか、自分は本来何をすべきなのだろうか、そんな考えとともに青年の心には押さえきれないほどの恐怖が湧き出てくる。
その瞬間、青年は勢いよく、靴も履かず裸足のままで家の外へと飛び出ていった。
青年は走り続けた、裸足で。ろくに運動もしていないような錆びついた体は、黒い心に支配された主人によって、これまで守り抜いてきた息吹と体温でさえも悪魔に吸い取られるように奪われることに関して抵抗は出来なかった。
脳も思考を停止する。身体中に感じる汗の流れる感覚、足に感じるヒリヒリという擦りむける感触、これらに一切の気を向けることなく、ただ心臓と足のみが動き続けた。
先程まで遠くに見えていた赤赤とした空気も、今では完全に姿を消して代わりに黒洞洞たる、未来も将来も見えないような空気がどこか向こう側から不穏に流れてくる。
ふと背後に気配を感じ、立ち止まって後ろを振り返った青年は、ただの恐怖ではない何か大きな人影のようなものを見ることになった。
青年は焦る。
死にたくない、と怯える。このままでは殺されてしまう、と。
しかし、青年の持つ心と体にはもう全く余裕は無かった。
思考を放棄した脳、ひたすら早くなる動悸、打ちひしがれた心、血だらけになった足。誰もが絶体絶命だと諦めるようなこの状況を、もう何もできない青年は諦めなかった。諦めたくなかった。具体的に何かできることはない。
ただ死にたくない、死にたくない、とひたすら心の中で願う。
そんな青年の必死の命乞いも、大きな黒い人影の進行を阻止するには至らなかった。
青年は覚悟を決めたように、目を瞑った。
昨夜閉め忘れたカーテンの隙間から、黄金色に輝く、心地の良い朝日が差し込んでくる。青年はえらく驚いた様子で飛び起きた。
しかし、少しばかり軽くなった心と全くだるさのない体に気がつくと、先程の記憶がただの鮮明な夢であったことにすぐ気がついた。
青年は思った。
生きたい。何かをしたい。そんなただの肯定的な願望はなくとも、死にたくない、ただそれだけで生きていてもいいのだと。
そんな考えを巡らせながら、かつて物憂げな青年が覗いた窓を見てみると、そこには安らかでなんとなく落ち着く、そんな故郷の風景と、ある青年の顔がほんの少し薄く重なっていた。
彼の顔は決して幸せには見えない。
しかし、それでも生命がうごめくのを感じる、そんな表情をしていた。光の差し込む薄明るく狭い部屋の中で、一人の青年が敷布団から立ち上がった。
ふと下を見てみると赤黒くすり減った不気味な足が、青年を再度不安にさせた。
晩夏 杞結 @suzumushi3364
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