第7話 復讐機運

 椎名君が、それから少しして、部屋を引き払った。それを聞いたのは、椎名君が部屋を引き払ってから、半月ほどが経ってのことだった。

「最近、見かけないな」

 と思っていたのは事実だったが、まさか引っ越したとは思わなかった。

「いや、椎名君なら、ありえるか?」

 と、彼の性格を思い出してみた。密かに悩んで、自分一人で結論を出すタイプなのかも知れない。

 刑部は、

「椎名君なら、最後にはこの俺に相談してくれるはずだ」

 という思い込みがあっただけに、少し残念な気がしたが、だからと言って、実際に相談されたとすれば、

「どんな助言を俺ならするだろうか?」

 と考えてみたところで、結果何も思い浮かぶはずがないと思うだけだった。

「相談してほしい」

 と考えるのは、

「相談されなかったら、寂しい」

 というだけで、相談された場合の答えを用意しているわけではない。

 自分も同じ悩みを抱えていて、実際に、どうしていいのか、考えあぐねているからだ。当然、自分も椎名君のように、

「逃げ出せるものなら逃げ出したい」

 という気持ちを持っていた。

 しかし、椎名君と違うのは、そこから先を考えていることだろう。

 というのも、

「もし、ここの引き払って、どこかに引っ越したとしても、隣にどんな人がいるか分からない。下手をすれば、今よりももっと悲惨なことになるかも知れない」

 と感じるからこそ、迂闊なことはできないのだ。

 もし、最悪なところに引っ越してしまった場合に、

「やっぱりやめた」

 とは簡単にはいかないからだ。

 特に、マンション契約などは、最低でも、どれくらい住むというのが決まっていて、いきなり引っ越すと、違約金を取られることも少なくはないだろう。

 それを思うと。簡単には、部屋を引っ越すなどできるわけでもなく、当然、引っ越し先も考えないといけない。

 引っ越し代もバカにならないし、それでも強行し、引っ越した先が、

「最悪の最悪」

 だったら、取り返しのつかないことになるだろう。

 その時になって初めて、

「動けば動くほど、悲惨なことになる」

 ということが分かったとしても、後の祭りということである。

 そういえば、転職をした先輩が話をしていたことがある。

「転職というのは、よほどのことがなければしない方がいいかも知れないな」

 というのだ。

「どうしてですか?」

 と聞くと、

「確かに昔と違って今は実力主義が増えてきたので、何とも言えないだろうが、募集する会社というのは、社員が辞めたから募集するんだよ。昔のバブルの時代は、事業拡大のための人員がほしくて、しかも、事業を拡大すればするほど儲かる時代だったから、待遇面もよかったのだろうが、今の時代はそんなことはない。社員が辞めた補充の意味での募集ということになると、その会社に入っても、いつまで自分がもつかということも考えないといけない。入った瞬間に、辞めたくなるような会社だってあるかも知れないしね」

 ということであった。

 なるほど、年から年中募集をかけている会社もある。

「誰も応募しない」

 ということなのか、

「入社が決まっても、すぐに辞めていくからなのか?」

 のどちらかなのだろう。

 実際に、そういう会社のウワサはあまりいいものを聴かない。

「ああ、半年前の募集で入社した人。もう辞めたよ」

 という話も平気で聞いたりする。

 そんな話を聴くと、

「転職は、迂闊に考えられないな」

 ということであった。

 その人がどうして半年もしないうちに辞めていったのか、その理由にもいろいろあるだろう。

「給料が、思ったよりも安い」

「ハラスメントや、サービス残業、休日出勤しても、すべて給与のうち」

 などというブラック企業の可能性は、かなりの確率であるといってもいいだろう。

「社員のことを考えない会社は、会社としての存在意義がない」

 と思っていると、

「本当にそんな会社ばかりだ」

 ということが、就活を考え、実際に会社を探してみると、すぐに分かってくる。

「こんな会社ばかりだったら、今の会社の方が、どんなにかマシだといえるだろう」

 と思うのだ。

 世間では、

「会社は実力主義だから、今の会社にしがみつくことなく、自分に合った会社を探せばいい」

 などと、簡単にいうが、そんなのは理想論であり、実際にそんな都合のいいことがあるはずがない。

 だったら、不平不満をいうこともなくなるだろう。

 不平不満をいう社員は、それだけ、能のない人で、

「実力も才能もないくせに、自分を過大評価して、自分の言い分だけを、表に出そうとするので、そういうやつは、どこにいっても通用しない」

 といってもいいだろう。

 そんなことを考えていると、

「会社を選ぶなんて、百年早い。お前自身が会社から選ばれない社員だということを、もっと自覚しないといけないぞ」

 ということになるだろう。

 会社というものは、そういうものであるが、住まいであるマンションの契約も、それと似たところがあるだろう。

 要するに、

「ここが嫌だと思って、衝動的に飛び出しても、今空いている部屋が、最高にいい部屋でなくてもいいが、今よりもひどい状態になるかも知れないということを、本当に分かっているか?」

 ということである。

 つまり、

「そういう覚悟があるか?」

 ということなのだ。

 確かに、今も最悪で、椎名君のような性格だと、どうしても、ノイローゼのようになりがちで、それでもかなり我慢していることだろう。

 それでも、我慢できずに、引っ越してしまうということも当然のごとくありえることであろう。

 そうなると、

「衝動的に出てしまったはいいが、その先のことは、ほとんど考えていなかった」

 ということだって、あるかも知れない。

 だから、そういう意味で、

「相談してほしかった」

 のであるが、やはり、自分に的確なアドバイスができる自信がないので、

「相談してほしかった」

 というのは、少し違っている。

 自尊心をたかめ、自己顕示欲のようなものを感じたいという思いからであろう。

 それはやはり、椎名君に対して、

「何もしてあげられなかった」

 という思いが、自分の中に渦巻いているからなのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「もし、次、どこかで椎名君と遭ったら、お互いに気まずいかも知れないな」

 という思いであった。

 ただ、気まずいと思うのは、椎名君の方であろう、何といっても、

「相談もせずに、黙って出てきてしまった」

 という後ろめたさがあるからではないかと思った。

 それでも、刑部の方にも、後ろめたさがないわけではない。

「相談されても、大した助言もできないと思っているのに、相談してほしいなどと、都合のいいことを考えた」

 ということに対してであった。

 刑部の方も、本当であれば、

「俺だって、こんな部屋、できれば出たい」

 という思いがくすぶっていた。

 何と言っても、うるさいのを耐えているという気持ちに変わりはない。しかし、前述の危惧を考えると、どうしても、簡単に出るわけにはいかない。もし、引っ越した先で、静かな部屋に入れたとしても、いつなんどき、隣がうるさい環境にならないとも限らないのだ。

 環境面で考えるとすれば、

「今」

 というピンポイントだけを切り取ってしまうと、

「次の瞬間には、どうなるか?」

 ということをまったく考えていないということになる。

 それを考えると、引っ越すことはもちろん、現状を自分でいかに切り抜けるかということを考えるのが、一番ではないかと思えた。

 今自分でできることというと、

「耳栓をする」

 あるいは、

「なるべく、部屋にいる時間を少なくする」

 などということであるが、そんな消極的なことを考えると、

「まるで、相手に負けた」

 という気になってしまうことが、自尊心を傷つけるということになり、簡単に容認できるものではないのだった。

 それを考えると、

「耳栓をしてでも、何か自分で隣を意識しないで済むだけの、没頭できることを考えればいいんだ」

 と感じたのだ。

「耳栓をしながらの、読書、あるいは、小説を書いてみるなどの、一歩先に進んだ趣味」

 である。

 刑部は、大学時代に文芸部に所属していて、

「小説を書く」

 ということは、ずっとやっていた。

 それをいまさら思い出してやってみようという試みは、少し憂鬱だった刑部に、一筋の光明を与えたのだ。

「そうか、小説か。俺も書いていたんだよな」

 と、懐かしさと、その時の、忘れてしまった情熱を思い出すことで、新鮮さというものがよみがえってきた気がしたのだった。

「なるほど、これは、一石二鳥だ」

 と感じた。

 大学生の頃と違って、今は社会人経験もある。あの頃とはまた違った小説を描くことができる気がしてきた。

 そう思うことが、自分の中で、小説家を目指していた自分を奮い立たせることができそうだ。

 もちろん、いまさら小説家など目指す気にはらないが、あの時の情熱を思い出すことができれば、十分、一石二鳥といってもいいくらいの、

「気持ちの余裕」

 というものを、持つことができるのではないか?

 と感じるのだった。

 小説を書くということを思い出させてくれた、隣人のクソガキに礼を言いたいくらいだが、あくまでも、冗談であり、

「クソガキはクソガキ」

 という思いが消えることはなかったのだ。

 小説を書くということを考えると、一番最初に感じるのは、

「いかにして、集中力を高めるか?」

 ということであった。

 小説を書くのに、一番の天敵は、

「気が散ることだ」

 と思っている。

 だから、小説を書いている時は、後ろを振り返ったり、ゆっくりとかんがえたりはしない。なぜなら、考えてしまいすぎることになりかねかいからであった。

余計なことを考えてしまうと、

「つり橋の真ん中に来た」

 というような錯覚に陥ってしまうのだ。

 前述の、

「戻るべきか、進むべきか?」

 ということにも関係してくるのだろうが、ちょうど真ん中まで来た時に、ふと我に返った時を思い起こすのだ。

 そこまでは、一心不乱に進んでくると、足元しか見えていないのは、それだけ、眼下が恐ろしいということになるのだ。

 しかし、そんな眼下よりも、それまで意識していなかった正面が、

「さっきまでにくらべて、全然進んでいないではないか?」

 と感じるのだ。

 そうなると、再度気になるというのは、後ろを振り向いた時のイメージであった。

 その時は、

「絶対に真ん中を意識させる光景ではないか?」

 と思うので、しかもズバリその通りだと、一点の狂いもないように思うと、

「錯覚であっても、錯覚であるわけはない」

 という思いに陥るのだった。

 だが、実際には、半分どころか、まだ少ししか来ていないことになる。そこで考えるのが、またしても、

「進むべきは下がるべきか?」

 ということである。

 これが本当のトンネルであれば、

「後ずさりするしかない」

 と考えることであろう。

 だが、小説の場合は、後ろに戻るということは許されない。

「その時点で辞めてしまうか、先に進むしかない」

 というのだ、

 本当の作家というものが、どういうものなのか分からないが、刑部氏という作家であれば、

「ゆっくり書いていると、先に進まない」

 と思うのだ。

 逆に、意識もせずに一気に書いている方が、意識を変に持たない分、余裕という形の気のゆるみのようなものが出てくるのである。

 そうなると、自分で抑制できなくなってしまったかのようで、

「小説を書くということは、目の前を一つ一つこなすというよりも、勢いで、自分の中にスピードのモラルを決めてやらなければならない」

 ということであった。

 もし、そこで動けなくなると、そのうちタイムアウトになって、橋が壊れた瞬間、足元が抜けてしまって、奈落の底に真っ逆さまにおっこちるということであった。

 小説を書いている時、

「私は余計なことを考えないようにしている」

 という人は、まさの同じ考えである。

 小説を書き切れない人、つまり、完成させることができない人は、

「余計なことを考えて、まとめきれない」

 という人であったり、

「考えることとして、気持ちに余裕あれば流れというリズムを作られなることではないだろうか?」

 は、

「作家には向いていない」

 といえるのではないだろうか。

 最初は、そのあたりが結構難しかった。調整というわけではあく、逆に、

「猪突猛進」

 という形になるからだった。

 小説を書いていると、何も考えることなく、妄想の世界に入れる。逆に考えてしまうと、書けないというものだと思うと、イライラしている時などは、却っていいのではないかと思うようになっていた。

 確かに、クソガキのうるささは、確かにたまらないものがあったが、耳栓をして、意識しないようにするために、

「小説の世界」

 に入り込むことで、自分が毎日のように、楽しくできるということが分かってきた。

 そのおかげで、自分も、

「もう少しで、椎名君のようになるところだった」

 と感じたのだ。

 それを一歩手前で思いとどまったのが、

「小説執筆」

 という趣味であった。

 小説を書く時というのは、かしこまってはできるものではなかった。

 最初は、原稿用紙に書こうと思ったのだ。

「パソコンが早いし、楽だ」

 というのも分かっていた。

 しかし、そちらに流れてしまうと、

「せっかく、集中力が大切だ」

 ということに気づいたのに、何かについていけないという気がしたのだ。

 その何かが最初は分からなかったが、そのうちに分かるようになってきた。

 というのも、分からないというのは、

「集中力というものが、パソコンの打つスピードについてこれないということであり、しかも、次に書こうと思ったことを頭の中にあるつもりでも、次の瞬間になると、忘れてしまっているのではないか?」

 ということになるという危惧からであった。

 小説を書くということは、

「集中力だけではないんだ」

 ということにも気づいた。

 もっとも、基本的なことは、集中力に結びついてくるというもので、集中力だけでは、どうにもならないものが、

「論理的な思考」

 であった。

 小説には必ず物語があり、

「起承転結」

 と呼ばれるものがあるだろう。

 それだけではなく、小説を書くことは、

「時系列の羅列である」

 ともいえるだろう。

 しかし、それを充実に守っていると、文章が続かなかったり、物語として、捻りがなかったりするというものだ。

 話の途中で、回想シーンがあったりするのはそのせいで、回想シーンをどのように演出するかというのが、難しかったりする。

 映像作品では、簡単そうに描いているが、想像力を掻き立てることが命の小説では、下手にややこしい設定にすると、読者を混乱させ、話が人によって、違う印象を持つというのは、ある意味、面白いことなのかも知れないが、それを、作為的にできるから、面白いのであって、

「結果的にそうなった」

 などという作品であれば、

「愚作だ」

 と言われるものになってしまうのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「時系列を捻じ曲げた小説も面白いのだが、一歩間違えると、まったく趣旨のない作品となってしまうだろう」

 と言われかねない。

 そう思うと、小説を書いていることで、自分が、何をしたいと思っているのか、頭の中で混乱してくると感じるのだった。

 そんな、

「小説を、刑部が書いているということを知っているのは、数少なかった。最近の付き合いの中で知っているのは、椎名君だけだっただろう。

 大学を卒業してから、しばらくは小説執筆から離れていたことで、きっと、サークルの仲間も、

「もう執筆から離れてしまったのだろう」

 と思っていることだろう。

 なぜなら、大学時代の知り合いとは、すでに連絡を絶っていたからだ。それは、小説うんぬんということではなく、ただ単に、

「社会人になってまで、大学時代の仲間と連絡を取ることが億劫になった」

 というだけのことだった。

 実際に、友達付き合いが嫌いだったわけでもないが、一時期、五月病に似た症状になったことで、本当は、一人寂しいという思いから、一人の友達に連絡を取ったことがあったのだ。

 しかし、その人が、

「俺、今忙しくて」

 と、本当に忙しいのか、どうなのか、わからなかったが、そういわれてしまうと、こちらとしても、

「ああ、連絡なんか取らなきゃよかった」

 と思ったのだ。

 連絡を取ることが、億劫というよりも、その時の相手の態度に、何か冷めたものを感じ、我に返ったと言った方がいいのか、

「しょせん、学生時代の友達なんてそんなものなんだ」

 と思った。

 その友達が嫌になったわけではない。

「俺だって、同じような気分の時だったり、本当に忙しい時は、人になんかかまっていられないだろうな」

 と考えると、自分が、友達の立場だった可能性も否定でいないことで、

「そんな思いをするくらいなら、キッパリと、断絶した方がいいんだろうな」

 と思っていると、不思議と誰も、刑部に連絡を取ってくる人はいなかった。

 実際に、誰も大学の友達が連絡を取ってくる人はいなかった。忙しいのか、それとも、鬱陶しいと思っているのか分からない。

 だが、刑部はそれでいいと思った。死後とも覚えなければいけない今だから、本当にこtrでいいのだ。むしろ、

「皆同じだ」

 と思うと、気が楽になってきた。

 だから、小説を書くこともキッパリとやめた。

「これから、一切小説を書かない」

 などという思いがあったわけではないので、

「そのうちに、気分転換で書くこともあるだろうな」

 と、趣味程度の発想だったのだ。

 小説をまた書くようになるまでに、思ったよりも、時間はかからなかった。

 再度執筆の再開をしたのは、27歳の時だった。大学を卒業し、就職してから。4年目くらいだっただろうか。

 仕事も3年もやれば、結構落ち着いてできるようになり、現場全体も見れるようになったことで、

「やっと、精神的に楽になってきた」

 といえるだろう。

 執筆をしていると、小説を書けるようになったことに、楽しみができてきて、この楽しみは、学生時代のものとは、一風変わったものだった。

「いや、これが、本当の悦びなのかも知れない」

 と感じたのだが、学生時代には、大学生という、一種のぬるま湯の中に浸かっているということに、不安があったのだ。

 しかし、就職すると、少し自分の立場が見えてくる。入社後すぐというのは、さすがに、不安がいっぱいだったが、次第に仕事を覚え、会社全体がおぼろげでも見えてくると、自分の目指しているものが分かってきた気がして、学生時代の不安が、やっと少し解消されてきたのだ。

 そのおかげで、どこか、それまでになかった余裕が生まれてくる。

 学生時代に小説を書いていて、

「何か、中途半端で、自分の限界が見えるはずもないのに、感じられるというのは、どういうことなのだろう?」

 と感じていた。

 それは、社会に出るということも分かるはずもないのに、将来へのビジョンという何段階の節目があることを分かっていて、その一つ一つを思い浮かべると、まったく先が見えてこないという感覚が怖かったのだ。

 その思いが、どこに結びつてくるというのか、実際に分かっていなかったのだ。

 だから、漠然とした不安だけが頭にあり、小説を書いていても、

「社会の中の一部しか知らない自分が、小説などを書いてもいいんだろうか?」

 という小説を書くということへの不安のようなものがあったに違いないのだ。

 だから、自分が書く小説のジャンルというのは、SFであったり、ホラーのようなものが多かった。

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