第5話 クソガキ
「なるほど、確かにそうかも知れないな」
と思うと、彼が言ったいくつかのパターンを反芻してみた。
ことごとく、納得のいくことであった。
「それはきっと、一旦考えをそこまで自分の中で持っていって、そこで我に返るかのようにならないと、次が出てこないようなことだった。
理論詰めで、一つ一つ先に進むという考えが、刑部には、今まで欠けていたことのように思えた。
「いや、それは、俺だけにいえることではないんだ」
と、刑部は考えるようになった。
そういう意味で、
「椎名君は、論理的に考えることが得意なんだな」
と思った。
得てして、論理的に話を進める人は、
「お堅い人間」
ということで、嫌われることが多い。
しかし、椎名君というのは、そこに嫌みがないのだ。
そもそも、
「お堅い人間」
のどこが悪いというのだろう?
しょせんは、
「お堅い考えを理解できない人が、せっかく理論で説明してくれているのに、自分には理解できないというレッテルを、他の人にも貼ろうとするからまずいのだ」
といえるだろう。
その人は、理解しようと努力をしていて、そんな自分が健気だと思ったとしても、隣で、
「そんな理屈っぽいことは、俺たちには不要だ。そんな考えなければいけないのであれば、付き合わなければいい」
という思いが伝わったとすれば、
「人間というのは、楽な方に進むのを本能だと思っている」
と考えると、
「考えないことが楽なんだ」
と思うと、そっちに流れてしまうことになるだろう。
そう思うと、楽な方に流されるという流れを、知らず知らずに、自分の中で作ってしまうということになる。
それを、いい悪いは別にして、自分の中で気づいてくるようになると、椎名君のような青年を、
「無視してはいけない」
と思うようになり、それが、椎名君に対して自分が興味を持ったということの証明のようなものではないだろうか?
椎名君は、そこまで感じているわけではないだろう。
椎名君にとっての考えというものがあるだろうから、それが、他の人にどのように影響してくるのか。刑部も分かったような気がした。
橋の上での話もそうであるが、椎名君の話には、いちいち、理屈がある。
それは、毎回同じに思える時もあるし、まったく違っていると感じる時もあるが、それは、思ったよりも、考え方が狭い中で起こる、
「椎名君の、考え方の渦巻きのようなものではないだろうか?」
と感じた。
すると、人の考え方というのは、こちらもいい悪いは別にして、
「渦巻きのようにグルグル回っているもので、結局、同じところで止まるようになっているのではないだろうか?」
ということであった。
その時から、刑部は、椎名君と仲良くなったのだった。
椎名君とすれば、
「初めてできた友達だ」
という、
「本当なのか?」
と聞くと、椎名君は、親友を、友達と表現しているようだったのだ。
椎名君が最近、嵌っていたのは、パチンコだった。
彼は真面目なところがあり、さらに、精神的なものなのか。あまり難しいことは苦手だった。
だから、
「ギャンブルは似合わない」
と思っていたが、どうやら、悪友に教えられたか、一緒にいって、後ろで見ていたか何かで、その面白そうな遊びを、
「自分もやってみよう」
と思ったようだ。
本当なら、パチンコ、パチスロというのも、いろいろなデータを研究し、
「負けないような遊び方」
というのをするべきなのだろうが、彼は、そんなことは考えなかった。
「目の前に面白いおもちゃがある」
という感じで、単純に興味を持ったものに、飛びついただけだった。
だが、不思議なことに、彼が負けたという話は聞かない。
「自分なりに研究しているのかい?」
と聞くと、
「いいや、そんなことはしていない。座った台が、結構当たったりするんですよ」
というではないか。
たまたま座った台が、そんなに簡単に出るということであれば、パチンコ屋はたまったものではない。ただ、
「出る人がいれば、出ない人もいる。逆に、出ない人がいれば出る人もいる」
ということであり、相対的に聞こえるが、実は違うものであって、あくまでも、
「パチンコというのは、圧倒的に出ない人が多くないと成り立たないものだ」
といえるのではないだろうか?
なぜなら、
「数分で1万円がなくなるようであれば、たいていはそこでやめるだろう。しかし、パチンコというのは、どんなに出る台であっても、出ない時間がしばらく続くというのは、普通にあることだ。一日を終わって収支が、プラスになる台もある、圧倒的に負ける台が多い中で、そういう台もなければ、当然、客が来ないということで、パチンコ屋としての商売が成り立たないということになる」
というものである。
パチンコには、
「大当たり確率」
というものが記されている。
それは、あくまでも、
「たくさんの時間を使って統計を取った結果の確率である。もちろん、最初に設計者が、企画要望のあった、当選確率に会うように、設計し、製作するのだが、それにあった演出や、大当たりのパターンを考えるのだから、ある意味、設計者という仕事も大変だというものだ」
何といっても、あれだけの機種を頻繁に世に送り出すのだから、当然といえば、当然、ギャンブル性よりも、ゲーム感覚も重要視しないと、客が寄り付かないということもあるだろう。
ここで出てきた
「大当たり確率」
というものであるが、これは、
「完全確率性」
というものを取っている。
一回転で外れたからといって、次から徐々に確率が上がっていくというものではないのだ。
たとえば、大当たり確率が、300分の1だったとしようか。大当たり後であれば、当然大当たり確率は、300分の1であるが、次の一回転であたりを引けないと、次の確率が、299分の1になるというわけではない。
そういうことになってしまうと、
「300回転のうちに、必ず当たる」
ということになるだろう。
そうなると、パチンコ台の上の表示に、
「大当たりから、現在何回転」
という表示が出ているので、300に近ければ近い台を皆狙うことになる。
さらに、そうなると、
「300まで回せば必ず当たる」
ということで、意地でもそこまで回し、最悪、300回点目で当たっても、それがどれだけ出るかということは誰にも分からない。
ひょっとすると、連荘に連荘が続いて、かなりの儲けになるかも知れないし、単発で終わって、また次の300回転までに当たるというものを目指して、つぎ込まなければいけない。
それがどういうことかというと、
「辞め時を見失う」
ということである。
辞め時というのは、ゲーム、いや、ゲーム以外でも、案外と重要で、それを逸したことで、大炎上ということも、ゲーム以外でも、えてしてあるものだった。
例えば、戦争などというものも、そういうもので、
「相手は大国で、とてもじゃないが、戦争を起こしても、勝ち目はない。しかし、戦争をしないと、今のままでは、自分の国は二進も三進も行かなくなり、黙って滅んでいくのを待つしかない」
ということになれば、
「戦争やむなし」
ということになる。
そこで、かつての、大日本帝国のように、
「世界の大国を相手に戦争を仕掛ける場合、綿密な作戦を組んで、個々の戦に勝利することを前提とし、相手の出鼻をくじくことで、相手に戦争継続の意思を失わせることを目的とした、和平ありきという方法で収拾をつけるという方法しかない」
というものが、
「辞め時の問題」
ということであった。
日露戦争の場合は、そのやり方が功を奏し、それでも、被害は、想定以上であっただろうが、何とか、アメリカに和平の仲介をお願いできるところで、しかも、
「勝利」
という形で追われた。
日露戦争の場合は、実際の戦闘でもそうだったのだが、功を奏したのは、
「外交」
だったのだ。
「栄光ある孤立」
と言われ、それまで、他国と同盟など結んだことのないイギリスと、
「ロシアの不凍港を狙った侵略行為への脅威」
という理解関係の一致と、日本の外務省、外交官の努力とで、何とか日英同盟を結ぶことができた。
日英同盟が功を奏して、ロシアのバルチック艦隊の動向であったり、航海中の、食料や、燃料の補給を、ことごとく拒否できたのは、イギリス領が多かったおかげでもあった。
そのため、長い航海に疲弊した形で日本に来たバルチック艦隊と、訓練に訓練を重ねて。満を持していた、連合艦隊とでは、
「やる前から、勝敗は決していた」
といっても過言ではないだろう。
それが、日露戦争での勝利だった。
だが、薄氷を踏む勝利であり、最終的に、まったく余力のないどころか、傷だらけの勝利だったのだ。
だから、それを見越して、
「賠償金は得られない」
ということになり、戒厳令が出るほどの騒動が、
「日比谷公会堂焼き討ち事件」
という形になったのだが、それでも、
「勝利は勝利」
だったのだ。
しかし、それから、40年後の、
「大東亜戦争」
では、そうはいかなかった。
何と言っても、石油や鉄の輸入を、完全に止められた状態で、まるで、
「血を流している人間の首を、さらに絞めつけようとでもする行為」
に対して、列強のいうことを聞いて、
「明治維新の状態」
つまり、歴史を、約100年さかのぼらせるということで、それこそ、多くの血を流して勝ち取った、
「安全保障」
というラインを放棄することになるのだ。
それは、日本という国に、
「死ね」
といっているのと同じことで、
「どうせ死ぬのであれば、戦って死ぬ」
と考えるのが、当たり前ではないだろうか。
今の人たちは、平気で、
「日本が、アメリカを中心とした、欧米列強に戦いを挑むなど、無謀だ」
といっている。
実際に学校でも、そう教育しているのだろうが、そんなものは、
「占領軍が、日本人の意識改革のために、刷り込ませた妄想」
に過ぎないのだ。
そもそも、日本は、
「外交によって、事態を収拾しようと努力してきた」
といってもいい。
しかし、問題の一つに、
「大日本帝国憲法」
というものが、立ちはだかった。
大日本帝国という国は、いわゆる、
「立憲君主制」
の国である。
立憲君主というのは、
「憲法に定められた条文を守り、天皇という君主、つまり、国家元首のいる国だ」
ということである。
その大日本帝国憲法の最初の条文は、
「主権」
であり、日本では、天皇が持っていた。
ただ、天皇にもいろいろな規定があり、その中に、
「統帥権」
というものがあった。
そこに書かれていることで、重要なのが、
「天皇は、陸海軍を統帥す」
というものがあった。
つまり、
「陸軍、海軍は、天皇直轄である」
ということで、
「陸海軍は、大元帥である天皇直轄である」
ということだ。
言い換えれば、
「政府であっても、軍の方針に口出しもできないし、機密を知ることはできない」
ということだ。
だから、政府の要人、たとえば、総理大臣が、軍部出身者であっても、政府の人間である以上、軍の作戦を知ることはできないのだ。
他の国であれば、大統領や首相が、
「戦争指導者」
ということになるのだろうが、日本の首相は、戦争に関わることができない。
「戦争を始めることはできても、辞めることはできない」
というジレンマがあった。
しかも、大日本帝国の慣例があり、
「軍には、政府とのパイプ役である、陸軍大臣、海軍大臣がいるが、それとは別に、軍の作戦を決めたり、予算を決めるという、参謀総長、軍令部部長という職があり、彼らが実質、軍のトップであった。つまりは、天皇の直下である。しかし、存在する慣例というのは、陸軍大臣と参謀総長を兼任してはいけないということであった、理由は、権力の一極集中につながるということだ」
というものであった。
だから、軍というものが、政府と独立し、しかも、政府と軍の両方を握ることができないのだから、首相といってお、戦争指導者でも何でもない。
ケネディ大統領が、
「キューバ危機」
の時、
「真珠湾攻撃を決意した東条首相の気持ちが分かった」
と言ったようだが、厳密にいえば、
「決意をしたのは、果たして、東条首相だったのか?」
という、横やりを入れたくなるのも無理もないことなのかも知れない。
そのせいで、せっかく日本の当初の作戦であった。
「当初は、先手必勝にて、頃合いを見計らって、和平に持ち込む」
という、
「唯一無二」
といえる必勝方法であったにも関わらず。あまりにもうまく行き過ぎたために、
「唯一無二」
を逃がしてしまったのだ。
考えてみれば、シナ事変の時でも、
「トラウトマン和平工作」
の時、中国に要求した内容で、蒋介石が、
「停戦に応じよう」
と思っていたところを、日本軍が簡単に、南京を落とせたことで、せっかくうまくいきかけた和平交渉の条件をさらに厳しくしたことで、蒋介石も不信感を募らせ、
「和平には応じられない」
と、戦争が継続してしまったのだ。
要するに、日本は、
「戦争を始めることはできるが、終わらせ方が、極端にへたくそだ」
といえるのではないだろうか?
それも、軍部の活躍によって、前が見えなくなったということで、
「実に皮肉なことだ」
といえるのではないだろうか?
いわゆる、大日本帝国というものが、そして、戦争というものがどういうものかということを考えると、
「落としどころというのが、いかに難しいか?」
ということであろう。
パチンコなどのギャンブルがそのいい例で、
「ギャンブル依存症」
というものが、真剣に問題になってくるというのも、無理もないことなのだろう。
ちなみに、パチンコにおける、
「完全確率」
というものだが、
要するに、おみくじのようなものだといっていいだろう。
「筒の中に番号を書いた棒があり、その番号のくじを引くことで、くじが決まるということだ」
というのだ。
300回回せば必ず当たるというのは、一度引いた棒をそのまま抜いたまま、次に引くから、筒の中には、299本しかない」
という理屈が普通の確率という考え方だ。
しかし、完全確率というのは、一度引いた棒を、また元に戻して、300にして、さらに引くことになる。だから、
「いつまで経っても当たらない。一日千回転回しても当たらないことだって十分にある」
というものだ。
だから、回転数が大当たり確率に近づいたといっても、それはただの目安であり、
「確率が高くなった」
ということでは決してないのだった。
そのことを果たして、どれだけ分かっているかということが問題で、頭の中では分かっているつもりでも、実際にのめりこむと、
「近いうちに当たる」
と思い込んでしまって、辞められなくなるのだろう。
それこそが、
「ギャンブル依存症」
の真髄であり、
「実に恐ろしいものだ」
といえるのではないだろうか?
そんな椎名君が、元々、
「勧善懲悪な性格だ」
といって、誰が信じることだろう。
いや、勧善懲悪な性格だからこそ、パチンコに嵌ったのかも知れない。ゲームにしても、パチンコにしても、元はアニメであったり、マンガであったりする。
そこに、ゲーム性を組み込むとするならば、そこが、
「勧善懲悪」
であるというのは、当たり前のことなのかも知れない。
ということを考えると、性格的には、
「まっすぐだ」
といえるだろう。
ただ、まっすぐなゆえに、
「融通が利かない」
ということであったりして、他人から、鬱陶しがられるかも知れないということは覚悟しなければならないだろう。
とはいえ、
「皆が皆同じ」
というわけではないだろう。
「一つの型」
というだけで、全員をその殻に閉じ込めてしまうというのは、実に乱暴なことだ。
せめて話をしてみて、どんな性格なのかということを、自分なりに理解して、付き合うことになるのが普通なのではないだろうか?
さて、そんなことを考えてみると、
「パチンコ依存症」
というのも、勧善懲悪と切っても切り離せないのかも知れない。
依存症というと、
「精神的なストレスから、快楽を求めるというもの」
であり、
「現実逃避」
などが、その裏に潜んでいるといってもいいだろう。
そうやって考えると、精神的なストレスが、病気にもなることだってあるわけなので、人によっては、
「身体を壊すよりもいい」
という人もいるだろう。
しかし、依存症というのも、
「一種の病気だ」
という人もいる。
「医者でも治せない難病」
という人もいるのだが、
「そうなると、どちらがいいのか? そもそも、いい悪いの問題なのか?」
というところに戻ってくることもあるだろう。
「勧善懲悪」
というのも、一種の、
「現実逃避」
だと考えたり、
「医者でも治せない難病ということにも通じるのではないか?」
と考えると、
「勧善懲悪と、井損傷は、その起源というのは似ているのかも知れない」
と感じたりするのだ。
今の時代において、
「精神的なストレス」
を、無視して暮らしていけないほど、
「世知辛い世の中になってきた」
といってもいいだろう。
ただ、そんな勧善懲悪である、椎名君が嫌いなものは、
「子供」
だった。
厳密にいえば、
「子供による騒音」
であった。
つまりは、まわりの騒音がうるさく、夕方など、部屋にいて、勉強しようとしている時に、近所の公園から聞こえてくる、わめき声であったり、マンションの他の住民の子供の声であったりが、相当鬱陶しいと思っているようだ、
かといって、公園に行って、騒音を聴いても、
「それは別に意識はしない」
と言っていた。
それはそうだろう。自分が集中していて、そんな時に、罪もないといえばそうなのだが、それだけに、まわりのことを気にしないというのは、
「非常識という言葉だけで片付けられるものではない」
ということではない。
とはいえ、自分たちが子供の頃だって、公園に行けば、まわりを気にせずに、ギャーギャーわめいていたのだから、自分たちと同じくらいの世代の人が親になった時、
「それを子供に推しつけるというのは、いかがなものか?」
といえるだろう。
だが、さすがに、うるさいことに変わりはなく、迷惑を被っていることも間違いない。
「クソガキが」
と言いたくなるのも、無理もないことである。
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