8、おまえは誰だ

 鏡に向かって「おまえは誰だ」と言い続けるとおかしくなる。

 そんなウワサがあった。



「おまえは誰だ。おまえは誰だ、おまえは誰だ……」

 ロアは姿見に顔を近づけて呟いで見る。いつもと変わらない顔。

「何もなりませんよ? バカらしいというか……なんか、こんなことしてる自分がヤバいやつだなって気はしてくるけど」

「続けて。できるだけ考えずに、ぼーっと見つめてみるんだ」

「おまえは誰だ、おまえは誰だ……」

 ぼんやりと焦点を合わせずに呟いていると、ふと「おかしいな」と感じる瞬間があった。

「え?」

 フォクに振り向いて、目があってからようやくその違和感が言葉になる。見なれた自分の顔が、知らない誰かの顔に見えた。変な奴が事務所にいるような感覚。それが自分の顔だと思えない。

「何かあったか」

「いや……自分の顔なのに、違うって思えて……」

「ゲシュタルト崩壊だな。認識する能力が低下する瞬間があるんだろう。続けて」

「えー……」

 ロアはまたじっと鏡を見てみる。嫌な表情をしていたはずが、その顔がふっと笑った。

「!」

 自分の顔があるはずなのに、鏡に知らない人が映っていて、突然笑った。いいようのない怖さだった。顔はロアの感情とは別に好き勝手笑ったりしかめたりしている。自分が世界から切り離されたような気持ちになる。ぎゅっと変顔をした何者かの顔に笑うよりも恐怖を感じた。自分とは誰か、何かという疑問がわいてくる。例えば、まったく違う顔になっても私は私といえるだろうか?

「ロア、眼鏡をはずして確かめてみろ」

 その言葉に少し落ち着いた。ロアは眼鏡をずらして見た。

「うわ!」

 叫んだのは鏡の中の顔だった。ロアの顔をしているが、これはロアではない。それは驚いたように目を泳がせていた。そうか、これがウワサから生まれた妖怪か。私は私だ。そんなのはホラーではなく哲学でしかない。

「お、ま、え、かー!」

「違いますよ! 別に人間を精神崩壊とかさせてませんって、ちょっと変顔してからかっただけで……」

「うるさい! 私の顔で好き勝手しやがって!」

 ロアは怒って自分のほおをつねって見せた。あわてた鏡の中の顔も引っ張られる。

「痛い痛い痛い! やめてー! 自分の顔でしょー?」

「私の顔だからいいのよ!」

「おちついて、将来の結婚相手の顔とか見せてあげますから……」

「いらねえ!」

 鼻に指を突っ込んだロアの顔はギャグだが、本人たちはいたって真面目だ。

「もうひとつ鏡があれば悪魔だって捕まえられますよ! だからやめて!」

「悪魔はてめえだろうが、おら、出てこい!」

 鏡を隔ててやりあうロアと妖怪を見ながら、フォクは記録する。鏡の中の妖怪、危険度小。処分の必要はないが、人間への周知と……ちょっと痛い目にあってもらうくらいはいいだろう。

「『妖怪おまえは誰だ』か。鏡に顔が映っている間は逃げられないんだな……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る