第2話 後のものは先になり、先のものは後になるだろう

 ヨーイどん! 

 とお母さんが声をかけて競争は始まった。父さんを呼び戻すの、と。文句を並べている暇なんてないの。通話を追いかけてくだくだおしゃべりして無駄に使った言葉を回収なさい、そう宣言する。

 まさみの役割は伝えるべき文字を紡ぎ直すことで、さつきはそれを届けるために走り、かをるは正しくチューニングせよ、ということらしい。だけど三人はよく意味も分かっていない様子で無為のままにそれぞれが焦りだけを高まらせる。まさみは鋏を手に大量のジンジャーマンを切り出しているし、かをるはコウモリとオタマジャクシを激しく回転させ、さつきは宅急便の荷物を抱えたままうずくまる。

 優勝したらなにがもらえるのかな?

 賞金十万円。

 アイフォンの最新型。

 アロマ・リフレクソロジーの回数券

 どれがいい?

 残念でした。せいぜい焼き芋よ。

 焼き芋?

 そう。近所のお店はみんなつぶれてしまって、笛を吹いてリヤカーを押してくる豆腐屋さんやチャルメラ鳴らしてやってくるラーメン屋さんはもういない。せいぜい軽トラの焼き芋屋さんくらいだから。それでも貴重よ、としぶちんの母さん。

 角のタバコ屋の脇に薬屋があって製薬会社キャラクターであるケロヨンと象、うさぎが並んでいた。特に赤いうさぎは十円を入れると動く仕掛けになっていて子供たちを喜ばせていた。反対側は牛乳屋で商品名が書かれたベンチがあった。どの店もとっくに廃業しているが今もそのベンチだけがシャッターの前に残されている。ペンキが剥げ錆びているが座ることはできる。

 ときおり老人の姿を見かける。

 こんにちは、

 と声をかけてくるのだ。今日はあったかくていいねえ、などとにこにこしながら誰にともなく話し出す。

 さつきが立ち止ると、次のバスは何時かな、目が悪くて時刻表が見えないもので、と訴える。

 バスですか?

 その道に路線バスが通っていた記憶はない。どのバスですか、と尋ねるのと新宿行、と答える。それなら表の広い通りに出ないと、ここには来ないから、と伝えるのだが、そうですか、と頷いたきり動かない。

 もう行っちゃったのかな、

 と呟いている。ずいぶん前に最終が出てしまい当分来ない、ってことになりますかな、と。まあ急ぐことはない。のんびり行けばいい。物事が次々にうまくいくこともあれば泣きっ面に蜂みたいになにもかもダメな時期もある。そういうときは大人しく待つ、これがボクの哲学ですよ、と説明してくれる。

 そのベンチは日当たりがよく、居心地もいいのだろう。毛糸の帽子をかぶり、ラクダ色のカーディガンを羽織った老人は満足げに微笑んでいる。

 でもどれだけ待ってもここには通らないの、

 とさつきが付け加えると、ああ、そう? と首をかしげる。おかしいな。昨日か一昨日見た気がするけど、廃止されたのかな。ずいぶん急な話じゃないか。不条理、って言葉が昔、はやったけど正に不条理。廃止決定なら今さらどうこう言っても無駄だとは知っているけどなんとかならないものかな。なにせうちのはあれに乗って行ってしまったもので、後の便で行くから、って約束していたのだけど。

 困ったものですね。

 困ったものだな。

 こんなやりとりをしていても埒が明かない。しばらくすると通りの先にある介護施設のスタッフがやってくる。あら、鈴木さん、こんなところにいたの、と。散歩の時間で出歩いているうちにはぐれてしまったらしい。そこがお気に入りらしくたびたび現れる。日向ぼっこしているのならいいじゃない、とさつきは思った。会話はおぼつかないが必ずしもボケているわけではないようだし。

 言ったでしょう、うちの奴、ずいぶん前に先に行ってしまって。同じ便に乗りたいのだけどもう来ない、って言うからどうしようかと思っていたら、最近、夢に出て来るようになってね。あれこれ文句ばかり言ってさ。そろそろ俺の番だってわかっているからこうしてここで待っているわけよ。

 鈴木さんは瞼をすぼめ、遠くを見る目つきになり、さつきは返す言葉を失った。大丈夫、もうすぐ来ますよ、と答えるわけにもいかない。それでもぽつりぽつり、と単語を並べるような彼の話し方が好きだった。


 いずれあなたにも見えるようになるよ、

 鈴木さんは教え諭すように続ける。

 みんな先を急ぎ過ぎているからね、仕事の効率を上げるのは当然だから仕方ないけどね、目的を達成すればそれでいいというものでもない。別の生き方もある。

 別の、そう、存在するのとは別のね。

 ものとものの間に注目すればいい。なにもないと考えてはいけない。あわいだよ。あわい、という言葉は「合う」から来ている。そこにぴったりはまる。もう一つ「遭う」もある。出逢いだよ。関係ということだね。変化しながら常に影響を及ぼし合う。力と呼んでもいいかな。それに気がつくと状況が違って見えてくる。

 大事なことはすぐ足元に転がっていたりするのさ。灯台元暗し、って言うだろう。こんなことばかり言っているとあいつは変人だとか世捨て人だとか、ってバカにされるかもしれない。確かにそういう面もある。路傍のゴミみたいなものに関わってもたいした役に立たない。でもそれがかえっていい。

 脱線だよ。人生は脱線。

 そこに醍醐味がある。本線を最後まで突っ走る奴はそうそういない。数万人に一人だよ。それが羨ましいかどうか。例えば秀吉だ。辞世の句は「浪速のことは夢のまた夢」だ。古い話で恐縮だけど天下を極めた男でもあっけないと感じた、ってことだよね。そしてどうなった? 信頼していた家来に息子のことを頼んだのに結局、誰も助けなかった。

 抹香臭い説教をしたいのではない。

 ボクは現実派さ。極楽浄土がどうのなんて気にしちゃいない。天に宝を積め、だなんて言わないよ。今を充実させることが大事だ。そのために境界線を見定めておくことが必要です。さっき言ったあわいだ。知らないうちに踏み越えないようによく見ていることだ。一歩離れればいろんなものが見えてくる。世間の人が特急列車みたいに通過している場所にいろんなことが埋もれている。それに気がつけば幸せになるコツがつかめる。

 鈴木さんはゆっくりと腕を上げる。

 するとその先に大勢の人がいるような気がした。みんな笑っている。あれがバスなのか。天国に向かっているのか。

 わからない。


 朝起きるとまさみは窓の外を確認する。

 あの人が門の脇でうなだれていることがあるからだ。雨の日でも傘もささずに立っている。気の毒だったのでふと思いついて糸電話を用意してみた。郵便受けの下に紙コップを置いておく。そこから糸が伸びて木の枝と窓枠の金具を経由して室内のまさみの手元にある紙コップにつながっている。

 モスモス、

 と聞こえる声は籠っていて、訛りがある様にも感じられた。

 スズ、持ってるか

 と尋ねられ鈴? と問い返す。スズ、ツヅ、チィーズだ、と繰り返されて地図のことだと思い当たる。道に迷っているらしい。だとしたらあれはやはり自分自身の姿ではないのか。

 部屋を見まわすと父さんがいつも虫眼鏡で覗いていた住宅地図が本棚の下の方に押し込められているのに気がついた。引っ張り出してみるとボロボロになっていたが構わず抱えて階段を駆け下りサンダルをつっかけて門の前に飛び出した。

 あの人の姿はない。

 郵便受けには不動産会社のチラシが突っ込まれているだけだ。雨に降られながら立ち尽くしていると封印されていた記憶がフラッシュ・バックした。

 あの朝も雨だった。

 まさみはコードレス電話の受話器を手に玄関の軒下で二時間近く話していた。相手の声は曇りがちでいくら叫んでも返事は「うん」とか「いや」とか「たぶん」でしかない。そして突然、通話は切れた。電池がなくなったのだ。電電公社の黒電話をやめて買い替えたばかりだったのに。まだ携帯電話は普及していなかったので充電が終わるまで通話を再開する方法はなかった。駅まで出かけて百五度数のテレホンカードを買って公衆電話からかけてみたが応答はない。電話機には105という赤い数字が点灯したままだった。

 やはりあれはあたし自身なのだ。

 地図が必要なのは自分だ、と悟った。そうして無性に心細く、悲しくなった。

 家を売ってください、

 とチラシは訴えている。「今が売り時」とか「このあたりで探している家族があります」などともっともらしいことが書いてある。

 こんな古い家でいいのでしょうか。

 こんなあたしでいいのでしょうか。

 あんな人でもいいのでしょうか。

 どうでしょう?

「買い手は必ず見つけます、ご納得のいく価格を目指します、未来への価値創造と信頼ある取引をお約束します」

 と謳いあげる薄い紙は雨に打たれ萎れた花のように重たくなる。

 向かいの家の窓には顔が現れていた。警告するように大きく口を開けたまま見下ろしている。


 お向かいさんはずいぶん前から空き家のはずだった。子供たちはとうに独立し、夫婦のみの所帯だったが夫に先立たれた妻も施設に入り誰も住んではいない。ごく稀に長男が様子を見に来ていたがそれも途絶えている。郊外の一軒家で駅からも離れているため不動産としての価値は期待できない。古い木造家屋はむしろマイナスの存在だ。

 二階の窓に現れる顔が気になったのか母さんが一度、敷地内に立ち入って調べようとしたがはかばかしくなかった。長男の連絡先もわからず、かといって警察に通報するのも憚られた。こうした場所は無数に存在するのだろう。

 一度、長女の一家が大挙してやってきたことがあった。

 暑い夏の日でうるさいくらいにセミが鳴いていた。大きなワンボックスカーを横づけにして子供たちが飛び出してくる。ごく狭い庭は雑草に覆われていたがその中を走り回り、物置を開けると中から園芸用品を取り出してあちこちに積んでいく。両親は合鍵で家に入り、中で狼藉を働いている。

 なにかお手伝いしましょうか?

 とさつきが尋ねると、大丈夫です、と断るのだがもしよければ、と家の中から持ち出した家財道具を塀の脇に並べる。物干し、バケツ、洗濯ばさみ。鍋、たらい、漆の器。欲しいものなどないのだが捨てるのはもったいないとも思う。

 一日中、大騒ぎだった。

 昼になると母さんは、カレーでもどうですか、と声をかけた。一家は悪びれもせず、いいですねえ、とやってきて、かわるがわるカレーを食べた。

 井上さん

 というのがお向かいの苗字だったが、一家は長谷川さんで、父親は眼鏡をかけた真面目そうな痩せた人だった。母親の悦子さんはさつきと年が近く、幼い頃、一緒に遊んだ記憶もあった。所帯窶れした雰囲気ではあったが、活発で乱暴な子供だった頃の面影もある。互いに思い出し、最初のうちは気まずい感じもしたが、話しているうちに、エッちゃん、サッちゃんと昔の呼び方を取り戻した。

 聞けば高齢のお母様はそのまま施設で過ごすことになりそうなので、自宅を片付けておいた方がいい、と弁護士さんにアドバイスされたのだという。

 さつきはボランティアで庭の雑草を刈ってやった。そうでもしないと藪蚊に刺されそうだと思ったのだ。家の中は蒸し暑く埃が舞って最悪の環境だった。それでもまさみは二階の子供部屋で見つけた「キョロちゃん」を使い色とりどりのかき氷を盛りつける。子供たちは大喜びだ。さっぱりした庭にさつきが水を撒いていると子供たちが飛び込んできてずぶ濡れになりながら踊った。

 一方、父親と母親は汗だくになって一心不乱に押し入れや箪笥を漁っていた。廊下にまでさまざまな家財道具が散乱し足の踏み場もない。まさみはそれらを取り除けながら回遊した。

 睡眠学習機

 ママレンジ

 オセロゲーム

 などを見つけて懐かしがっていたが、とりわけリビングの棚に置いてある時計が気に入った。薄い緑色の大理石の文字盤は金色のモールで飾られ、CITIZENと表示されている。金色のアーチの中に仕込まれたクリスタルの天使が回転する仕掛けらしい。どうぞ、と言われたので自分の部屋に持ち帰り磨いてみた。期待通りきらきらと輝き電池を交換するときちんと動く。

 時折、二階に現れる「顔」のことをエッちゃんに話してみたが、あらやだ、と眉をしかめただけでさして気にも留めない様子だった。心当たりはないという。

 うちのパパ?

 と肩をすくめる。あの人は化けて出たりしないよ。この家にも未練ないはずだしさ、と。なんでも若い頃は外に女がいて騒動が絶えなかったらしい。今さら古い家に戻ったりはしないはずだ、と。本人の希望通り、故郷で樹木葬にしたという。

 だけど口を動かして話しかけてくることもあるの。

 まさかね。気のせいじゃないの? ガラスに映った自分の顔を見間違えたとかさ。

 確かにエッちゃんの言うとおりだ。気にし過ぎなのかもしれない。空き家にしても掃除はきちんとしておかなければダメなのだろう。目的を達したのか長谷川家ご一行は建物の内外を散らかしたまま帰ってしまう。さつきとまさみはヒグラシが一日の終わりを告げる薄闇で、散乱したあれやこれやをなんとか室内に納めて自宅に帰還した。

 長男がやって来たのはそれから数週間して秋の気配が漂い始めてからだった。屋内の様子に驚愕したらしく、母さんに事情を尋ねた。長谷川一家の来訪の顛末について聞くと、

 あのアマ!

 と妹を罵った。母親が存命なのにもかかわらず兄と妹で資産の分割について揉めているらしく、妹は預金通帳やら保険証書やら家の権利書などを持ち去っていたのである。

 さつきをまるで犯人であるかのように睨みつけられた。

 あり得ないよな。

 手伝って欲しい、と頼まれたので井上家に入り、散らかっている室内でファイルやら封筒やらをかき集め、重要な書類が残っていないか調べた。兄も妹同様、荒っぽい気質でわんぱく坊主だったのを覚えている。高校生の頃、家を出たきりよりつかなかったので接点はほとんどない。

 今回は妹の方が一枚上手のようだった。

 礼も言わずに立ち去る背中を見送っているといつものように「顔」に気がついた。二階の窓からこちらを見下ろしている。表情もなくただそこにいる。誰もいないはずなのに、と見あげていると消えてしまった。顔はときどき現れる。母親は施設にいる筈だし父親の霊でもないとするといったい何者なのか。まさかうちの父さん? 囚われの身となってあそこから娘たちを見守っているの? ありえないよね。

 なにかを訴えていることは確かだ。それ以外のことはわからない。


 顔は不思議だ。

 身体の一部だがただの物質ではない。人と人が向き合う時、そこに表情が現れる。反応がなければ死体かロボットを思わせ不気味だろう。表情を読み取ることが難しい場合もある。よく知っている顔、初めて見る顔、誰かに似ている顔、どこかで見たような気がする顔、好きな顔、嫌いな顔、優しい顔、怖い顔、さまざまだ。目、鼻、口といった造作にはさほど違いがなくとも一つとして同じではない。

 忘れたいのに忘れられない。

 反対に記憶にとどめたいのに覚えられない。

 いつも動いているから完全に把握することはできない。写真やビデオで記録することはできるが部分的な痕跡に過ぎない。そして顔自身は顔を知らない。鏡に映している間、一面を垣間見ることができるだけだ。

 顔は至る所に現れる。

 犬や鳥にも顔はある。自動車や家が顔に見えることもあるし、路傍の石や花びらに表情を読むこともできる。心霊写真に写っている顔と同じで錯覚だ、と言えばそれまでだが いったん気がつくと逃れることはできない。

 顔を裏切ることはできない。

 なぜならそれはあなた自身を含んでいるからだ。単なる外部ではないしもちろん内部でもない。いつもそこにある両者の関係なのだ。


 かをるの勤務先のライブラリーでは劣化しかけた古いフィルムをデジタルデータに置き換える作業が行われている。ビデオカメラが普及するまで屋外での撮影は光学フィルムで行われていた。報道の現場で多用されていたのは八ミリフィルムで二分くらいしか持たない。一分間に二十四コマ。パラパラ漫画の要領で人々が動く。モノクロの画面の中で都電がゆっくりと銀座の交差点を過ぎり、カミカゼタクシーが猛スピードで走り抜ける。パーマで髪を結いあげた女性たちはショーウィンドーを覗き込み、黒縁眼鏡の勤め人がインタビューに答えている。みんながひっきりなしにタバコを吸う。夜になればネオンサインは不必要なまでに点滅し、歩道に泥酔した酔っぱらいが倒れている。とにかくみんな輝いている。顔が明るい。

 音はない。

 音声は独立した録音機で六ミリのテープに収録される。映像、音声どちらも編集はハサミで切って張り合わせていた。こうしたアナログ素材をテレシネと呼ばれるプロセスでテレビ用の電気信号に置き換えデジタルデータに起こして保管する。

 コマとコマの間にはフレームがある。

 コウモリだ、とかをるは思った。隙間を飛び回っている黒い影は通常検知されない。ところがひとたびリールの回転速度が狂うとたちまち姿を現す。すべては錯覚なのだ。動いている間だけ現実は存在するかに見える。変調にとどまらず停止してしまえば、それはすなわち死を意味する。時間の秘密が暴露され、黒い影は正体を現して羽根を広げる。光は奪われ画面は暗黒に覆われてしまう。

 カチン、

 と固い金属質の音がしてVEがフィルムを装填しなおすとぬっ、と巨大な一つ目が姿を現す。漆黒の帳を破って夜を横断する都電だ。絢爛たる輝きを路上にまき散らし、繁華街のにぎわいを曳航しながら人通りが減った街路を悠然と渡っていく。

 いいね、

 とVEは呟いた。かをるもそう思った。こんな乗り物は他にない。京都市電は「きよみず」とか「ぎおん」など一両ずつ名前が付いたらしいけど、不思議はない。どこか愛嬌があり、ペットのようだしそれでいて威厳もある。VEが同じ意見なのかどうかはわからないけど、

 いいね、

 と彼女も呟いた。


 夜の底を突き破るようなけたたましい音がして目が覚めてしまう。闇はまだ深い。瞼の裏ではプレビュー室でちらついていたコウモリたちの影が翼を広げている。

 あれは君の父親じゃないか、

 とVEは言う。暴走族ではなくて防錆族。錆びたバイクがまだ走れますよ、ってアピールしている。たまに動かさないと本当に動けなくなる。人間と同じだ。アクセルもブレーキもレバーが錆びかけてコチコチになるから慌てて油注したりしてさ。古いからブレーキパッドが擦り減ってキーキー言うし、エンジンも頼りないけどとにかくベアリングがつぶれるまで走る。というわけでものすごい音がする。

 暗がりでシーツの上をすべる彼の指先は細やかに動く。そして優しい。かをるは黙っている。薄々気がついてはいた。母さんが隠している秘密について。父さんはキカイダーみたいにオートバイを乗り回していた。サイドカーに母さんを乗せて。それは嘘ではない。だけど父さんはキカイダーでもないし英雄でもない。

 夢は都電の運転手だったらしい。だけど都電は廃止された。地下鉄は嫌だった。一生、トンネルを走り回るなんて。だから都の職員はやめて長距離運送の運転手になった。給料は良かったらしい。そしてそのままどこか遠くへ行ってしまった。それだけのことだ。

 溢れかえる自動車の波に囲まれて身動き取れなくなっている都電の姿は不器用だった父さんの姿に見える。のろのろとしか進まず方向転換もうまくいかない。乗客にはののしられ、ドライバーからは邪魔者扱いだ。廃止に伴って、

 ありがとう、さようなら

 と書かれた花電車のパレードがあちこちの街角で行われ、ニュース映像に残されている。それを見ているとつい泣けてしまうのだ。目的もなく夜更けの都心で騒音を立てる防錆族も似たような存在だ。とっくに忘れられている。哀れなのだ。 

 どうか思い出してください、

 と正面切って言う事もできずにぞっとするような金切り声で人々の関心を引こうとしている。首都高速をサーキットに見立てレースを繰り広げるルーレット族も顔負けのすさまじさに警察への通報は鳴りやまず、最初はパトロール隊が映画さながらのカーチェイスを繰り広げた。やがて警察は手を引く。追うほどに相手を喜ばせるだけだ、と気がついたのだ。大都会の行政府に亡霊の相手をしているゆとりなどない。放っておけばそのうち消えるだろう、と無視を決め込んだ。性質の悪い亡者は他にもたくさんいる。無政府主義者に結婚詐欺師、麻薬の売人と通り魔、博打ち打ちに神懸かり。いちいち相手にしていたらキリがない。

 悲鳴は空回りする。

 あたしを見て、ほら、こんなに悲惨なのよ、といくら叫んでも聞いてもらえなければ意味がない。

 油を注してあげればいいのかな、

 とかをるがつぶやくとVEは笑う。

 そうかもしれないな。だけど滑り過ぎたらそれはそれで問題だ。記憶と同じさ。ありとあらゆるできごとがいっぺんに思い出されたら脳みそがパンクしてしまうだろう。ショックで死んでしまうよ。ほどほどの抵抗がある方がいい。過去の経験は少しずつ取り出されるから役に立つ。嫌なことも適度に忘れたほうがいい。自己嫌悪に陥るだけだから。都合よく改ざんすることだって必要さ。

 男と女もね?

 そう、機械と同じ。間、ってのが大事だ。技術屋は「アソビ」と呼んだりする。寸法がぴたりと合致しているとかえって故障の原因になる。


 お父さんの知り合いでして、

 と訪ねてきたのは顔色の悪い初老の男だった。背は低く小太りでうす汚れたジャンバーをはおっている。冴えない感じではあったが、野太い声には迫力があった。

 その人のことは知りません、

 と母さんは追い返そうとしたが、まあそう言わないで、事情を説明しますから、と上がりこんでしまう。リビングのソファに勝手に腰を下ろすと灰皿もないのに煙草に火をつける。その日はシフトが入っておらずビスコッティに挑戦していたまさみが台所から空き缶を持ってくる。

 ご主人はなかなかの方でした、

 とおもむろに話を切り出す。なんでも関西で会社を興し、一時期は景気も良かったという。しかし人手不足などで事業は暗転、事務所を閉めて働いた。数年前、事故を起こし怪我をしたらしい。保険も出たが元のようには働けない。今も療養中だという。

 そこでですな、ご家族のみなさまにも少し助けていただきたいというわけで、

 と男は煙草をねじり消しながら本題を切り出す。要するに金を出せ、という話らしい。残念ですけどうちにはそんな余裕はありません、と母さんは断る。会社のことはわかりませんし、事業には関わりないですから、と。

 そうは言ってもね、あなたたちは戸籍上、家族だし、この家も抵当に入っているのですよ。

 男はニヤリと嫌な微笑みを浮かべた。

 法律のことは弁護士さんに相談しますから、そちらを通してください、

 と母さんは動ずることもなく流そうとする。

 そういう話じゃない!

 男は突如、声を荒げ空気が張りつめた。

 いいですか、開業資金はこっちが出した。つまりね、俺はあんたの旦那に金を貸している。貸したものは必ず返してもらわなければならない。それが世の道理ってものでね。

 男は汚れた爪で煙草のパッケージをはじき、煙草を取り出す。

 違いますか?

 違うと思います、

 と母さんは返した。まさみは廊下でやり取りを聞きながらいつでも警察に連絡できるよう携帯電話を準備した。

 こっちが丁寧に話しているのにそんな態度でいいのかな? 後悔することになりますよ。

 どうでしょう。後悔するのはあなた様かもしれません。

 激昂した男はドン、とテーブルを叩き、

 わからない人だね、痛い目にあいたくなければさっさとあるだけ出せばいいんだよ、

 と叫び睨みつける。こうした人種の作法なのだろう、稚拙だが効果的だ。悪いようにはしないからさ、と。

 ところが驚くべきことにその瞬間、ちりりん、と玄関の電話が鳴った。電話機は下駄箱にあったがベルの音を聞いたのはずいぶん久しぶりの気がした。それもそのはず、回線がつながっていないのだから。まさみは廊下を走って埃まみれの受話器を取った。重たい。当然、耳に当ててもウンともスンとも言わない。

 それでも咄嗟に、もしもし、と声を上げる。

 あの人だ、と思った。あの人が来たのかもしれない。リビングでは男が煙で咳き込む。きちんと消さずに落した吸い殻が缶の中で燃えているのだ。母さんは黙ったまま様子を見守っている。煙は量を増し男の頭部を包み込んだ。

 なんだい、こりゃあ?

 眼の前にゆっくりと人面が現れる。次第に輪郭を露にし、体積を拡大しながら対峙している。男はさすがに驚いたのか缶を遠ざけるようにして座り直した。しばらくは我慢していたが居心地悪そうに腰を上げ、煙いなあ、と壁際まで後退する。

 もしもし、もしもし。

 まさみの返答が木霊している。

 どちらさまですか? 

 煙幕に覆われた男は腕を上げて防御するようにしたが視界を失い、鼻、口にも入り込むため咳と鼻水が止まらなくなった。おい、なんとかしろよ、と叫んだがどうにもならない。ヨタヨタと壁を伝いながら廊下に転がり出る。

 どちらさまですか

 どういったご用件で

 ご用でなければ切りますよ

 煙はしつこくまとわりつき追及している。

 おい、必ず出直してくるから金を用意しておけよ、

 と言い残すと男は逃げるようにして玄関に走った。顔はどんどん大きくなって男を追尾している。

 カァ!

 ふと見上げるとカラスが西の空を横断している。黒い影がいくつも羽ばたいて暗号のように文字を描きながら小さくなっていた。

 街路に男の姿はなく煙も消えている。

 母さんは一人、リビングのソファに座ってまっすぐに宙を凝視していた。それがいつの、どこなのかまさみにはわからなかったが遠いところだ。

 母さん、

 と呼びかけても返事はない。時が止まったかのように感じられた。なにかが伝えられ、同時になにかが持ち去られていた。

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