第2話 猫耳は踊る、されど進まず
あり得ない状況。その光景はあまりに妖艶で、身体も心もピュア(童貞)のネリウスには刺激が強すぎた。目の前で猫耳の美少女が「うにゃうにゃ」と喘ぎながら、ベッドに横たわっている。
(こ、これは…刺激が強すぎる…)
ネリウスは両手を腕組みし、部屋の中をうろうろしながら考えた。この猫耳の美少女、もといルーニアと名乗る彼女をどうすべきかである。
(困ったな…。僕の大切な武器を盗んだことは絶対に許せない……けど、このは人そんなにエロい…いやいや! 悪い人にはどうしても見えないんだよな…。それに恩人のゴルホフさんの親戚だって言うし、あぁ…故郷のお母さん、僕はどうすればいいんですか…)
「うーん、うーん」
とネリウスが唸っていると、急に部屋のドアが「バタン!」と開いて、部屋の扉の倍はありそうな巨体のゴルホフが扉を潜り抜けて入ってきた。
「ひいぃ!」
ネリウスは驚きのあまり変なわめき声をあげながら地面に倒れ込んで、その衝撃で腰を抜かしてしまった。
「ん? なんだ坊主。そんなに驚いたような顔して」
「そりゃ驚きますよ、今日だけで二回目ですよゴルホフさん!」
「はっはっは! 確かにそうだった、こいつはすまねえな。いつもの癖でやっちまうんだ、な? 許してくれ!」
「もう…」
豪快に笑い飛ばすゴルホフを見て、ネリウスは怒る気力もなくなってしまった。と、そのとき…
「動くなにゃ」
瞬間。誰一人として動くことができなかった。そう、ルーニア以外は。ルーニアは獣族らしい俊敏な動きでベッドから起き上がり、またたく間にネリウスの首筋に爪を突き立てた。それから静かな声で二人に脅迫した。
「もう一度いう、動くなにゃ。動けばこのガキの動脈を掻っ切るにゃ」
背後から首筋に爪を突き立てられたネリウスは、冒険者の本能として理解した。これは決して脅しではない、と。
「おいガキ。いまからわたしの質問に答えるにゃ。答えなければ殺す、嘘をついても殺す、お前の言ったことが嘘だと分かったら、そのときもやっぱり殺すにゃ」
そういってルーニアはゆっくりと手を伸ばし、ネリウスの尻尾を掴んだ。
「ひ、ひいぃ!」
「うるさい、黙るにゃ!」
ルーニアはさらに強くネリウスの尻尾を引っ張った。
「にゃるほど…やっぱりおかしい。なぜお前のフェロモンはこんなに強いのにゃ? 普通の獣族ではありえないくらい『強い』にゃ」
「そ、それは…」
ネリウスは言葉に詰まった。己のルーツ、この現象を説明するためにはそれを話さなければならない。状況だけ見れば、ネリウスには話す必要があった。当然だ。いまこの場でネリウスの命を握っているのはルーニアなのだから。返答によっては、その爪はネリウスの命に届きうる。
「くっ…」
「どうしたにゃ、早く話すにゃ」
爪を突き立てるルーニアの力が強くなった。そのせいで、ネリウスの首筋から真っ赤な血が流れた。
トラウマ。抗うことのできない過去の楔。いま、ネリウスの言葉を阻害しているのは紛れもなくトラウマだった。劣等種としての楔。迫害を受けた楔。それらすべてがネリウスを苦しめていた。そのとき…
「ネリウス、話せ」
極限状態のネリウスの耳に、その言葉だけが響いた。
「ゴルホフさん…でも、僕は……」
「話せネリウス。いまお前が助かる道はそれしかない。こいつは悪党だが、嘘をつくようなやつじゃない。俺が保証する。しっかりと真実を話せば命は助けてくれるだろう。それに、もしこいつがお前の話を聞いて馬鹿にするようなことがあれば…」
「あれば、なんにゃ?」
「俺は絶対に、お前を許さない」
沈黙。重苦しい空気が部屋に流れた。ゴルホフは本気だ。本気で僕のことを思っていてくれる。それだけがネリウスには分かった。その言葉だけが、ネリウスに勇気を与えた。
「分かりました、話します…」
「ふう、やっとその気になったかにゃ…」
「ただし!」
「うん?」
「爪と、僕の尻尾を話してください。こんな状態では話すものも話せなくなります」
「…おまえ本気かにゃ?」
「はい」
「…にゃるほど、お前の意思はよく分かったにゃ」
「それじゃあ!」
「お前に真実を話す気がないってことがにゃ!」
ルーニアは爪を深く突き立てた。ネリウスの首からはありえない量の血が流れた。
「くっ!」
ネリウスが素早くルーニアの腕を掴んだので、ネリウスはなんとか一命をとりとめた。が、状況は変わらない。ルーニアは獣族だ。人間族の血が多く流れるネリウスと比べると、その力の差は歴然だった。このままでは、いつかネリウスが殺されることは確実だった――
しかし、それは『通常時』の場合。
「放せルーニア! その坊主は嘘をつくようなやつじゃない! 逃げも隠れもしない、絶対に真実を話す、俺が保証する!」
「嘘にゃ! 誰がお前らのことなんて信じるかにゃ! お前らは絶対に逃げる、そして憲兵にわたしを売り渡すにゃ! あの薄汚いやつらに!」
そう、それは『通常時』の場合。
龍族のような爪もなく、エルフのように魔法量もなく、人間族のように剣技も覚えていない少年のネリウスが、一人故郷を出、長い旅路をくぐりぬけてこの王都までたどり着けた理由。
「くっ、なぜ分からない! 俺たちがお前を憲兵に売り渡したりなんてするわけがないだろ! このさい武器もいらない、どこかへ逃げてくれたって構わない。だから、坊主の命だけは助けてくれ!」
「うるさいにゃ! わたしは誰も信じない、お前らなんか信じないにゃ! くっ…早く死ねにゃああああああああああ!」
ルーニアはさらに力を強めた。あと二秒か三秒、ルーニアが力を強めるのが早かったなら、ネリウスは死んでいただろう。しかし、ここはまぎれもない異常の場。いまは命の奪い合いをする、まぎれもない『異常時』。
六大陸の歴史1
なぜ純血種が最強とされ、混血種が劣等とされるか。それは異種族交配の致命的な弱点、『血が薄まる』ことにある。純血であればあるほど原初の六王の力を色濃く受け継ぐという習性を持つ六民族にとって、異種族交配とは当然の禁忌なのである。
魔族の特徴1
原初の六王「沼地のガルボ」の血を継ぐ魔族は、生まれつき能力の上限が決まっており、死ぬまで変わることはない。しかし、長い歴史の中で己の能力の上限を突破するものも存在した。その方法とは他の種族を喰らい、その能力を吸収することだ…
しかし上記の内容はごく稀である。長い歴史のなかでその能力が発現したものは『魔神』と呼ばれ、みな例外なく魔族の歴史にその名を刻まれる。
ネリウスの特徴1
ネリウスは特定の条件下によってのみ、その肉体を活性化することができる。その理由として、魔族の血を継ぐネリウスが微弱ながら他の能力を喰らうという習性も受け継いでいることにある。つまり、本来劣等であるはずの混血はネリウスにとっては喰らう対象であり、『異常時』であればあるほど四血が色濃く発現し、原初の六王に近づくのである。
いまはまぎれもない、『異常時』
「離せ」
ネリウスの身体は変化していた。獣族の血で体が大きく変化し、尾は美しい金色の毛並みに生え変わっている。エルフの血で耳がとがり、純碧の眼はより凛々しく、神々しさを放っていた。そしてなにより、この場にいる二人をもっとも驚愕させた変化。本来、純血の魔族だけが持つ圧倒的な強者の余裕。食物連鎖の中で喰らう者のみが持つことを許される、絶対的強者の覇気を、ネリウスが放っていたことだ。
ネリウスは静かに言った。
「爪を離せルーニア、これは命令だ。もしそうしなければ、僕はお前に攻撃しなくてはならない」
ネリウスの言葉は深く、静かに部屋に響いた。いま命を握られているのはルーニアだ。ネリウスの魔力量が上昇していくのをルーニアは獣族の優れた洞察力で感じ取った。この世界において魔力量はすなわち戦闘力。ルーニアは自分の命がネリウスに握られていることも、これ以上にないほど感じ取っていた。
「お、お前は何物にゃ、にゃぜこれほどの魔力をお前が持っている! それにこの匂い、お前魔族だ……にゃにゃ!」
瞬間。瞬く間にルーニアの爪から逃れたネリウスがルーニアのぷるんとした唇に人差し指で触れ、それからルーニアの眼を純碧の瞳で見つめた。まだフェロモンが残っていたのだろう、ルーニアはネリウスの凛々しい瞳に見つめられて顔を赤らめた。
「しっ。だめだよルーニア、それ以上は言わないでくれ。僕はこの身体をあまり気に入っていないんだ。お願いだから、君の口からそんな言葉を聞かせないでくれ」
喋ることができないルーニアは、コクコクと眼を見開きながらうなずいた。
「いい子だ、それでいい。いい子のルーニアはこれから僕が言うことも聞いてくれるね? まず僕がいまから手を離す。もし君が逃げるのなら、僕は追いかけないことを約束する、絶対だ。でもルーニアには逃げないでいてほしい。これは僕のわがままだ。なぜって、僕はまだ君の質問に答えていないからね。いいかい?」
ネリウスの獣族としての能力『フェロモン』は異常時にも発現する。ただ一つ違うのは、通常時ですら普通の獣族の何倍にも強いフェロモンが、異常時であることによって通常の『何十倍』にも強化されているということだ。
すぐ近くで何十倍にも強化されたフェロモンをあび続けたルーニアは、返事をするどころか、もはや立っていることすら限界だった。
「よし、今から手を放すよ。いいね? ルーニア。どうか逃げないでおくれ」
と言ってネリウスが手を離すと…『バタン!』と派手な音をたててルーニアは床に倒れ込んだ。
「…あれ?」とネリウス。
「…ありゃりゃ」とゴルホフ。
「にゃにゃあ…」といってイキ倒れするルーニア。
ネリウスの身体は、もはや『異常時』ではないことを悟ったのだろう。通常の、幼い少年の身体に戻っていた。
「まあ、なんだ。これにて一件落着だな!(にっこり)」と、ゴルホフはネリウスの肩をポンと叩いた。
こうしてまた何ひとつ事件は解決しないまま、物語の空白が少し埋まるのだった。
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