第20話 ~斎藤さんの一次呼吸~ 愁一郎の語り
今日は検査だけをする旨を伝えた僕は、治療用折り畳みベッドを開けて部屋の中央にセットした。
斎藤さんは左足を骨折しているから、立位をとると左への荷重を避けて重心が右へ寄ってしまう。本当は立位で骨格のアライメントをチェックしたかったけど、重心が偏っている状態じゃ、ちゃんと検査結果が出てこないから、仕方がないので治療ベッドの上に座ってもらってチェックした。脊椎に沿ってさっと指を滑らせると、胸椎七番を中心に若干の歪みを感じた。
それよりも気がかりなのは、斎藤さんへの心的ストレス。一応、触る前に一声かけたけど、やっぱり緊張は避けられないようだ。僕が触れた途端、斎藤さんの全身に力が入った。こればかりは、徐々に慣れていってもらうしかないんだろうけど。
次は、治療ベッドの上に仰向きに寝て、両腕はお腹の上には置かずに、体に沿って伸ばしておいてもらうよう指示した。
僕は部屋から適当な丸椅子を持ってくると、斎藤さんの頭側に置いて座る。
「頭をさわります。気持ち悪かったら言って下さい」
そう予告して、両手で頭蓋骨を左右から包むようにコンタクトした。小指から人さし指までの四指を全て、頭蓋の隆起や縫合部分にあてる。
「いいにおい。オレンジ?」
うっすらと目を開けた斎藤さんが訊いてきた。
気に入ってくれたみたいだ。つけてきてよかった。
「ハンドクリームの匂いですね。この村で作ってるんですよ」
答えた途端、数歩離れた位置で見ている浅葱が顔をしかめた。
浅葱は料理人だからな。食材に匂いがつくようなハンドクリームの類は嫌いなんだ。僕は指先が命の職業だし、こうやって患者さんに喜んでもらえる事もあるから、ありがたく且つ積極的に使うんだけど。
今つけてるのは、オレンジと乳香のハンドクリーム。真知さんを含めた真識の奥様方が作っているアロマグッズの一つだ。
大屋敷にある石鹸や化粧水、シャンプーや入浴剤など、殆どのスキンケア品はここで作っている。それに加えて、法律上の問題で医薬品扱いのものは出せないけど、ポプリのような、雑貨として出せる製品は町の店におろしている。いい小遣い稼ぎになっているらしい。ここの女性たちは実際、男性よりも稼ぎ上手だ。
真識で作った製品のメリットは、品質が良い点。デメリットは、使用期限が短い点。保存料が入っていないから、日持ちしないんだ。
「多分、真知さんがお風呂に何か用意してくれてますよ。嫌じゃなければ、使ってみてください」
説明の後でそう言うと、斎藤さんの顔が初めて、目に見えてほころんだ。
「たのしみ」
という言葉が返ってくる。
同時に、斎藤さんの首の力がすっと抜けた。ベッドから浮いていた両肩の角度も、なだらかになっている。
少しだけリラックスできたみたいだ。
今のうちだ、と僕は指先から足の裏まで全身を一体化させて、頭蓋の検査を始めた。力が入っていてもやりようはあると言ったけど、正直、力を抜いてくれているに越した事はない。
問診表からの情報や、僕が覚えた喉の違和感は一旦忘れるんだ。先入観を捨てろ。感覚も、全部ニュートラルに。
掌全体で頭蓋骨の両側頭部ホールド。指先の圧は均等に。添えるだけ力は入れない。力を入れたら、情報を正しく読み取れない。
僕はまず、斎藤さんの頭蓋の動きを中心に、
一次呼吸っていうのは、人間がお母さんの子宮の中にいたときからしている呼吸のこと。これは呼吸といっても、肺を使って行っている酸素と二酸化炭素の交換とは違う。
一次呼吸では通常、頭蓋骨はしぼんだり膨らんだりを、ゆっくり繰り返す。
斎藤さんの場合、頭蓋全体の膨らみ方が少々弱かった。それに、仙骨あたりで一旦ロックされるような動きが感じられた。
この検査中、僕の体に目に見えた動きは無い。傍からは、銅像みたいに固まっているか、目を閉じていたら寝てるようにも見えるかもしれない。
でもこれが、父さんや他の先輩達から教わった検査の中で、僕が一番成功率を上げられる方法なんだ。
指先から始まる全身はレーダー代わり。殆ど意識レベルの微細な動きで患者の体にかける圧や牽引力を調整し、不調を起こしている根本的な原因を見つけ出すんだ。
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