第3話 ~寝不足の理由~ 愁一郎の語り


 高校進学なんて、する気はなかった。

 やりたい事は決まっていたし、就きたい職業も決まっていた。治療家の人生を歩みたいんだ。そこに、高卒の肩書きが必須でないなら三年間が無駄になるだけだ。

 けれど、父さんから条件を出されてしまった。


『俺から教えを受けたければ、せめて高校は行け』


 って。


 なんで? 学歴なんか気にする人じゃないのに。

 三年あれば、どれだけ沢山の手技や哲学を学んで、施術経験が積めるだろう。

 一年間の授業時間を一七五時間とすると、三年間で五二五時間。この無駄な時間を思うと、腸が千切れそうだよ。

 けれど父さんは一度言い出したら聞かない人なので従うほかなく、釈然としないながらも僕は、『真識人ましきびと』の本拠地である村から最寄りの普通科高校を受験したんだ。

 

 高校へ行って、何かいい事あるのかな? 

 入学して二カ月以上が経過した。体育祭も終わったけど、別にこれと言って特別な出来事なんてなかった。

 強いて言うなら、大きな困り事が一つ発生したくらいだ。


 名取民子さん。あの人、どうしようかな。



 目覚めてスマホを確認すると、七時十五分。いつもより三十分以上、寝過ごしていた。

 アラームが鳴った形跡はあるけど、夢うつつにストップボタンをタップしていたようだ。


 がばりと起き上がって、板張りと漆喰で囲まれた、十畳ほどの部屋を見渡す。壁や床のみならず、勉強机やクローゼットなどの家具にまで昭和初期の匂いがぷんぷんするその一室に差し込む朝陽は、やはり寝坊した分、燦々さんさんとしていた。


「やばっ」


 転げ落ちるみたいにベッドから下りた。


 電車は七時五十分発。通常なら、駅まで自転車で三五分。安全を犠牲にしてカッ飛ばせば、五分から十分の範囲で短縮可能だ。でも、十分の短縮を実現できるか否かは、僕の運動能力と運にかかっている。つまり、勢いあまってハンドル操作を誤ったりブレーキが追いつかず車や屏や人にぶつからなければ、という条件が必須となる。


 とりあえず、目標を五分短縮に設定して、パジャマから半袖カッターシャツとスラックスに着替えた。スリッパをひっかけ、横に揃えて置いてあったスニーカーを掴んで、鞄と洗面用具を一緒に抱えて共同洗面所へダッシュする。


 昔の小学校を自宅に改装しました、って感じの、このお屋敷。療養所・宿泊施設・文化施設の役割を一手に担ってるもんだから、急いでいる時は特に、広さが不便に思えてならない。 


 洗顔と歯磨きを済ませて髪を一つに結ぶ。

 自室まで戻る時間が惜しかったので、洗面用具を共同洗面所に残したまま、ネクタイを締めつつ一階に駆け下りた。


「おはようございます族長!」

 

 軽く三十人は収容できる食堂で、一人ぽつんと朝食のおにぎりを食べている見事な円背の老婆に挨拶をする。

 その老婆――族長――は、つんのめるようにして入ってきた僕に白濁した目を向けた。

 窓から差し込む陽の光が、豊かな白髪にあたってキラキラと輝いている。その光景は後光がさしているように見えなくもないけど、族長は神仏よりむしろ妖怪っぽいから、有難みはまるで感じられない。


「寝坊かい。愁一郎」


 族長はそう言うと、スローモーションの如く、のっそりとした動作でおにぎりを皿に置いて、味噌汁をジュルルとすすった。

 味噌汁の匂いに反応して、空っぽの胃が『何か入れろ』と要求してきたけど、それに応えていたら間違いなく学校に遅刻するので無視した。


「ええまあ。ちょっと遅くまで本を読んでたもんで。あ! なに。浅葱あさぎも寝坊したわけ!?」


 族長に愛想笑いで答えながら弁当の受け渡し場所なっている配膳カウンターまで行くと、いつもはとっくに包み上がっているはずの弁当が、まだ出来上がっていなかった。


 がっしり体型の青年、屋敷専属料理人である石盛浅葱いしもりあさぎが、一九〇センチある長身を折り曲げ、ごつい指で器用に菜箸を使いながら、僕の弁当箱の四角いスペースにエビフライを詰めている。

 弁当箱の横に置かれた皿を見ると、まだミートボールだの切干大根の煮物などが残っていた。

 

「おう。あと二分待て」


 ピンクの三角巾を被った角刈り頭野郎が、弁当箱の空きスペースをオカズで埋めつつ、野太い声で指示してくる。


「無理無理無理。電車に遅れる!」

 

 僕はぶんぶん首を横に振って、年上の同胞に却下の意を示す。


 くそう。浅葱まで寝坊していたなんて、珍しい事もあるものだ。

 そう思っていたら、厨房の壁一面にずらりと並んでいるビン詰め食品がふと目に入った。明らかに『昨晩仕込みました』といった様子の、梅と氷砂糖が交互に詰まっている大瓶が三つ、列の最後に増えている。

 保存食作りは浅葱あさぎの趣味だ。こいつの寝坊の原因は、梅シロップ作りとみた。

 

「大丈夫だ。お前なら待てる。山道下る間ノンブレーキで突っ走れば余裕で間に合うぜ」


「できるわけないだろ!」


 そんなことしたらカーブ曲がり損ねてガードレールに激突だ。


 弁当を諦めた僕は、ボストンバッグを肩に背負い、焼き魚を咀嚼している族長に「いってきます」と挨拶して食堂の出口へ走った。


「はい、いっといでー」


 族長の、ワンテンポ遅れた声が僕を送り出す。


「オメー! 電車と俺の手作り弁当とどっちが大事なんだよ!」


 後ろから聞こえてきた浅葱の怒号に短く「電車!」と答えた僕は、廊下から中庭に出て靴に履き替えた。


 薬草園になっている中庭では、村の番犬である『オジイ』が朝の巡回中だった。

 生まれつき白まだらの顔周りだけでなく、背中の毛にも白いものが混じり始めた彼は、ウツボグサの匂いをくんくん嗅いでいる。


「おはようオジイちょっとごめん!」


 柴犬に似た雑種であるオジイの体高は四〇センチほど。

 通り道に立っていた彼の頭上をハードル跳びの要領で飛び越えた僕は、そのまま駐車場へと続く、一見獣道にしか見えない草木の割れ目に飛び込んだ。獣道はすぐに細いレンガ道へと代わった。そして、レンガ道から古い石橋に代わり、そこからまた、獣道にしか見えない駐車場の草木の割れ目へと通じている。


 綺麗に草が刈り込まれた広い駐車場には、僕のマウンテンバイクの他にも車が数台停めてあった。

 駐車場の隅には、小さな倉庫に似せたレンガ造りの建物が一棟建っている。そこは、『門番』の為に設けられた宿泊所だ。カーテンが閉まっているところを見ると、今日の住人は、まだ寝ているらしい。


 僕は自転車を漕いで宿泊所の前を通り過ぎ、大きな真鍮製の門の前で止まった。鞄の前ポケットを開け、スマホケースの中からカードキーを取り出す。


 便利になったもんだ。何年か前までは、いちいち門番さんに鍵を開けてもらわなきゃならなかったけど、今は暗唱番号を押してカードキーを通せば――


「あれ?」


 電子音がしない。いつもならこうやってカードキーを通したら『ピッ』って……。

 

 もしかして壊れてる? ――いや。そうじゃなくて、これ、電源が入ってないんじゃないの? いつもは点灯してる小さな赤ランプが点いていないし。

 

 嗚呼! こんな時に限って!

 

 僕は自転車を放りだすと、門番さんが寝泊まりしている倉庫もどきの家まで猛ダッシュした。扉横のインターフォンを迷惑なくらい連打する。


田沼たぬまのおじさん! 電源! 電源入れて! 門開けてよー!」


 インターフォンを押し続けながら叫ぶと、格子窓を覆っていた白いカーテンが少し開いた。そこから無精髭を生やした寝ぼけ顔の田沼さんが顔を出す。


 村境を守る『門番』の一人、田沼のおじさんは、必死に電子錠を指さす僕の姿を見ると、「あっ!」という表情を作り、大慌てで引っ込んだ。

 数秒後に、有名なサン○オ猫キャラクターがプリントされたトランクス一丁で出てきた田沼のおじさん。


「すまんすまん。昨日、ゲーム機の電池が切れちまって、ここから乾電池借りてたの忘れてた」


 信じられない事を言いながら、ゲーム機の化石と呼んでいい『ゲーム○ーイ』の中から単三電池を抜き取り、それを電子錠の中にはめ込んだ。


 パンイチで出てくるとことか、パンツの柄がキ○ィちゃんだとか、使ってるゲーム機が初代コンパクトゲーム機なところとか、足りなくなった電源を電子錠の電池で補充するとか。一から十まで常軌を逸してて、もはやどこに突っ込んでいいか分からない! 今まともなのって、おじさんが突っかけてる便所スリッパくらいじゃん!


「事故るなよ~」


 ゲーム○ーイを片手にも持った、キティちゃんの柄パンイチおじさんに見送られ、僕は深緑の山道をフルスピードで下った。

 

 幸い曲がり道までは私道だから、そこまでは車にぶつかる心配はない。ガードレールが無いから、ハンドル操作を誤ったら谷底に真っ逆さまだけど。


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