第二十五話 「家族」
未明の空の下を、店主は一人歩いていた。
イズミに食いつかれた時の傷はまだまだ痛み、彼の歩調を少しにぶらせる。
出頭する前に倒れるかもしれないな。
そんなことを思い、彼は小さく笑った。
どのみち先は長くないのだ。
彼は自暴自棄になってこの決断をしたわけではない。事実を打ち明けられなかった罪悪感があったとはいえ、イズミと過ごした日々は彼にとって幸せなものだった。家族に囲まれて過ごした日々を思い出させてくれたからだ。
実際、イズミは彼の家族なのだ。血のつながりがあろうとなかろうと、そんなことは些末なことと思えるほどに、彼にとってイズミは大切な存在になっていた。
これ以上、家族を裏切ることはできない。
彼の行く手に美奈木大橋が見えてきた。橋のすぐ手前まで来た時、彼は歩みを止めた。
橋の真ん中に、頭から大きな角を生やした鬼人の女性が立っていた。
それがイズミの母の魂であることは、彼にもすぐにわかった。
「ゆるしてくれとは言いません。私の父があなたを裏切ったことは事実であり、私がイズミをだましていたことも事実なのだから」
彼は淡々とした口調でそう言うと、再び歩みを進め、イズミの母の正面に立った。
「イズミのことは天士様に頼みました。きっと面倒を見てくれるでしょう。私はこれから報いを受けます。あなたがここにとどまる理由はありません。どうか、安らかにお眠り下さい」
彼は一礼し、顔を上げる。イズミの母は何も言わなかった。
それでもその表情からは、彼に伝えたいことを感じることができた。
「私はイズミを、家族として愛しています。父があなたを愛していたように。どうかそれだけは、信じていただきたい」
彼がイズミの母のそばを通った瞬間、彼女は姿を消した。
「待って!」
声が聞こえた。イズミの声だった。
胸を締め付けられるような、悲痛な声だった。
彼は歩みを止めなかった。前へ、前へと進んだ。
再びイズミの声が聞こえる。彼は歩調を変えない。
足音が近づいてきても。苦し気な息遣いが聞こえても。
彼は歩調を変えなかった。
逃げられなかった。
イズミが彼の背に抱き着いた時、彼は歩みを止めた。
息を切らしながら、イズミはあふれる思いを言葉にする。
「私があなたに、本当のことを話していれば、こんなことにはならなかった。だから……」
「それでも私は償わなければいけない。あなたを傷つけたことは事実なのだから」
ちがう、とイズミは言う。
「私はあなたに出会えて、あなたと暮らせて、幸せだった。母のことを知っても、父のことを憎んでも、あなたとどう向きあえばいいかわからなくなった時も、それでもあなたとの日々は幸せだった。今まで生きてきた時間の中で、一番、幸せだった。だから」
イズミは彼の背に額を押し当てる。
「行かないで。もう、家族を、失いたくない」
「あなたは、わたしをゆるすべきではない」
「あなたを失わなくてすむのなら、私はいくらでもあなたをゆるせる。それに私こそ、あなたにゆるしてほしい。ずっと本当のことが言えなくて、ごめん。ごめんなさい。どんな償いでもするから、だから私を、あなたの家族で、いさせて……」
イズミは彼から離れる。
振り向くべきかどうか、彼にはわからなくなっていた。
そんな彼の前に、イズミの母が再び現れた。イズミにはその姿が見えていないようだが、彼にはその姿が、表情が、はっきりと見えていた。言葉はなくても、思いは感じとれた。
そうすることが、償いになりえるのなら――。
彼は振り返り、震える声で言った。
「ありがとう。姉さん」
イズミは大粒の涙をこぼしながら、満面の笑みを浮かべ、彼の胸に飛び込んだ。
「ありがとう。私を家族でいさせてくれて、本当にありがとう。これでもう、私は何も思い残すことはない」
「それは、いったいどういうことだ?」
「私はもう、あなたとは一緒に暮らせないから」
イズミは顔を上げる。彼女は普段通りの笑顔を精一杯につくっていた。
「人の住む場所では、私は暮らせないの」
「都を、出て行くのか」
イズミはちいさくうなずく。
「なら、私も行く。もうあなたを一人にはさせない」
「だめだよ。あなたにもう迷惑はかけたくない。大丈夫よ。私はもう、一人じゃないから。私のことを家族と思ってくれる、家族がいるから。この世界に、私の家族が生きている。それだけで私は十分救われるから。だから」
イズミは彼から離れ、まっすぐに目を見つめる。
「どうか、元気でね」
それは一切の偽りのない、心からの言葉と笑顔だった。
イズミは彼に背を向けて歩き出す。
彼がイズミを止めようとした時、先にイズミが立ち止まった。
彼女の進む先に、青年が立っていた。
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