第11話
「また江戸の者がしくじったようだ。父上も詰めが甘い」
でっぷりと肥った男が、苦虫を噛み潰したような顔で言った。この男こそが、
「お父上は、まだ迷っていらっしゃるのですか?」
「どうだろうな。まあ、今となっては後戻りもできぬ」
薄ら笑いを浮かべて伸明は答える。男は表情を変えずに言った。
「拙者が参りましょうか」
「
「しかし、宗重様に会う前に始末をつけた方がいいのではないですか?」
「もう宗重の命は風前の灯だ。放っておいても消えるだろうが、いざとなったら吹き消せばいいのだ。食客の皆さんには、準備だけはするように指示をお願いしますよ」
「かしこまりました」
孫市は座礼をすると、襖を開けて部屋を出て行った。
畑中が討たれた後、江戸に舞い戻った蕎介は、剛三のもとを訪れていた。自分でも不思議なくらいに畑中に肩入れしていた蕎介は、膝詰めして畑中の最後を報告し、仇討ちを迫ったのである。だが、剛三の返事は意外なものだった。
「親分、その話は本当ですか?」
「ああ本当だ。依頼主が取り下げた。仕事はもう終いだ」
「終いって言っても、畑中様の仇を討たねえんですか?」
「無茶言うな。仕事でもねえのに手が出せるか。だいたい、畑中さんが殺られたのに、
剛三は苛立ちを抑え切れず、語気を荒らげたが、我に返って咳払いを一つした。
「まあいい。骨折りの礼に、金の方は全部払う」
そう言いながら煙草に火をつけて、煙管を吸った。
「……金の問題じゃねぇです。金の問題じゃねぇ」
吐き捨てるように呟いた蕎介は、畳にぐっと拳を押し付けた。
眉間に皺を寄せたまま、剛三は何も答えず、ゆっくりと煙を吐いた。
次の日、無事に府中宿へ辿り着いた釼一郎達は、
「も、申し訳ございませぬ。この大河内、お詫びのしようがなく……。
「よいよい、大河内。とにかく表を上げよ」
久しぶりに見る大河内の白髪頭には、少しの黒髪が混じるだけである。すっかり年老いて体が小さく見えた。小十郎は大河内の横に座り、支えるように肩に手を置いた。大河内は震えながら、ゆっくりと顔を上げる。深い皺が刻まれた目には、涙が溜まっている。
「この騒動には、この大河内も責任があるのでございます」
重苦しい空気を払うかのように、小十郎は努めて明るい声で言った。
「何を言う。老いたか?」
「本当でございます。藩のことを思ってしたことがこんなことになるとは……」
「それで、父上の容態は悪いのか?」
小十郎の問いかけに、大河内は一層肩を落として答えた。
「良くありませぬ。
「実は護衛と共に、医者を連れて来た」
「まことでございますか?」
大河内の表情に光が射した。小十郎は安心させるように大きく頷く。
「その医者は、長崎帰りで蘭学を学んでいる。任せるに足りる者だ」
安心したように、大河内はこれまでの経緯を語りだした。
小十郎の母、
平太は紅毛人や、清人達とも交流があったようで、豊富な知識と機転で宗重はすっかり彼を頼りにするようになった。多緒が亡くなった後も、平太への信頼は揺るがず、大奉行という職を用意して財政難に苦しむ藩の改革を進めた。
まず、農業や商業を奨励し、駿河の名物である茶の販路拡大させると、長崎で手に入れた西洋の品を参考に、
そして、後継ぎとして平太の名が宗重の口から出るようになった。
こうなると面白く無いのは、古参の家臣達である。旗本の養子とはいえ、元々は武家出身でない平太である。商売奨励など武家がやることではないだとか、金回りが良くなったが康国寺藩からは気品が失われた、などの言い掛かりをつけ始めた。それでも平太に対して宗重の信頼が厚いうちは良かった。
事態が急転したのは、斎藤伝右衛門の息子である斎藤伸明が、縁者の娘、豊姫を宗重に引き合わせてからである。
豊姫は若き頃の多緒に生き写しで、宗重はすっかり
やがて、
「恥ずかしながら、この大河内も昔の古き良き物を捨て、新しいことに変えていく中川平太殿のことを疎ましく思っておったのです」
大河内は俯いて頭を抱えた。小十郎は無言のまま聞いている。
この時代の権力者は、とにかく変化を嫌っていた。
そうでなくても、守旧派と、改革派の対立は世の常である。伊達騒動、加賀騒動や、津軽騒動、米沢の七家騒動など、家臣の対立によるお家騒動は珍しいことではなかった。
「女である小十郎様に代わり、亀千代様が嫡男になることも自然なことであるとさえ思っておりました。しかし、斎藤伸明の
平太は三月前に領内を視察に行ったまま、消息不明になっていた。平太の愛馬は槍で貫かれ、何者かに襲撃されたことは確かであった。斎藤伸明に養われている食客の姿を見たという話もあるが、真相は藪の中である。
「いや、伯父上は生きている。安心するがよい」
小十郎が口元に柔らかな笑みを浮かべると、河内は信じられないといった様子で目を見開いた。
「ま、まことでございますか?」
「うむ。伯父上とは密かに文のやりとりをしていた。藩内で隠れて暮らしているようだ。父上の容態を確かめた後、できれば伯父上と会って話がしたい」
「わかりました。信頼できる私の配下を連れて来ております故、小十郎様には指一本触れさせませぬ」
翌日、大河内はすぐに動いた。大河内の手配による厳重な警護で康国寺藩内に入ると、そのまま宗重の屋敷へと向かった。
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