第11話


「また江戸の者がしくじったようだ。父上も詰めが甘い」

 でっぷりと肥った男が、苦虫を噛み潰したような顔で言った。この男こそが、斎藤伝衛門さいとうでんえもんの息子であり、小十郎の命を狙う斎藤伸明さいとうのぶあきである。伸明の隣には、泰然たいぜんとして眼光鋭い男が控えている。歳は四十過ぎに見えるが、髪には白いものが混じっている。男は伸明に問い掛けた。

「お父上は、まだ迷っていらっしゃるのですか?」

「どうだろうな。まあ、今となっては後戻りもできぬ」

 薄ら笑いを浮かべて伸明は答える。男は表情を変えずに言った。

「拙者が参りましょうか」

孫市まごいち殿が動いてくれれば間違いはないだろうが、万が一にでも貴殿が捕らえられても困る。それよりも小十郎らの始末など、藩内であればどうとでもなる」

「しかし、宗重様に会う前に始末をつけた方がいいのではないですか?」

「もう宗重の命は風前の灯だ。放っておいても消えるだろうが、いざとなったら吹き消せばいいのだ。食客の皆さんには、準備だけはするように指示をお願いしますよ」

「かしこまりました」

 孫市は座礼をすると、襖を開けて部屋を出て行った。


 畑中が討たれた後、江戸に舞い戻った蕎介は、剛三のもとを訪れていた。自分でも不思議なくらいに畑中に肩入れしていた蕎介は、膝詰めして畑中の最後を報告し、仇討ちを迫ったのである。だが、剛三の返事は意外なものだった。

「親分、その話は本当ですか?」

「ああ本当だ。依頼主が取り下げた。仕事はもう終いだ」

「終いって言っても、畑中様の仇を討たねえんですか?」

「無茶言うな。仕事でもねえのに手が出せるか。だいたい、畑中さんが殺られたのに、生半可なまはんかな奴で相手になるわけがねぇだろう!」

 剛三は苛立ちを抑え切れず、語気を荒らげたが、我に返って咳払いを一つした。

「まあいい。骨折りの礼に、金の方は全部払う」

 そう言いながら煙草に火をつけて、煙管を吸った。

「……金の問題じゃねぇです。金の問題じゃねぇ」

 吐き捨てるように呟いた蕎介は、畳にぐっと拳を押し付けた。  

 眉間に皺を寄せたまま、剛三は何も答えず、ゆっくりと煙を吐いた。


 次の日、無事に府中宿へ辿り着いた釼一郎達は、脇本陣わきほんじんで大河内と落合った。小十郎を見た途端に、大河内が畳に額を擦り付けて出迎えた。

「も、申し訳ございませぬ。この大河内、お詫びのしようがなく……。迂闊うかつに小十郎様を呼び寄せてしまい、危険な目に合わせてしまいました……」

「よいよい、大河内。とにかく表を上げよ」

 久しぶりに見る大河内の白髪頭には、少しの黒髪が混じるだけである。すっかり年老いて体が小さく見えた。小十郎は大河内の横に座り、支えるように肩に手を置いた。大河内は震えながら、ゆっくりと顔を上げる。深い皺が刻まれた目には、涙が溜まっている。

「この騒動には、この大河内も責任があるのでございます」

 重苦しい空気を払うかのように、小十郎は努めて明るい声で言った。

「何を言う。老いたか?」

「本当でございます。藩のことを思ってしたことがこんなことになるとは……」

「それで、父上の容態は悪いのか?」

 小十郎の問いかけに、大河内は一層肩を落として答えた。

「良くありませぬ。御典医ごてんいさじを投げる有様で」

「実は護衛と共に、医者を連れて来た」

「まことでございますか?」

 大河内の表情に光が射した。小十郎は安心させるように大きく頷く。

「その医者は、長崎帰りで蘭学を学んでいる。任せるに足りる者だ」

 安心したように、大河内はこれまでの経緯を語りだした。


 小十郎の母、多緒たおには平太へいたという兄がおり、多緒の輿入こしいれの際に宗重に仕えた。多緒と平太は永野家と遠縁で、ある長崎の旗本、中川家の養子となっており、蘭癖らんぺきの宗重が長崎に通ううちに多緒を見初めたのである。

 平太は紅毛人や、清人達とも交流があったようで、豊富な知識と機転で宗重はすっかり彼を頼りにするようになった。多緒が亡くなった後も、平太への信頼は揺るがず、大奉行という職を用意して財政難に苦しむ藩の改革を進めた。

 まず、農業や商業を奨励し、駿河の名物である茶の販路拡大させると、長崎で手に入れた西洋の品を参考に、やぐら時計や印籠時計などの機械工作の技術も発展させた。康国寺こうこくじ藩の財政事情は次第に好転していったのである。

そして、後継ぎとして平太の名が宗重の口から出るようになった。

 こうなると面白く無いのは、古参の家臣達である。旗本の養子とはいえ、元々は武家出身でない平太である。商売奨励など武家がやることではないだとか、金回りが良くなったが康国寺藩からは気品が失われた、などの言い掛かりをつけ始めた。それでも平太に対して宗重の信頼が厚いうちは良かった。

 事態が急転したのは、斎藤伝右衛門の息子である斎藤伸明が、縁者の娘、豊姫を宗重に引き合わせてからである。

 豊姫は若き頃の多緒に生き写しで、宗重はすっかりとりこになってしまった。豊姫を正妻に据えると、政務にも顔を出さなくなり、平太の言葉にも耳を貸さなくなってしまった。

 やがて、亀千代かめちよが生まれると、さらに平太の立場が微妙になった。後ろ盾を失うと、不安定な立場になるのが寵臣ちょうしんである。古参の家臣団による、激しい平太の追い落とし工作が始まった。

「恥ずかしながら、この大河内も昔の古き良き物を捨て、新しいことに変えていく中川平太殿のことを疎ましく思っておったのです」

 大河内は俯いて頭を抱えた。小十郎は無言のまま聞いている。

 この時代の権力者は、とにかく変化を嫌っていた。寛政かんせいの改革の際に中井竹山なかいちくざんのという儒者が、西洋の馬車を採用してはどうかと、松平定信に提言したことがあった。定信は便利になることは分かるが、今の運送業で働く者が困るからと馬車の採用を見送っている。便利な世の中になるよりも、不便でも変わらぬ世の中が望まれた時代の話であった。

 そうでなくても、守旧派と、改革派の対立は世の常である。伊達騒動、加賀騒動や、津軽騒動、米沢の七家騒動など、家臣の対立によるお家騒動は珍しいことではなかった。

「女である小十郎様に代わり、亀千代様が嫡男になることも自然なことであるとさえ思っておりました。しかし、斎藤伸明の傍若無人ぼうじゃくぶじんぶりは日に日に目に余るようになってきました。各地から腕の立つ者を集め、食客しょっきゃくとして囲っております。それに……伸明と、豊姫様は密通を重ねているようなのです。恐ろしいことに、伸明と豊姫様が殿を亡き者にしようと企んでおるのではと……。平太殿を亡き者にしたのも伸明に違いありませぬ」

 平太は三月前に領内を視察に行ったまま、消息不明になっていた。平太の愛馬は槍で貫かれ、何者かに襲撃されたことは確かであった。斎藤伸明に養われている食客の姿を見たという話もあるが、真相は藪の中である。

「いや、伯父上は生きている。安心するがよい」

 小十郎が口元に柔らかな笑みを浮かべると、河内は信じられないといった様子で目を見開いた。

「ま、まことでございますか?」

「うむ。伯父上とは密かに文のやりとりをしていた。藩内で隠れて暮らしているようだ。父上の容態を確かめた後、できれば伯父上と会って話がしたい」

「わかりました。信頼できる私の配下を連れて来ております故、小十郎様には指一本触れさせませぬ」

 翌日、大河内はすぐに動いた。大河内の手配による厳重な警護で康国寺藩内に入ると、そのまま宗重の屋敷へと向かった。

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