第10話

 重秀しげひでは座禅をしたまま、糸のように細く長く息を吐いた。静寂の中に犬の遠吠えが一つ聞こえる。

 板張りの稽古場は四十畳ぐらいの広さがあり、重秀はただ独り、道場の中心で瞑想めいそうをしていた。すでに一刻が過ぎたが、半眼を開いたまま同じ姿勢を保っている。

 突然、入口の戸が開かれ、強い風が流れ込む。暗闇の中に浮かぶ蝋燭ろうそくの火が激しく揺れた。重秀が眉間に皺を寄せ、眼を大きく開けて視線を送る。

 弟子の三郎が、息を切らしながら駆け込んで来た。三郎は浅い呼吸で何かを言おうとして息を飲み込んでいるが、どうしても言葉にならない。

「どうした? 騒々しい」

 重秀が叱りつけると、三郎は呼吸を整え、声を絞り出した。

「し、重秀様、早くお逃げください!」

「何? 何があった?」 

「若殿が……、若殿が何者かに襲われて、お亡くなりになりました。……殿は重秀様に疑いの目を向けております」

「馬鹿な!」

 表で犬が激しく吠え、騒がしくなった。重秀は傍にあった大小の刀を手に取ると、立ち上がって腰に差した。

 半開きの戸が蹴破られ、鉢金にたすき姿の五人の侍が乱入して来た。すでに抜刀し、今にも斬りかかろうと皆いきり立っている。

「重秀様、殿のご命令により、お命頂戴します」

 重秀は刀を抜こうとする三郎を横目で見て、動きを制止するように首を振ったあとで、侍達に向き直り努めて冷静に語りかけた。

「待て、これは何かの間違いだ。話せばわかる」

「問答無用!」

 聞く耳を持たず、一人の若侍が刀を振り下ろしながら飛び込んでくる。重秀は左半身になりながら、掌底で若侍のあごを叩いた。若侍はゆっくり身体を揺らしたあと、がくんと膝から崩れ落ちた。続けざまに、二人の侍に当身をして気絶させ、もう一人を立ったまま脇固めに決めると、残る一人に言い放った。

「無益な殺生せっしょうはしたくない。殿と話がしたい」

 残った一人の侍は、無言で構えたままだが、震えて刃先が定まらずにいる。

「わ、若殿の仇!」

 侍が緊張感に耐え切れず一歩踏み出したのを見て取り、重秀は脇固めに決めた侍の関節を外して距離をとる。関節を外された侍は悲鳴を上げながら、道場の床を転げ回っている。

 「ひぃ!」

 背を向けて逃げようとする侍の首筋に、重秀は素早く近寄り手刀を打ちつけた。

 三郎が重秀に声をかける。

「無駄でございます。殿は佞臣ねいしん讒言ざんげんを信じきっております。まだ奴らが整わぬうちに、ここはお逃げください」 

「……しかし……」

 渋る重秀を急き立てるように三郎は言った。

「ことは一刻を争います。捕らえられては申し開きをする余地はありませぬ。ここは私がなんとかします」

「それではお主が……」

「大丈夫です。私も重秀様の弟子。きっと生きてお目にかかります」

 重秀は眉間に皺を寄せ歯噛みした。少しの沈黙の後、伝令の肩に手を置いた。

「必ず生きてくれよ」

 三郎は力強く頷いた。重秀はそのまま道場を後にした。


 釼一郎達が吉原宿に着くと、大河内からの文が届いており、藩の手前の府中宿で落合うように書き記されていた。大河内は何かを掴んでいるようであるし、永野宗重の具合もあまり良くないらしい。文を読む小十郎が宗重の様子を釼一郎に伝えた。

「釼一郎さんが言っていたように、眼が黄色く、身体が所々白くなっているようです」

「ふうむ、やはり毒を盛られているのかもしれませんね」

「ま、まさか、そんな……」

 小十郎は顔を青ざめた。

「大丈夫。その容態に思い当たる毒があるのです。なんとかなるかもしれませぬ」

「ほ、本当ですか?」

 釼一郎の言葉に、小十郎の表情も明るくなる。

「わしは元々薬も売り捌いておりましてね。長崎でも蘭学らんがくの医術を少々学んでおります」

「また、いつもの冗談ではないでしょうね」

 あまりにも出来過ぎた話に、明五郎が疑いの目を向ける。

「失礼だねぇ明五郎さんは。肝を売るって話もありゃ本当だよ。薬だよ薬」

 懐に手を入れると、釼一郎は印籠いんろうを取り出す。印籠には愛嬌あいきょうのある猿の根付ねつけが付けられている。印籠の中から、油紙で包まれた薬を取り出して三人に見せる。

「ほれ、これが人肝丸じんたんがん。これがまあいい金になってね」

「うへぇ。人の肝……」

 竜之進は気味悪そうに薬を凝視している。小十郎は人肝丸を指差して、釼一郎に問いかけた。

「これが、毒に効くのでしょうか」

「いやいや、これは主に労咳ろうがいの薬です。毒消しの薬は別に用意しますよ」

「刀に薬……。釼一郎さん、あなたはいったい何者なのですか? そろそろ教えてください」

 明五郎は問い詰めるように言った。小十郎と、竜之進も興味津々で身を乗り出してくる。

「そうですね。そろそろ、本当の事を言ってもよいでしょう。実はね、私は永野筑後守のことを存じているのです」

 驚いた小十郎は、まじまじと釼一郎の顔を見詰めた。

「え? 父上をご存知だったのですか?」

「そうです」

 うんうんと、釼一郎は頷いた。

「な、なぜ、そのことを早く教えてくださらなかったのですか?」

「信じないでしょうよ。一介の浪人が藩主と知り合いだなんて」

「確かに、それは……。父とはいつ知り合ったのですか?」

「私はね、御様御用おためしごようだったんですよ」

「おためしごよう?」

 小十郎と竜之進、明五郎が口を揃える。

「そう。刀の試し斬り、人斬りだったんです」


 御様御用とは、代々、山田浅右衛門やまだあさえもんを名乗る、山田家のみが許された刀の試し斬り役のことである。試し斬りは罪人の死体で行われていたため、時代が下ると山田家は打首の罪人の首切り役人も務めることになった。山田家は、試し斬りの経験から刀の鑑定家としても活躍していたし、死体の肝や脳などを薬に加工して販売していた。薬の販売は、山田家に莫大な富をもたらし、数万石の大名に匹敵するほどであった。

 山田家はその特殊な家系からか、多くの弟子の中から腕の立つ者が養子となって、山田浅右衛門の名を継いでいた。


 釼一郎は芸州げいしゅう藩に生まれた。十二の時に父が出奔しゅっぽんし、縁者の紹介で五代目の山田浅右衛門あらため、山田朝右衛門やまだあさえもん吉睦よしむつに弟子入りした。

父から仕込まれた真貫しんぬき流のお陰か、試し斬りの腕は確かであった。すぐに弟子の中でも頭角を表し、数多くの大名が所有する刀の試し斬りを行っていた。 

 その依頼主の中に宗重がいたのである。

「永野様は私のことを目にかけてくれましてね、収集された名刀も幾つかの見せて頂きました。その中に……」

「この景光があったのですね……」

 そう言いながら、小十郎は景光を慈しむように撫でた。

「はい、だから街道で小十郎さんと景光を見た時に、永野様のことを思い出したのです。永野様には大変にお世話になりました。この機会にご恩に報いたいのです」

 釼一郎は小十郎に頭を下げた。小十郎はすがるように泣き崩れた。

「お願いします。父を救ってください」

「お任せください」

 優しく小十郎の肩に手を添える釼一郎を、明五郎は心配そうに眺める。

「御様御用で、刀に詳しいのはわかりました。でも、医術に心得があるのはどうも……」

 この時代の医者には、特別な免許があったわけではない。そこで医者の腕を見極めるには世間の評判しかないのだが、釼一郎の医術を測るすべはないのだから、明五郎が心配になるのも無理はない。庶民を診る町医者ならともかく、大名となれば相当の信頼が必要なのである。

「やぶ医者扱いされるのも無理はありませんがね。……儂は、ほとほと人斬りに嫌気がさしてましてね。命を奪うよりも命を救いたいと、親父さんに頼んで長崎で医術を学んだんです」

 朝右衛門の中では、いずれ山田家を釼一郎に継がせようという算段があったのかもしれない。しかし、釼一郎の意志は固かった。根負けした朝右衛門は、蘭学の知識で新しい薬を生み出すためならばと、長崎行きを許したのである。

「結局、医者にはならず気ままに暮らしているわけですが、薬の調合は続けてやっておりましてね。まあ、毒はお手のものですよ」

 不気味な笑みを浮かべながら釼一郎は言った。

「明五郎さん、試しに酒に毒でも入れてあげましょうか?」

「そ、それだけはご勘弁を」

 慌てて明五郎は、何度も頭を下げた。

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