第8話


 ずいぶんと登ったが、向坂はまだ遠く続いている。道に並ぶ杉の枝間から、芦ノ湖もはるか下に見えた。

 天蓋を被った 虚無僧こむそうが一人、坂を下って来ている。明五郎は全身に神経を集中した。

 敵か、否か。

 虚無僧はすぐ傍を通り過ぎようとしていた。

――疑心暗鬼になり過ぎたか?

 そう思いながらも、明五郎は虚無僧を目で追っている。

 虚無僧の背中から殺気を感じたとたん、身を翻すと抜刀し、斬りつけてきた。明五郎は飛び退いて、 鯉口こいくちを切って刀を抜く。虚無僧が 天蓋てんがいを取った。明五郎は驚愕した。その顔に見憶えがあったからである。明五郎は記憶を探り、そして思い出した。

「は、畑中様……?」

 士学館の畑中麟。一時は、その剣の腕で名がしれた剣客であり、明五郎もその剣を見ようと、何度か士学館へ足を運んだ。鋭い太刀筋は明五郎も憧れる存在であった。明五郎にとって畑中は雲の上の存在であり、口をきいたことは一度もない。

 ずいぶんとやつれて、風貌は変わっているが、相変わらず眼光鋭い。不祥事をきっかけに身を落としたと明五郎も伝え聞いていた。

「ん?俺のことを知っているのか?」

 いぶかしみながら、畑中は 八相はっそうに構えた。

 はっと我に返って、明五郎は後ろに声を掛けた。

「皆は先へ」

 あれから月日が経ち、明五郎も剣を磨いた自負はある。しかし、畑中の剣が昔のままであれば、勝てる見込みは少ないと感じていた。

「明五郎さん!」

 後ろから釼一郎が駆け寄って来る。

「釼一郎さん、来ては駄目です。二人を頼みます。ここは私に任せて早く!」

 まだ、他にも刺客が居るかもしれない。目的は小十郎なのだ。何としても小十郎は逃がさねばならない。

 釼一郎は軽くうなずき、小十郎と竜之進を急き立ててその場を離れた。

 畑中は小十郎達を追うそぶりを見せたが、踏み止まって明五郎に対峙した。

「お前が誰かは知らんが、なかなかやるようだな。奴らはお前を斬ってからにしよう」

 一瞬たりとも気が抜けない。全身から汗が噴出していた。 刹那せつなが永遠のようであった。畑中がゆっくりと、八相から青眼に構えを移した。

 気圧されたように、明五郎が動いた。

 上段から畑中の脳天目掛けて、刀を振り下ろす。振り下ろしながら、明五郎の脳裏に道場で見た畑中の突きが蘇った。

 その瞬間、畑中が明五郎の喉元目掛けて、鋭く突き込んでくる。とっさに、明五郎は首と身体を捩らせ、突きから逃れながら右手で撃ち込んでゆく。畑中は突きの体勢のまま、受けることもかわすことも出来ない。

 決まった、と明五郎は思った。

 しかし、畑中は突きの体勢のままさらに踏み込んで、半身の明五郎に体当たりをしてきた。恐るべき勝負の勘である。明五郎は当身を避けきれずに飛ばされながらも、受身をとって素早く立ち上がる。

「ほう、俺の突きをかわすとはな」

 士学館で見た頃の突きなら、確実に仕留められていたであろう。年か、稽古不足か……。明五郎の記憶にある畑中の剣技よりは幾分か落ちる。

 明五郎にとっては好都合なはずだが、なぜか切なくなった。

「昔の剣なら……」

 思わず胸の内を口にすると、畑中の顔色が変わった。低く腰を落としたかと思うと、鋭く刀を薙ぎ払ってくる。下がりながら受けるが、手が痺れる程に重い。明五郎とて刀で受けるのは避けたかった。だが、畑中の太刀筋は下手にかわすと斬られてしまう。繰り出す一刀一刀をどう捌くかで勝負が決まる。まるで計算された詰将棋のようであった。

 続け様に踏み込んできた太刀を、よけきれずに再び刀で受けた時、明五郎の刃が折れた。

――しまった……。

 明五郎は動揺を抑えきれない。

「腕は良いようだが、所詮なまくら刀よ」

 畑中は刀の衰えを見切って、狙っていたに違いない。畑中の井上真改は 刃毀はこぼれ一つないどころか、輝きを増しているかのようだった。明五郎は下がりながら、脇差を抜き出した。

 その時である。ピィーと呼ぶ子の笛が響いた。関所の近くで人を呼ばれては面倒になると思った畑中は、チッと舌打ちをして明五郎と距離を取った。

「命拾いしたな」

 畑中はそう言って、背を向けると杉の枝間に消えて行った。明五郎は背中に、冷や汗がびっしりと噴き出しているのを感じた。

 坂の上に戻って来た釼一郎が見えた。釼一郎が呼ぶ子を鳴らしていたのだった。


 三島の宿に入った後、顔を突き合して話合いを始めていた。明五郎は、士学館時代の畑中の腕前を皆に話した。

「おそらく、再び畑中様一人で襲ってくると思います」

「本当かい?」

「はい。相当腕に自信のある方なので。そこで……相談なのですが」

 明五郎は一旦言葉を切り、思い詰めたように言った。

「私にやらせてください。どうしても決着をつけたいのです」

 釼一郎が呆れたように首を振った。

「明五郎さん、それでもあんた武士かい?」

 むっとして明五郎が反論する。

「痩せても枯れても、武士のつもりです」

 釼一郎の目が厳しく光った。

「いいや、武士じゃないね。あんたはただの剣士だ。自分の仕事を忘れ、畑中なにがしと剣の腕を競うことに躍起になっている」

「そ、それは……」

「今回は何としてでも小十郎さんを送り届けなくちゃいけない。明五郎さんが勝負に勝っても、小十郎さんがやられちゃ本末顛倒だ。しつこいようだが、武士の本分は、剣の勝負に勝つことじゃない。主を守る為に戦うことです。そのことを肝に銘じてください」

 正座している明五郎は、膝をぐっと掴んだ。

 しばらく黙っていたが、やがて踏ん切りがついたように口を開いた。

「お、おっしゃる通りです。釼一郎さん。では、畑中いや、刺客とどう戦いますか?」

 自分を押し殺し、任務を理解してくれた明五郎の覚悟を、釼一郎は嬉しく思った。

「刺客は一人だが、こちらの動きを探る奴がもう一人いる。一人と思ってると、足を掬われかねない」

「あ、あの権太坂で見かけた者ですか?」

 釼一郎は首肯して腕組みを解いた。

「よし、明五郎さんは駕籠の手配をしてください。竜之進さん、あなたの嫌いな六十六部の力を借りましょう」

 そう言って、釼一郎は満面の笑みを浮かべた。

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