第7話
竹になりたや〜箱根の竹に〜諸国大名の杖竹に〜
こぶしがきいたいい声で、駕籠かきが唄う声が聞こえてくる。いよいよ天下の険、箱根八里である。
急峻な箱根峠と箱根の関所があり、歌川広重の東海道五十三次にも、
芦ノ湖のほとりの箱根の関所が近付くにつれて、竜之進の不安は大きくなってくる。
小十郎が男として育てられたのは、関所の通過をしやすくするためということであったらしい。しかし、一度女であることを知ってしまってからは、優しい声、身体の線の細さ、丸みなど、ちょっとした女らしさが気になるようになってしまった。
何度も視線を投げ掛けるせいか、小十郎も気付く。
「どうした?竜之進」
「い、いえ、なんでもありませぬ」
竜之進は慌てて視線を戻した。小十郎も心なしか緊張しているようにも見える。
箱根の関所は、特に
関所破りは
「釼一郎さん……小十郎様は、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫、大丈夫。なんとかなります」
相変わらずひょうひょうとした釼一郎を見て、ますます心配になる竜之進であった。
江戸口御門から関所に入り、江戸口千人溜で順番を待った後、関所役人に呼ばれて関所の中に入った。
竜之進は恐る恐る、鋭い目つきの役人に手形を差し出した。お忍びの旅とはいえ、江戸屋敷で発行された身元を証明する手形には間違いはない。危惧する必要はないはずなのだが、やはり小十郎が気になってしまう。
「ふむ。永野様と、従者は太田様と。その二人方は?」
役人が不審そうに、釼一郎と明五郎に視線をやる。すると釼一郎は役人に近付き話しかけた。
「西川様、お勤めご苦労様です」
「あ、あれ? 釼一郎さん。江戸にお戻りだったはずでは?」
「それが永野様の護衛を引受けることになりましてね。こちらは、本木明五郎先生、腕利きですよ」
釼一郎は関所役人の西川に明五郎を紹介する。
「そうだったのですね。それはご苦労様です。あ、そうそう、また見て頂きたい刀がありまして、お帰りの際にでも小田原にお立寄りください」
「新しい刀を買われたのですか?」
「
嬉しさを隠しきれない西川の声に熱がこもる。
「西川様の給金では虎徹はとてもとても」
失笑するように首を振る釼一郎は、西川の言葉をまるで信用していない。しかし、西川は引き退らない。
「女房の父に金を借りたんです。この業物は間違いありません。」
「心配ですねぇ。なにせ西川様は贋物集めの達人ですからね」
「やめてくださいよ」
関所役人と仲良く話している釼一郎を見て、明五郎も、竜之進も呆気に取られている。
ふと、小十郎は視線を感じた。恐ろしげな婆が全身をなめ回すように見ている。婆は
突然、婆は小十郎を指差して叫んだ。
「女じゃぞ!こやつは女じゃぞ!」
「な、何を言う、無礼であるぞ」
竜之進が、婆の視線を遮るように、小十郎の前に立った。
「あたしの目は節穴じゃないよ。間違いなく女だよ」
婆が喚き散らすのを見て、西川も困った表情をしている。
「釼一郎さん……。その方は、本当に永野様なのですか?」
西川は釼一郎に尋ねた。西川は永野小十郎がそもそも女であることなど、知るはずもない。女が永野小十郎を騙っているかどうかが問題なのである。柔らかであった釼一郎の表情が、とたんに険しくなって声を張上げた。
「おい、婆さん。何を言っているか分かっているのか! 武士を愚弄するとはけしからん。今直ぐ斬り捨ててくれる!」
そう叫んで腰の刀に手をかける。西川は慌てて釼一郎を止める。
「ちょ、ちょっと落ち着いてください。釼一郎さん」
「西川様、分かっておりましょうな。もし、濡れ衣だった場合、貴殿のお立場は、保証できませんぞ」
西川は弱ってしまった。公務とはいえ、諸侯と揉めるのも気が重いし、出女を見逃してはただでは済まない。
「釼一郎さん、無理を承知でお願いしますが、この婆さんに永野様を見てもらうことは……」
ずっと黙っていた小十郎が口を開いた。抑えきれぬ怒りが、顔に浮かんでいる。
「断る。女に間違われ、身を改められるなど侍の恥。父に合わす顔がない」
困り果てた西川に釼一郎が提案する。
「では、こうしましょう。永野様の身元を確かに証明する物をお見せします。それで良いですな?」
コメツキバッタのように西川は何度も頭を上下した。
「そのような物があれば、是非に」
「では、永野様。失礼ながら腰の物をお借りしても宜しいでしょうか」
小十郎は首肯して下緒を解き、腰の刀を釼一郎に手渡した。
「おお、なんと御立派な拵え」
自分の仕事を忘れ身を乗り出した西川は、釼一郎の手に持つ刀を注目する。釼一郎はもったいぶるように言う。
「西川様、この太刀は一生目にかかることは叶わぬほどの名刀です。心してくださいよ」
刀から目を離さない西川は、釼一郎の焦らしに身悶えしている。
「分かりました、分かりましたから、早くお見せくだされ」
釼一郎は、すらりと刀を引き抜いた。
「おお、これは見事な……」
「
楠木正成といえば、鎌倉末期に
膝をついて刀を拝むと、西川は震える声で絞り出すように言った。
「あ、ありがたい……生きているうちに、こ、こんな刀を見られるとは……」
「わかりましたか。この一振りは、永野家嫡男の小十郎様の確たる証拠。そこいらの侍、ましてや女が持てるような刀ではございませぬ」
「た、確かに……」
刀を凝視したまま、西川は上の空で肯定した。釼一郎は景光を再び鞘にしまった。西川は名残惜しそうに、釼一郎の一挙一動をじっと眺めている。
「わかって頂ければ構いませぬ。その婆を責めぬように」
小十郎は釼一郎から刀を受取り、腰に戻しながら言った。
「いやあー、どうなることかと思いました」
関所が見えなくなると、竜之進が口を開いた。小十郎もほっとした表情を見せる。明五郎が、釼一郎に問いかけた。
「役人の方とは知り合いで?」
釼一郎がうなずく。
「西川様は無類の刀好きで、何度か刀を鑑定したことがありましてね。関所の役人は小田原藩のお侍が、ひと月交替でやってくるんですよ。先日関所を通ったばかりだったので、西川様がいることを知ってたのです」
「なるほど、いやしかし、釼一郎さんは不思議なお方ですね」
「いやいや。私より小十郎様の芝居が素晴らしかったですよ」
「はは、そうですね」
「やめてください、恥ずかしい」
小十郎はそう言いながら、頬を赤く染める。竜之進はどきりとした。
「ところで小十郎様の刀は見事でしたね。楠木公の威厳が乗り移っているようでした」
明五郎も、感心した様子である。
「どうです?明五郎さんも欲しくなったんでしょう?」
釼一郎が問かける。
「とんでもない。あれ程の名刀だと、もったい無くて鞘から出せません」
「明五郎さんらしいが、刀を出し惜しんで斬られたら、元も子もない」
竜之進が、釼一郎の腰の刀を指さして言った。
「釼一郎さんの腰の物は銘刀ですか?」
「ああ、わし? わしの刀は
「へぇー。お高いんでしょうね」
「まあそれなりに。無論、景光ほどではないが」
「刀の鑑定というのは、儲かるのですねぇ」
明五郎は自分にはない、釼一郎の金に関する嗅覚に感心している。
「それだけじゃない。実は、儲かる物を売りさばいているのですよ」
声を落として釼一郎は言った。
「それはなんです?」
三人が興味津々といった様子で頭を近付けてくる。
「人の肝」
「ま、まさか」
顔を見合わせる三人に、釼一郎はにやにやと笑みを浮かべた。
「いつもの冗談ですか」
呆れたように、明五郎が言った。小十郎は思い出したように釼一郎に問かけた。
「そもそも、この景光はなぜ永野家に伝わったのでしょう?」
「まあ、聞いた話なんですがね。楠木氏の末裔から、豊太閤へ渡り、豊太閤から権現様に譲られたはずが、どういう経緯か上方の百姓の家で発見されたんです。それを刀剣商が
「楠木公、豊太閤に権現様。まさに伝説の刀なのですね。いやぁすごい」
竜之進は感心したように言った。
「私も鞘から出せなくなりそうです」
小十郎がそう言うと、皆も笑った。
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