第6話


 釼一郎は闇の中を歩いていた。 一寸先いっすんさきも見えないのに、止まることなくずんずん進んでいる。背後から気配を感じたが、振り返ることがはばかられて 歩度ほどを早めた。

 突然、足下の感触が変わった。はっと視線を落とすと、苦痛に歪んだ男の顔を踏み付けている。

 慌てて足を上げると、隣には恨めしそうに睨む女の顔。

 顔、顔、顔。

 見回すと、びっしりと敷き詰められた人面が、釼一郎を睨んでいる。

 釼一郎は駆け出した。何処まで走っても、果てしない人面が、遥か彼方まで続いていた。


「……釼一郎さん、釼一郎さん」

「う……う……ん……」

 眼を覚ました釼一郎は、さっと跳ね起き枕元の刀に手を伸ばして刀を掴んだ。

「あ、ああ明五郎さん」

 驚いた様子の明五郎を見て、釼一郎は我に返った。

「釼一郎さん、もうそろそろ出ましょう」

「あ、ああ、そうですね……」

「酷くうなされていたようですが大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫」

 いつものおどけた笑みを釼一郎は浮かべた。


 早朝に出立した釼一郎達は、藤沢へと向かった。先頭は明五郎、後ろに小十郎と竜之進が並んで歩き、 殿しんがりを釼一郎が務める。

 月代も剃り上げ、着物も着替えて明五郎はすっかり身綺麗になっていた。それでもどこか田舎侍風であるのは、長年の貧乏暮らしが染み付いてしまったためかもしれない。

 明五郎は張り切っていた。藩主の後継者になるかもしれない人物の護衛という大仕事。この仕事が上手く行けば、二十五両に加え、何らかの役に着けるかもしれない、と心のどこかで期待していた。   

 それだけに万が一の失敗も許されない。少しでも怪しいやからを見ると、刀の柄に手を掛け、鋭い視線を周囲に配っている。

 藤沢は、江ノ島、大山の二つの名勝へと続く街道の拠点である。江ノ島は江戸から少し足を伸ばして楽しむにはちょうど良かったし、大山詣は特に人気であった。

  阿夫利あふり神社への巡礼者や、大きな荷物を背負った参詣客目当ての行商人達。藤沢が近くなるに従って、街道を行き交う人々でたいそう賑わってくる。

 釼一郎達は街道脇のこぢんまりとした茶屋に入った。

 竜之進が菅笠 すげがさを脱ぐと、風がさっと吹き抜けて頭の熱気を奪って行った。手拭いで顔をぐるっと拭い、ほっと息を吐く。

 茶で喉を潤し、団子を食べようと口を開けると、物欲しそうに眺めている子供がいる。身につけた白衣は、黄色く薄汚れ、手甲、脚絆の出で立ち。少し離れて同じ格好の大人がおり、背中には長方形の箱を背負っている。日本全国六十六箇所の霊場をまわる 六十六部ろくじゅうろくぶらしい。親子の巡礼であろうか。

 子供にじっと見詰められると、食べづらいのであろう。竜之進は団子を差し出した。

 引ったくるように竜之進の手から団子を取ると、子供は大人の巡礼の側に走って行った。団子を見せて、大人の巡礼と何やら話し始める。大人の巡礼はちらちらと様子を窺っていたが、近寄って来て竜之進の前で頭を下げた。

「ああ、礼ならば無用で……」

 竜之進が言い終わらない内に、巡礼は古びた鉢を差し出した。

「大火に巻き込まれて路頭に迷い、江戸を捨てて巡礼をしている六部親子でございます。幼子を連れて、食うや食わずの旅路を続けております。あわれとお感じになりましたら、わずかばかりのお恵みを」

 子供に団子を与えたので、つけ込まれたのだと思った。竜之進は子供をだしにする図々しさに閉口した。

「竜之進、何とも不憫 ふびんな話ではないか。少し施してあげなさい」

 そう言った小十郎は目を潤ませている。哀れな親子に同情しているのだろう。子供の巡礼を手招きして、自らの団子も勧めた。

——ああ、小十郎様は、心根の優しい方だったな。

 竜之進はそう思いながら、しぶしぶと懐から一文を取出し鉢の中に入れた。 

 すっと後ろから明五郎の手が伸び、鉢の中にチャリンと入れた。続いて、釼一郎も一文を入れる。六十六部の親子は、礼を述べて去って行った。

「明五郎さん、 波銭なみせんとはお大尽ですね」

 釼一郎は明五郎を冷やかした。波銭は四文の価値がある。

「困った人を見ると、放ってはおけなくて」

 照れ臭そうに明五郎は言った。蕎麦代金の二文が払えずに、腹を切ろうとしていた男が人に恵んでいる。用心棒の金が入るとはいえ、よほどのお人好しなのであろう。

「大変結構ですが、大火で焼けた人は、一人や二人でありませんよ。全ては助けられませんので、ほどほどに」

「そうですね。わかっておりますが、つい」

「私は感心しません。子供で同情を誘い、施しを得るなど」

 竜之進はしかめっ面をして腹を立てている。

「まあ、そう言いなさんな。世の中にはよんどころ無い事情で、身を落とす者もいる。助け合っていこうじゃありませんか」

 釼一郎は新しく注文した団子を、竜之進の前に差し出した。

「しかし、落ちぶれるのは怠惰 たいだが招いたことだ思いませぬか? 働かざるもの食うべからずでござる」

 ぶつぶつと文句を言いながら、竜之進も団子を口に運ぶ。

「みな仕事があるわけではないのです。働きたくても働けない人もいます。恥ずかしながら、私も働き口に難儀した者の一人でして」

 面目なさそうに明五郎はつぶやいた。

「確かに、我ら侍は恵まれ過ぎているのかもしれませぬ。旅に出て行き交う人々見ていると、貧しい者が多いのに気付きました」

 口一杯に団子を頬張る子供を見守りながら、小十郎は言った。

「それは生まれついた定めなのです。武士は武士らしく、商人は商人らしく、農民は農民らしく、出自にあった営みを一所懸命に行えば良いのではありませんか?」

「そうですかね」

 首をかしげ、釼一郎が異を唱える。

「では、油売り商人だった蝮の道三や、百姓のせがれだった 豊太閤ほうたいこうはどうです? 出自に従わず、侍となり名を成した」

 釼一郎の言葉に明五郎も賛同する。

「史記に 王侯将相寧おうこうしょうしょういずくんぞ種あらんや、という言葉がありましたね」

「たしか、 陳勝ですね。漢の高祖も百姓だったと聞きます。なるほど栄達は家系ではなく、努力や運ということなのでしょうか」

 史記を引用する明五郎の言葉に、小十郎も感心した様子である。

「それは戦乱の世の話、 公方くぼう様が治める太平の今の世では通じる話ではございませぬ」

 納得出来ない様子の竜之進は、語気を強めて反論する。釼一郎は言葉を続ける。

「ですがね、遠い西の国では、民が王を追い出してしまったようですよ。今の世も民の不満が溜まると、いつ世の中がひっくり返るか、わかりませんがね」

「西とは、唐ですか?  天竺てんじくですか?」

 身を乗り出して小十郎が聞いてくる。

「いや、もっと西にあるという 紅毛人こうもうじんが住む国です。昔、長崎に暮らしている時に、おらんだの紅毛人に聞いたのですが、その国では民は大きな刃の首切り器で、王や姫の首を刎ねたそうですよ。今は民が世の中を治めているそうです」

「なんと野蛮な。きっと未開の地なんでしょう」

 竜之進は眉を顰めた。

「それが紅毛人に言わせると、よっぽどこちらが野蛮だそうで」

 と、釼一郎が言うと、皆とても信じられないと笑った。


 その日の夜遅く、畑中と蕎介は大磯の宿に入った。駕籠を乗継いでいるために、必ず追いつくだろうと考えていた。

 特に箱根は剛三一家の者が使う、関所を抜ける秘密の裏道がある。そこで先回りをして、箱根から三島までの間で襲う手はずであった。

 蕎介は知っている情報を畑中に事細かに伝える。

「浪人もなかなかの使い手です。一人は飛び等具も使うようでして」

「わかった。油断しないでおこう」

「つなぎの話では、昨晩は予定通り、戸塚で宿をとったようです。箱根越え辺りで何とか追いつけるかと」

 剛三は宿場ごとに手下を用意しており、情報がすぐに入るようになっている。

「まずは駕籠で奴らを追い越し、待ち伏せして襲おう」

「へい。合点で」

 畑中は酒を好むはずだが、出された酒に全く手をつけてなかった。食事の後にも、念入りに刀の手入れをしている。狂犬と噂する者もいあるが、剛三の話では仕事は完璧にこなすのが信条らしい。蕎介は頼もしく思った。

「畑中先生は、すごいお方ですね」

「ふん、何がすごいのだ」

 畑中は手に持った刀、 井上真改いのうえしんかいを見つめたまま答えた。直刃のすらりとした美しい刀身が 行灯あんどん 火影ほかげに照らされ、妖しい輝きを放っている。

「いえ、剣の腕一つで生きておられるではありませんか」

「ただの用心棒だ。今の世では剣の腕をより、こびへつらいが尊ばれる」

 畑中は大きなため息を一つ吐いた。

「むしろ俺は、なまじ剣の腕があった為に身を落とした。戦国の世なら、人を斬れば手柄、今では罪だ」

 行灯の火影が障子にゆらゆらと映る。蕎介は内藤新宿の剛三を思った。戦国の世なら、剛三や、畑中は存分に暴れ回っていたのだろうか。人の才は世の移ろいには抗えないのかもしれない。

「俺は強い奴を斬る、今はただそれだけが生きがいなのだ」

 ぼそりと、畑中は呟いた。

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