第4話

 釼一郎たちが戸塚の宿に着いた時は、日が沈んだ西の空が暮れなずみ、まだ少し明るさが残っていた。暮六ツ頃であろう。

 江戸時代は日の出と、日の入りを基準にした不定時法が用いられていた。昼と夜を六等分して、一刻としていたのだが、季節によって昼と夜の長さが異なり、一刻の間隔が違う。なんともいい加減なものであるが、お天道様に合わせての生活が、人として本来の生活なのかもしれない。

 江戸時代の夜は早い。疲れた顔をした旅人たちが、次々に宿に消えていった。この時間から旅を続けようとする者は、よっぽどの腕の立つ人間か、宿に泊まる金のない貧乏人か、相当ぼんやりとした人間だけだった。

「戸塚は、程ヶ谷に比べると、落ち着いた感じですね」

 小十郎が辺りを見ながら呟いた。すぐ後ろを歩く釼一郎が答える。

「そうですか? 戸塚の方が宿場としては大きいですけどね」

「あ、いや程ヶ谷では、宿の前で旅人を呼び込んで大変な賑わいだったので」

「ああ、もうこの時間になると、宿がだいたい埋まりだして、飯盛女が客引きする必要がなくなってくるんですよ」

 釼一郎が言う 飯盛女めしもりおんなとは、売春婦のことである。どの宿場でも売春婦を置く宿は珍しいことではなかったが、公には禁止されているために建前上、給仕をする女、飯盛女と呼んだのである。

「なんです? 女でも買おうと思いましたか?」

「と、とんでもない」

 小十郎は、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。竜之進と明五郎は、地図を広げながら頭を突き合わせて見入っている。

「あ、そこの角の宿ですね」

 竜之進は道の先を指さして言った。

 一行は足をすすいで宿に上がった。手配された宿は、なかなか格式の高い宿のようで、調度品も品が良いものを揃えている。青畳の香りが心地よかった。

「ああ、明五郎さん。刀を貸してください。わしが手入れしておきましょう」

「え? いいんですか?」

「わしは刀の扱いにも慣れてましてね。これからの道中は、明五郎さんの刀にかかっているんです」

「それは願ってもないですが」

 恐縮しながらも、明五郎は腰から刀を外して、釼一郎に手渡した。

「お気になさらず。小十郎さんも出してください」

「ちょっと、お待ちください。さすがに刀を預けるというのは、まだ……」

 両手を挙げて竜之進が間に入る。小十郎は笑みを浮かべながら、刀の 下緒さげおに手をかけた。

「兄上、今さら何を言うんです。刀があってもなくても変わりはありませぬ。言う通りにしましょう」

 そう言って、小十郎も刀を釼一郎に手渡した。釼一郎は刀を受け取りながら、突っ立っている竜之進にも声をかける。

「ああ、竜之進さんも。見ておきましょう」

 竜之進は穴があったら入りたい気持ちであった。

「いや、私は使ってないので……」

「何を言うんです。身を挺して弟を庇うなど、なかなか出来ることではありませぬ」

 明五郎が感心したように言うと、竜之進は照れくさそうに腰から抜き取った。


 風呂上りの明五郎は、みすぼらしい姿から、宿の 浴衣ゆかたに着替えてさっぱりとしていたが、まだ落ち着かない様子で部屋の中をきょろきょろと見回している。

 釼一郎は刀の手入れが終わって、明五郎に声を掛けた。手には小袖 こそではかまを持っている。

「はい、明日からこれをどうぞ。女中に言って探してきてもらいました。古着ですが、悪くないですよ」

「えっ、そんなことをしてもらっては……」

「なあに、気にすることはない」

 着物を釼一郎から受け取りながら明五郎は頭を下げた。

「では着物代を貸してください。この役目が終われば必ず返します」

「律儀な人だねぇ、明五郎さんは。あなたの気が済むんならそうしてください」

 あきれながらも、釼一郎は明五郎の正直さが嬉しくもあった。

「着物もそうだが、明五郎さんの刀は相当ガタがきてますね」

「はい……。新しいのが欲しいのですが、何分先立つ物がなく……」

「それでは仕事になりませんね。これも立て替えておきましょう」

「いえ、そこまで世話になる訳には……。では、この役目の報酬で買いたいので、役目が終わりましたら見繕ってください」

「うーん、明五郎さんの腕なら、よほどのことがない限りは大丈夫だとは思いますが……。刀では受けないで下さいよ」

「分かりました。気を付けます」

「念のために、わしの 脇差わきざしをお貸ししましょう」

 釼一郎が腰から脇差を渡すと、明五郎は黙礼して受け取った。

「では、わしも一風呂浴びてきますかな」

 釼一郎は風呂へと向かった。


 戸塚宿の中でも上等の宿だけあって、季節の料理に上等な酒は見事であった。釼一郎もほろ酔いで、顔を赤くしながら女中に問う。

「姐さん、ここの酒はなだかい?」

「そうですよ。この辺りにもいい地酒があるんですが、やっぱり下り酒にはかないませんからね。江戸に入ったものを運んで来ているんですよ」

 下り酒とは、上方から江戸へ運ばれてきた酒のことである。江戸まで荒れた海を渡ってくる間に、たるの木の香りが酒に移り、芳香でコクのある清酒になったという。天保の頃に宮水が発見され、灘の生一本として灘の地位は確立されていく。

「どう? 今晩あたり?」

 そう言いながら、盃を女中に差し出した。

「お客さん、うちはそういう宿じゃありません。女が目当てならよそへ行ってくださいな」

 腹を立てたらしく、女中はさっさと部屋を出て行ってしまった。竜之進と小十郎は、膳を並べ酒を飲まずに食事をしている。

「あれ? 小十郎さんは風呂に行かないんですか? いい湯でしたよ」

 明五郎は厚く切ったかまぼこを口に運びながら小十郎に問いかけた。

「いえ、私は結構。体を拭いたので、大丈夫です」

 下を向いた小十郎を見て、釼一郎は盃をきゅっと空けてから、口を開いた。

「そろそろ打ち明けてもらっても、いいんじゃないですかね?」

「えっ?」

 驚いて小十郎が顔を上げた。

「あなた方は兄弟でもない。竜之進さんは、小十郎さんの家来ですね?」

「な、何をおっしゃって?」

「いいんですよ。身を隠したいのもわかりますが、そんな下手な芝居はなんの役にも立ちませんよ」

 小十郎が言葉に詰まると、竜之進が割って入る。

「私達は、正真正銘の兄弟です」

 釼一郎は、手酌で銚子の酒を注ぎながら、小十郎の脇に置かれた刀を顎で指した。

「わかりますよ。わしは、少々刀にはうるさくてね。小十郎さんが持つ刀は、かなりの名刀ですよ。竜之進さんの持つ刀も出来はいいが無銘だ。格が違い過ぎるんですよ」

「う……」

「ややこしいんで、本当のことを教えてくださいよ」

 小十郎はしばらく黙っていたが、観念したように口を開いた。

「はい……。私は小十郎、 永野小十郎ながのこじゅうろうです」

「そしてもう一つ、小十郎さんは女だね?」

 竜之進が驚いて釼一郎に食ってかかる。

「な、そんな馬鹿な。拙者は小十郎様に長くお仕えしているのです。そんな訳がない」

「ほう、竜之進さんもご存知なかったのかい? 小十郎さんは、間違いなく女だよ」

「ま、まさか」

 慌てた竜之進が、横目で小十郎を見た。小十郎は無言でこくりとうなずいた。

「別に、女だからどうこうって訳じゃない。なるべく隠し事はなしにしてもらった方が、身を守りやすいからそう言ってるんです」

「はい……。私は女です。生まれた時から、男として育てられたのです」

 ぽつりと小十郎は言った。

 竜之進は信じられないといった様子で、無礼であることも忘れて小十郎を何度も見た。今の今まで、小十郎が男であることを疑ったことはなかったが、そう言われてみれば、男にしては丸みを帯びた身体である。

 釼一郎は愛嬌のある笑顔を小十郎に向けた。

「せっかくだから、一通り話を聞かせてください。きっと悪いようにはしない」


 

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