第2話
文化三年三月、芝、車町
この文化の大火は、
藁にもすがる思いで、明五郎は東海道を西に向かった。
上役の話では小田原藩の新しく藩主になった
ちなみに小田原藩が
路傍の大石に腰掛け、明五郎の話を聞いていた釼一郎が口を開いた。
「なるほどね。小田原の殿様も富士の噴火で
「そうですか……」
明五郎は、頭を深く垂れた。
「大火で焼け出された浪人達が街道で無銭飲食や、追い剥ぎを働いている。不届きな輩が多いせいで、さっきの茶店もぴりぴりとしてたんだろうな。まあ、あんま気にしないこったね」
釼一郎の言葉に、明五郎は無言で頭を下げた。
「じゃあ、江戸に戻るまで、旅の供をしてくださいよ。それで、さっきの分ということで」
「それは願ってもないですが……。そのようなことでよろしいのですか?」
「旅は道連れ、世は情け。明五郎さんは腕も立ちそうだ」
釼一郎は刀を振る真似をしてみせる。明五郎は嬉しそうに答える。
「はい。古河で
「なら、
釼一郎が聞くと、明五郎は両手を振りながら、
「
「よし、じゃあ決まりですな。今晩は品川で一杯といきますか」
そう言って、二人は立ち上がって歩きだした。
権田坂の一番坂の中ほどである。二人の若い侍が街道に沿って植えられた松の木陰で休んでいた。一人は
「小十郎様、昨日より歩き詰めですが足の具合はどうでござるか?」
小十郎は、竜之進の手を避けるようにさっと足を引き寄せ、はばかるような小声で言った。
「心配無用じゃ。それより、様はやめろ竜之進。今はそなたの弟、太田小十郎なのだから」
二日前のことである。
遠江の
正座のまま深く礼をしている竜之進の体は極度に強張っていた。畳の上に三角に揃えた両手が微かに震えている。頭上から低く響く声が、竜之進に投げ掛けられた。
「竜之進。そなたに頼みがあるのだが」
「はっ、何なりと」
勢い良く返事をして、さらに深く礼をした竜之進は、思わず畳に額を擦りつけた。
「まあ、面を上げよ」
「はっ」
跳ね起きるように頭を上げると、目の前には居住まい正しい白髪の老人が竜之進を見つめている。斎藤伝衛門は還暦を迎えようかという老人だが、眼光は衰えるどころかますます鋭さを増している。
「実はな。お忍び旅の護衛を頼みたいのじゃ」
「私にですか……?」
護衛と聞いて、竜之進は戸惑った。一刀流の道場に通ってはいるが、剣の腕はあまり上達していない。それでも上役の覚えがめでたいのは、事務方としての働きが認められているからだと思っていた。
「心配せずとも良い。護衛と言っても危険ではない。それに、そなたも知っているお方じゃ」
「えっ?」
「元気だったか?竜之進」
声の方に振り向くと、目元が涼しげな若侍が立っていた。その少年こそが竜之進が教育係として仕えた小十郎だった。
竜之進は周囲を見回しながら、声を落として小十郎に頭を下げる。
「あ、これは失礼しました。小十郎様」
「兄者、様を止めろと言うのに」
「す、すみませぬ。小十郎さ、小十郎」
顔を合わせて笑いあう二人を、木陰からこっそりと
それもそのはずで、男の名は
蕎介は二人の足取りを確認すると、坂の途中の茶屋に駆け込んだ。中には人相の悪い浪人五人が昼間から酒を
「先生がた、出番ですよ」
「わかった。今から向かう」
そう言って、浪人達はのそのそと立ち上がってくる。
「だいぶ酒が入っているようですが、大丈夫ですかね」
蕎介の嫌味に、一人の男がぎらりと睨んだ。早くも刀の柄に手を置いている。
「おいっ。
もう一人の浪人も、いきり立っている。
「たかが、二人の若侍に後れを取る我々ではないわ」
蕎介は内心あきれたが、ここでもたもたしていては好機を逃してしまう。愛想笑いを満面に浮かべて頭を下げる。
「とんだ失礼を。そんなつもりはありはしません。すみませんでした」
蕎介が平謝りしてとりなすと、浪人達も機嫌を直して茶屋を出て行った。もちろん、代金は蕎介持ちである。
蕎介と五人の浪人達は、二人の若侍の後を追って坂を上って行く。若い二人は、歩みは早くないが足取りがしっかりしている。対して浪人達は、酒が入ったせいか既に息が上がり始めている。浪人の一人が先頭を行く蕎介に言った。
「おい、どこまで行く気だ。そろそろやってしまおう」
昨晩、二人を襲う場所も伝えたはずである。蕎介は腹立ちを抑えて振り向いた。
「坂を登った辺り、投げ込み塚の手前が絶好の場所でございます。もうちょいと辛抱お願いします」
浪人たちは不平を漏らしながら、しぶしぶと蕎介の後に従った。
「へえ。じゃあ明五郎さんは、軍学や
釼一郎は感心しながら何度も顎をさすった。釼一郎と明五郎は、二人並んで語りながら権田坂を下っている。上空を気持ち良さそうに舞うトンビの鳴き声が、なんとものどかである。
「はい。孫呉の兵法、
「それでも大したもんだね。剣の腕もなかなかのようなのに、それでも仕官がならないとは、因果な世の中だねぇ全く」
「はい。どうも人付き合いが大の苦手で。世辞の一つも言えればいいんでしょうが。自分の不甲斐なさを嘆くばかりで」
明五郎がうなだれると、乱れた
「人付き合いねぇ。こうして話していると、そんな感じでもないがね」
「釼一郎さんは、何というか、気安いというか。世辞を言う必要もないというか」
「それは、どういう意味だい?」
釼一郎がしかめ面をしながら、明五郎を睨むが、もちろん腹など立てていない。
その側を二人の若侍がすれ違った。若侍達は額に汗しながらも、元気な足取りで坂を上って行く。
「うん? あの腰の物……」
釼一郎は、立ち止まって振り返り、若侍の後ろ姿を見送る。
「どうしました?」
明五郎が釼一郎に問いかける。釼一郎はしばらく若侍を目で追っていたが、明五郎の方に向き直った。
「いやね。あの二人少し気になるなと」
「あの若侍がですか? なにも気づきませんでしたが」
「年は明らかに後ろの侍が上なのに、先を歩く侍の従者であるかのようだった」
「たしかに……、そう言われてみれば」
「その割には、後ろの侍と身なりは変わらない……」
会話する二人の横を、一人の町人と浪人五人とが、息を切らしながら通り過ぎて行く。
釼一郎は会話を止めて、再び浪人達を目で追った。
「ふうん。こいつは面白くなりそうだね」
明五郎は思いがけない釼一郎の発言に戸惑っている。
「よし、跡をつけてみよう」
「え? あの者達をですか?」
釼一郎は嬉々として言った。
「ちょっと問題が起こりそうなことに、首を突っ込む性分でね。どうだい明五郎さん」
明五郎は明らかに乗り気ではない様子で、二の足を踏んでいる。
「引き戻すのですか? あまり揉め事は困りますが」
「なあに、多少の揉め事があった方がいいんですよ。その腕が役に立つかもしれない。運が良ければ銭になるか、仕官の道が開けるかもしれないね」
そう言われると、急いで戻る必要もなければ、金の入る当てがない明五郎である。浪人でありながら、金に困っていない釼一郎の言い分が正しい気もしてくる。
「わかりました」
「よしきた」
下って来た坂を、釼一郎と明五郎の二人は再び上り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます