第2話

文化三年三月、芝、車町 泉岳寺せんがくじの近くから出た火は、朝からの西南の強風にあおらられ、 薩摩さつま上屋敷を焼いた後、京橋、日本橋一帯を火の海に包んだ。死者は千二百人、焼け出された被災者は十一万人にも上ったという。

 この文化の大火は、 丙寅ひのえとらの大火とも言われ、江戸時代の三大大火の一つに数えられている。

 明五郎あきごろうは、たまたま 駒込こまごめ 古河こが藩下屋敷に、仕事を求めて昔の上役を訪ねており、危うく難を逃れることができた。しかし、火が収まった後に、 木挽町こびきちょうにあった長屋に帰ってみると、住んでいた長屋はすっかり焼け落ち、 灰燼かいじんと化していた。元々、これといって、財産を持たない明五郎であったが、今度は本当に着の身着のままになってしまった。

 藁にもすがる思いで、明五郎は東海道を西に向かった。

 上役の話では小田原藩の新しく藩主になった 大久保忠真おおくぼただざねが、なかなかの人物で広く良い人材を集めているとのことであった。しかし、着いてみると登用の枠も少ない上に、噂を聞きつけた浪人が殺到していた。無様な姿の明五郎は、下役人にあしらわれて、失意のまま江戸に引き返して来たのである。

 ちなみに小田原藩が 二宮尊徳にのみやそんとくの働きにより復興を遂げるのは、もう少し後の話になる。


 路傍の大石に腰掛け、明五郎の話を聞いていた釼一郎が口を開いた。

「なるほどね。小田原の殿様も富士の噴火で 困窮こんきゅうした財政を立て直そうと、四苦八苦をしてるようだが、どうも周りのお 歴々れきれきの皆さんが、 邪魔じゃまをしているらしいね」

「そうですか……」

 明五郎は、頭を深く垂れた。

「大火で焼け出された浪人達が街道で無銭飲食や、追い剥ぎを働いている。不届きな輩が多いせいで、さっきの茶店もぴりぴりとしてたんだろうな。まあ、あんま気にしないこったね」

 釼一郎の言葉に、明五郎は無言で頭を下げた。

「じゃあ、江戸に戻るまで、旅の供をしてくださいよ。それで、さっきの分ということで」

「それは願ってもないですが……。そのようなことでよろしいのですか?」

「旅は道連れ、世は情け。明五郎さんは腕も立ちそうだ」

 釼一郎は刀を振る真似をしてみせる。明五郎は嬉しそうに答える。

「はい。古河で 東軍とうぐん流を学びまして、以来稽古は欠かさず続けております」

「なら、 用心棒ようじんぼうを雇ったと思えば安いもんだ。ん? 安すぎるかな?」

 釼一郎が聞くと、明五郎は両手を振りながら、

滅相めっそうもありませぬ。 窮地きゅうちを救っていただけた恩義を返せれば、それだけで……」

「よし、じゃあ決まりですな。今晩は品川で一杯といきますか」

 そう言って、二人は立ち上がって歩きだした。


権田坂の一番坂の中ほどである。二人の若い侍が街道に沿って植えられた松の木陰で休んでいた。一人は 太田竜之進おおたりゅうのしん。月代を青々と剃り上げた二十二歳の 美丈夫びじょうぶ。もう一人の 小十郎こじゅうろう 元服げんぷくを迎えてはいるが、まだまだ幼さが残る顔立ちである。竜之進が小十郎に声をかけ、手を伸ばした。

「小十郎様、昨日より歩き詰めですが足の具合はどうでござるか?」

 小十郎は、竜之進の手を避けるようにさっと足を引き寄せ、はばかるような小声で言った。

「心配無用じゃ。それより、様はやめろ竜之進。今はそなたの弟、太田小十郎なのだから」


 二日前のことである。

 遠江の 康国寺こうこくじ藩の江戸屋敷に勤める竜之進は、留守居の 斎藤伝衛門さいとうでんえもんに呼び出されていた。留守居は藩主が江戸屋敷を不在にする間の守備、幕府や他藩との交渉事を行う重要な職である。

 正座のまま深く礼をしている竜之進の体は極度に強張っていた。畳の上に三角に揃えた両手が微かに震えている。頭上から低く響く声が、竜之進に投げ掛けられた。

「竜之進。そなたに頼みがあるのだが」

「はっ、何なりと」

 勢い良く返事をして、さらに深く礼をした竜之進は、思わず畳に額を擦りつけた。

「まあ、面を上げよ」

「はっ」

 跳ね起きるように頭を上げると、目の前には居住まい正しい白髪の老人が竜之進を見つめている。斎藤伝衛門は還暦を迎えようかという老人だが、眼光は衰えるどころかますます鋭さを増している。

「実はな。お忍び旅の護衛を頼みたいのじゃ」

「私にですか……?」

 護衛と聞いて、竜之進は戸惑った。一刀流の道場に通ってはいるが、剣の腕はあまり上達していない。それでも上役の覚えがめでたいのは、事務方としての働きが認められているからだと思っていた。

「心配せずとも良い。護衛と言っても危険ではない。それに、そなたも知っているお方じゃ」

「えっ?」

「元気だったか?竜之進」

 声の方に振り向くと、目元が涼しげな若侍が立っていた。その少年こそが竜之進が教育係として仕えた小十郎だった。


 竜之進は周囲を見回しながら、声を落として小十郎に頭を下げる。

「あ、これは失礼しました。小十郎様」

「兄者、様を止めろと言うのに」

「す、すみませぬ。小十郎さ、小十郎」

 顔を合わせて笑いあう二人を、木陰からこっそりとうかがう男がいた。二人が腰を上げて坂を上り始めると、男も跡を追って坂を上り始める。そろそろとつかず離れず行う 尾行びこうは手慣れたものである。

 それもそのはずで、男の名は 蕎介きょうすけといい、普段は岡っ引きをやっているが、裏に回ると内藤新宿の 柏木剛三かしわぎごんぞうという元締めの手下として働いている。今回も二人の若侍の始末を剛三に依頼され、滞りなく手はずが運ぶように目付役となっているのだが、どうも浪人達の筋が悪い。

 蕎介は二人の足取りを確認すると、坂の途中の茶屋に駆け込んだ。中には人相の悪い浪人五人が昼間から酒をあおっている。これから仕事だというのにもかかわらず、緊張感のない浪人たちの姿に蕎介はいらつきを覚えた。

「先生がた、出番ですよ」

「わかった。今から向かう」

 そう言って、浪人達はのそのそと立ち上がってくる。

「だいぶ酒が入っているようですが、大丈夫ですかね」

 蕎介の嫌味に、一人の男がぎらりと睨んだ。早くも刀の柄に手を置いている。

「おいっ。 愚弄ぐろうするのか?」

 もう一人の浪人も、いきり立っている。

「たかが、二人の若侍に後れを取る我々ではないわ」

 蕎介は内心あきれたが、ここでもたもたしていては好機を逃してしまう。愛想笑いを満面に浮かべて頭を下げる。

「とんだ失礼を。そんなつもりはありはしません。すみませんでした」

 蕎介が平謝りしてとりなすと、浪人達も機嫌を直して茶屋を出て行った。もちろん、代金は蕎介持ちである。

 蕎介と五人の浪人達は、二人の若侍の後を追って坂を上って行く。若い二人は、歩みは早くないが足取りがしっかりしている。対して浪人達は、酒が入ったせいか既に息が上がり始めている。浪人の一人が先頭を行く蕎介に言った。

「おい、どこまで行く気だ。そろそろやってしまおう」

 昨晩、二人を襲う場所も伝えたはずである。蕎介は腹立ちを抑えて振り向いた。

「坂を登った辺り、投げ込み塚の手前が絶好の場所でございます。もうちょいと辛抱お願いします」

 浪人たちは不平を漏らしながら、しぶしぶと蕎介の後に従った。


「へえ。じゃあ明五郎さんは、軍学や 砲術ほうじゅつもやるのかい」

 釼一郎は感心しながら何度も顎をさすった。釼一郎と明五郎は、二人並んで語りながら権田坂を下っている。上空を気持ち良さそうに舞うトンビの鳴き声が、なんとものどかである。

「はい。孫呉の兵法、 六韜三略りくとうさんりゃくなどの軍学はひと通り。砲術は実際に射ったのは数度で、もっぱら書物で学んだのでありますが」

「それでも大したもんだね。剣の腕もなかなかのようなのに、それでも仕官がならないとは、因果な世の中だねぇ全く」

「はい。どうも人付き合いが大の苦手で。世辞の一つも言えればいいんでしょうが。自分の不甲斐なさを嘆くばかりで」

 明五郎がうなだれると、乱れたびんがはらりと垂れる。仕官の夢が叶わぬままの貧乏暮らしで、すっかり自信を無くしている様子である。

「人付き合いねぇ。こうして話していると、そんな感じでもないがね」

「釼一郎さんは、何というか、気安いというか。世辞を言う必要もないというか」

「それは、どういう意味だい?」

 釼一郎がしかめ面をしながら、明五郎を睨むが、もちろん腹など立てていない。

 その側を二人の若侍がすれ違った。若侍達は額に汗しながらも、元気な足取りで坂を上って行く。

「うん? あの腰の物……」

 釼一郎は、立ち止まって振り返り、若侍の後ろ姿を見送る。

「どうしました?」

 明五郎が釼一郎に問いかける。釼一郎はしばらく若侍を目で追っていたが、明五郎の方に向き直った。

「いやね。あの二人少し気になるなと」

「あの若侍がですか? なにも気づきませんでしたが」

「年は明らかに後ろの侍が上なのに、先を歩く侍の従者であるかのようだった」

「たしかに……、そう言われてみれば」

「その割には、後ろの侍と身なりは変わらない……」

 会話する二人の横を、一人の町人と浪人五人とが、息を切らしながら通り過ぎて行く。

 釼一郎は会話を止めて、再び浪人達を目で追った。

「ふうん。こいつは面白くなりそうだね」

 明五郎は思いがけない釼一郎の発言に戸惑っている。

「よし、跡をつけてみよう」

「え? あの者達をですか?」

 釼一郎は嬉々として言った。

「ちょっと問題が起こりそうなことに、首を突っ込む性分でね。どうだい明五郎さん」

 明五郎は明らかに乗り気ではない様子で、二の足を踏んでいる。

「引き戻すのですか? あまり揉め事は困りますが」

「なあに、多少の揉め事があった方がいいんですよ。その腕が役に立つかもしれない。運が良ければ銭になるか、仕官の道が開けるかもしれないね」

 そう言われると、急いで戻る必要もなければ、金の入る当てがない明五郎である。浪人でありながら、金に困っていない釼一郎の言い分が正しい気もしてくる。

「わかりました」

「よしきた」

 下って来た坂を、釼一郎と明五郎の二人は再び上り始めた。


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