つわものたちは江戸の夢
和田 蘇芳
第1話
急な下り坂が長く続いている。坂の途中、
穏やかな陽気だが、
東海道五十三次を西へ向かう時、最初の難所と言われる
徒歩の時代のことである。行き倒れになる者も少なくなく、坂を登りきった場所に
日頃から足腰を鍛えている
ところが、江戸に引き返す明五郎の足取りは重い。下り坂にかかわらず、である。いつもなら品川辺りまでは一足で進むのだが、この日はどうにも歩みが遅い。
――腹が減った……。
先ほど通り過ぎた茶屋を明五郎は振り返って見た。旅人が二人、満足気にくわえ
明五郎の腹が低い音で鳴った。昨晩、宿をとらず古びたお堂で一夜を過ごし、丸一日何も食べていなかった。
しばらく思案していたが、
――二の、四の……よ、よし、十六文はあるな……。
明五郎は、くるりと向きを変えると、茶屋に飛び込んで腰掛けた。
店は客もまばらだが、そもそも手が足りないらしい。肉付きの良い若い娘が、でっぷりとした腰を揺らしながら、せかせかと立ち働いている。店内は薄汚れていて、壁のところどころに染みあり、天井の角には蜘蛛の巣がかかっている。
明五郎は、壁にかかった品書きを横目で見て、掛け
なけなしの十六文。
江戸時代の始めには、六文程度だった蕎麦も、時代がくだって文化の頃は十六文と相場が決まっていた。うどん粉二割、蕎麦粉八割で
「ねえさんすまないが、掛け蕎麦を一つ」
「あいよ、掛け蕎麦」
声をかけられた娘は、明五郎の姿をじろじろと見て愛想もなく注文を取った。
娘の
蕎麦が目の前に置かれると、激しい勢いで蕎麦をすすったのは空腹のためではない。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。味わう暇もないまま、丼を掲げて最後まで汁を飲み干すと、握り締めた十六文を丼のかたわらに叩きつけるように置いた。
「馳走になった。お代はここに置くぞ」
明五郎は勢いよく立ち上がる。落ちぶれたとは言え一握りの自尊心だけは捨てたくなかった。いつもにもまして背筋を伸ばし、堂々と
……が、背中に娘の甲高い
「あんた! ちょっと、お待ちよ!」
立ち止まって戸惑いながらも振り向いた明五郎に、鬼の
「おい、この食い逃げ野郎! 蕎麦代ぐらいケチらず払いやがれ」
思いがけない娘の言葉に、明五郎は面食らった。
「な、何を申す。ちゃんとお代は置いたはずだ」
「足りないんだよ。二文。ふざけてるんじゃないよ!」
「ば、馬鹿な。
明五郎の二の句を聞かず、娘が言葉を被せる。
「十六文! ほら、十六文だよ。やっぱり足りないんじゃないか。うちは十八文でやってるんだよ。ほら!」
娘は勝ち誇った顔で、壁の品書きを指差した。明五郎は、あっ、と声を上げた。
――そば 十八
汚く薄い字だが、確かに十八と読める。
すっかり十六文と思い込んでいて、確認しなかった明五郎も悪いが、十六と十八。なんとも紛らわしい。
明五郎は動転した。たかが二文だが、無一文の明五郎にとっては、どうすることもできない金である。機転の効く人間なら、この場を治めるのだろうが、口下手な明五郎である。どうにも上手い言葉が見つからない。
「……も、申し訳ない。に、二文持ち合わせておらぬのだ……。なけなしの十六文で。す、すまぬ」
娘は、ますますいきり立って声を荒げた。
「はぁ? たった十八文の持ち合わせもないのかい? あんた、はなっから食い逃げするつもりだったんだろう!」
「ば、ば、馬鹿な……、せ、拙者はそ、そのような……」
「どうだかねぇ!」
「で、では、なにか働かせてもらえないだろうか? 薪割りでも、掃除でもなんでも……」
明五郎の額から吹き出す汗は、拭っても拭っても止まりそうにない。
「ずうずうしい男だよ、まったく! あんたみたいな浪人はね、働くふりをして逃げるんだよ。そう何度も騙されるもんか!」
娘は鼻息荒く、広い肩幅の体を揺らしながら詰め寄った。明五郎は
「言い訳は
明五郎は下を向いてしまった。
本木明五郎は、
しかし、平和な世というのは、剣の腕や学問より処世術が物を言う。生真面目過ぎる性格が災いし、出世とは無縁のままであった。
そればかりか、江戸屋敷の人減らしのために二十四の時に
渇しても盗泉の水を飲まず、を座右の銘にする父の教えを守り、どんなに金に困っても
明五郎は、がっくりとうなだれて崩れるように膝をつき、ぼそりと言った。
「……腹を切る」
「は? 何だって?」
「腹を切ると言ったのだ。拙者も武士の端くれ。お縄になるぐらいなら腹を切らせてくれ」
「勝手にしなよ。どうせ出来っこないんだからさ」
何も言い返せなかった。歯噛みして涙が零れ落ちそうになるのをぐっと堪える。明五郎は己の情けなさを呪った。
「ねえさん、その辺りで、勘弁してやってくれないかね」
堪り兼ねた様子で、一人の男が声をかけてきた。
見れば
「どうだろう。その代金、わしに払わせてくれないかい?」
男は娘に向かって言った。
「え? あんたが払ってくれるって? ……まあ、うちとすれば、お代が貰えればそれでいいんですけどね」
娘は応えながら、
明五郎は困惑した。内心嬉しくもあったが、見ず知らずの男に施しを受ける訳にはいかない。
「い、いや、そ、そのようなことは……」
慌てて立ち上がった明五郎に、男がさっと手で
「いいから。意地もあるだろうが、収めておいてください。二文で腹を切っちゃあ、返って物笑いの種ですよ」
「か、かたじけない」
明五郎が素直にうなずくと、男は袂にすっと手を入れて財布を取り出し、娘に銭を渡した。
「姉さん、確かめてくれないか? わしの分と、こちらの旦那の分」
娘は銭を手に乗せたまま驚いた。
「お客さん、これは多すぎますよ」
「いいんだよ。姉さんへの迷惑料だから、紅でも買うといい」
男は、にっこりと笑った。
さっきまでの激しい
「お心遣い、痛み入ります。お恥ずかしいところをお見せして……」
「ああ、気にしない気にしない。そんなに恐縮してもらっても困る」
男は偉ぶる様子もなく明五郎の礼を流したが、明五郎はまだ神妙な面持ちでいる。
「拙者は
「礼? そうさね……」
男は両手を袂に入れて小首を傾げた。少し考えた後、左右を見回して物陰に明五郎を誘うと小声で言った。
「実は……人を一人やってもらいたくて、腕のたちそうな男を探していたのだ」
「ぇ……」
明五郎は男の表情から、真意を読み取ろうとした。男は眉間に
「いやいや、冗談、冗談」
むっとした明五郎を見て、慌てて男が言葉を続ける。
「からかって悪かった。わしは、
しばらくむすっとしていた明五郎に、ようやく
「ところで、明五郎さん、あんたも大火で焼け出されたのかい?」
「わかりますか?」
明五郎が驚いて尋ねると、釼一郎は腕組みをして、明五郎の姿を上から下まで眺めた。
「その身なりを見りゃね」
「はい……。実は……」
大きな息を一つ吐いて明五郎が語り出した。
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