つわものたちは江戸の夢

和田 蘇芳

第1話

急な下り坂が長く続いている。坂の途中、 明五郎あきごろうは足を止めて 碧空へきくうを仰ぎ見た。辺りに目を向けると、 躑躅つつじが山肌を紅に染めている。色濃くなった青葉若葉が、爽やかな風に揺らぎ、軽やかな 雲雀ひばりさえずりが木々の間から漏れ聴こえてくる。春と初夏の間、と言ったところであろうか。

 穏やかな陽気だが、 草鞋わらじ 脚絆きゃはんの旅姿の年寄りは、額に汗しながらの荒い息遣いで坂を登ってくる。その横を 駕籠かごかきが、エッホ、エッホと調子を合わせて抜き去って来る。 駕籠かごに揺られるのは、身なりが良い 大店おおだなあるじといった様子。

 東海道五十三次を西へ向かう時、最初の難所と言われる 権田坂ごんたざかである。

  程ヶ谷ほどがや宿と 戸塚とつか宿の間に、一番坂、二番坂があり、十五町ほど 勾配こうばいのきつい坂が続いている。

 徒歩の時代のことである。行き倒れになる者も少なくなく、坂を登りきった場所に 無縁仏むえんぼとけを弔う 投込塚なげこみづかがあった。

 日頃から足腰を鍛えている 本木明五郎もときあきごろうにとって、 権田坂ごんたざかなど大した障害ではなかった。ほんの一週間程前には、みなぎった活力を持って坂を駆け上がった。

 ところが、江戸に引き返す明五郎の足取りは重い。下り坂にかかわらず、である。いつもなら品川辺りまでは一足で進むのだが、この日はどうにも歩みが遅い。

――腹が減った……。

 先ほど通り過ぎた茶屋を明五郎は振り返って見た。旅人が二人、満足気にくわえ 楊枝ようじで外に出てくる。

 明五郎の腹が低い音で鳴った。昨晩、宿をとらず古びたお堂で一夜を過ごし、丸一日何も食べていなかった。

 しばらく思案していたが、ふところから 巾着きんちゃくを取り出して中をあらためた。

――二の、四の……よ、よし、十六文はあるな……。

 明五郎は、くるりと向きを変えると、茶屋に飛び込んで腰掛けた。

 店は客もまばらだが、そもそも手が足りないらしい。肉付きの良い若い娘が、でっぷりとした腰を揺らしながら、せかせかと立ち働いている。店内は薄汚れていて、壁のところどころに染みあり、天井の角には蜘蛛の巣がかかっている。 老舗しにせという訳でなく、ただ掃除が行き届いていないだけのようである。

 明五郎は、壁にかかった品書きを横目で見て、掛け 蕎麦そばを注文した。

 なけなしの十六文。

 江戸時代の始めには、六文程度だった蕎麦も、時代がくだって文化の頃は十六文と相場が決まっていた。うどん粉二割、蕎麦粉八割で 二八にはち 蕎麦そばというが、 洒落しゃれ好きの江戸の人々には、二八の一杯十六文がきりが良かったのかもしれない。

「ねえさんすまないが、掛け蕎麦を一つ」

「あいよ、掛け蕎麦」

 声をかけられた娘は、明五郎の姿をじろじろと見て愛想もなく注文を取った。

 娘のさげすみの視線を感じて、明五郎は己の身なりが堪らなく恥ずかしくなった。   

  月代さかやきも伸び放題で 一張羅いっちょうらの羽織は地が赤くなって紋が黒くなっている。 草鞋わらじは擦り切れて、かかとはほとんど土の上だ。誰がどう見ても落ちぶれた貧乏浪人である。娘が顔をしかめるのも無理はない。

 蕎麦が目の前に置かれると、激しい勢いで蕎麦をすすったのは空腹のためではない。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。味わう暇もないまま、丼を掲げて最後まで汁を飲み干すと、握り締めた十六文を丼のかたわらに叩きつけるように置いた。

「馳走になった。お代はここに置くぞ」

 明五郎は勢いよく立ち上がる。落ちぶれたとは言え一握りの自尊心だけは捨てたくなかった。いつもにもまして背筋を伸ばし、堂々と 暖簾のれんをくぐった。

 ……が、背中に娘の甲高い 怒声どせいが投げ掛けられた。

「あんた! ちょっと、お待ちよ!」

 立ち止まって戸惑いながらも振り向いた明五郎に、鬼の 形相ぎょうそうの娘が駆け寄ってくる。

「おい、この食い逃げ野郎! 蕎麦代ぐらいケチらず払いやがれ」

 思いがけない娘の言葉に、明五郎は面食らった。

「な、何を申す。ちゃんとお代は置いたはずだ」

「足りないんだよ。二文。ふざけてるんじゃないよ!」

「ば、馬鹿な。 拙者せっしゃは、確かに十六文……」

 明五郎の二の句を聞かず、娘が言葉を被せる。

「十六文! ほら、十六文だよ。やっぱり足りないんじゃないか。うちは十八文でやってるんだよ。ほら!」

 娘は勝ち誇った顔で、壁の品書きを指差した。明五郎は、あっ、と声を上げた。

――そば 十八

 汚く薄い字だが、確かに十八と読める。

 すっかり十六文と思い込んでいて、確認しなかった明五郎も悪いが、十六と十八。なんとも紛らわしい。

 明五郎は動転した。たかが二文だが、無一文の明五郎にとっては、どうすることもできない金である。機転の効く人間なら、この場を治めるのだろうが、口下手な明五郎である。どうにも上手い言葉が見つからない。

「……も、申し訳ない。に、二文持ち合わせておらぬのだ……。なけなしの十六文で。す、すまぬ」

 娘は、ますますいきり立って声を荒げた。

「はぁ? たった十八文の持ち合わせもないのかい? あんた、はなっから食い逃げするつもりだったんだろう!」

「ば、ば、馬鹿な……、せ、拙者はそ、そのような……」

「どうだかねぇ!」

「で、では、なにか働かせてもらえないだろうか? 薪割りでも、掃除でもなんでも……」

 明五郎の額から吹き出す汗は、拭っても拭っても止まりそうにない。

「ずうずうしい男だよ、まったく! あんたみたいな浪人はね、働くふりをして逃げるんだよ。そう何度も騙されるもんか!」

 娘は鼻息荒く、広い肩幅の体を揺らしながら詰め寄った。明五郎は 嘲罵ちょうばの的になり、顔を真っ赤にしながらも言い返す言葉がない。

「言い訳は 番所ばんしょでやっとくれよ。貧乏浪人の食い逃げが増えて、こっちもきもに据えかねてるんだから」

 明五郎は下を向いてしまった。

 本木明五郎は、 古河こがの土井家に仕える足軽の五男に生まれた。家は貧乏であったが、教育熱心な父のおかげか、剣の腕と学問を認められて二十から江戸屋敷で勤めていた。

 しかし、平和な世というのは、剣の腕や学問より処世術が物を言う。生真面目過ぎる性格が災いし、出世とは無縁のままであった。    

 そればかりか、江戸屋敷の人減らしのために二十四の時に 御役御免おやくごめんとなってしまった。それから二年の間、浪人として不遇の日々を送っている。古河に戻ったところで、五男である明五郎に居場所はなかった。貧乏神に見込まれたとは感じていたところに、この二文の蕎麦騒動である。とうとう運が尽き果てたらしい。

 渇しても盗泉の水を飲まず、を座右の銘にする父の教えを守り、どんなに金に困っても 清廉潔白せいれんけっぱくの志だけは捨てたことはなかった男が、わずか二文のごまかしで汚名を着せられようとしていた。

 明五郎は、がっくりとうなだれて崩れるように膝をつき、ぼそりと言った。

「……腹を切る」

「は? 何だって?」

「腹を切ると言ったのだ。拙者も武士の端くれ。お縄になるぐらいなら腹を切らせてくれ」

「勝手にしなよ。どうせ出来っこないんだからさ」

 何も言い返せなかった。歯噛みして涙が零れ落ちそうになるのをぐっと堪える。明五郎は己の情けなさを呪った。

「ねえさん、その辺りで、勘弁してやってくれないかね」

 堪り兼ねた様子で、一人の男が声をかけてきた。

 見れば 総髪そうはつで浪人風情だが、びんに乱れもなく小ざっぱりとしている。腰には大小を差し、 懐具合ふところぐあいは悪くないようだ。年の頃は三十路といったところ。どこか 飄々ひょうひょうとして、 絵草紙えぞうしの猿に似て 愛嬌あいきょうがある。

「どうだろう。その代金、わしに払わせてくれないかい?」

 男は娘に向かって言った。

「え? あんたが払ってくれるって? ……まあ、うちとすれば、お代が貰えればそれでいいんですけどね」

 娘は応えながら、 襟元えりもとを整えて咳払いを一つした。釣り上がった目が、いつの間にか下がって、落ち着きを取り戻している。

 明五郎は困惑した。内心嬉しくもあったが、見ず知らずの男に施しを受ける訳にはいかない。

「い、いや、そ、そのようなことは……」

 慌てて立ち上がった明五郎に、男がさっと手でさえぎって耳打ちする。

「いいから。意地もあるだろうが、収めておいてください。二文で腹を切っちゃあ、返って物笑いの種ですよ」

「か、かたじけない」

 明五郎が素直にうなずくと、男は袂にすっと手を入れて財布を取り出し、娘に銭を渡した。

「姉さん、確かめてくれないか? わしの分と、こちらの旦那の分」

 娘は銭を手に乗せたまま驚いた。

「お客さん、これは多すぎますよ」

「いいんだよ。姉さんへの迷惑料だから、紅でも買うといい」

 男は、にっこりと笑った。

 さっきまでの激しい 癇癪かんしゃくなどすっかり無かったように、愛想を振りまく娘に見送られながら、二人は連れ立って茶店の外に出た。明五郎は二歩進んだ後に歩みを止めて、男に向かって深々と頭を下げた。

「お心遣い、痛み入ります。お恥ずかしいところをお見せして……」

「ああ、気にしない気にしない。そんなに恐縮してもらっても困る」

 男は偉ぶる様子もなく明五郎の礼を流したが、明五郎はまだ神妙な面持ちでいる。

「拙者は 本木明五郎もときあきごろうと申します。この御礼は何とすれば良いか……」

「礼? そうさね……」

 男は両手を袂に入れて小首を傾げた。少し考えた後、左右を見回して物陰に明五郎を誘うと小声で言った。

「実は……人を一人やってもらいたくて、腕のたちそうな男を探していたのだ」

「ぇ……」

 明五郎は男の表情から、真意を読み取ろうとした。男は眉間にしわを寄せて、じっと明五郎を見ている。何と言おうかと言葉を探していると、男が口に拳骨を当てて吹き出した。

「いやいや、冗談、冗談」

 むっとした明五郎を見て、慌てて男が言葉を続ける。

「からかって悪かった。わしは、 小谷釼一郎こたにけんいちろう。明五郎さんがあんまり糞真面目なんで。失礼失礼」

 しばらくむすっとしていた明五郎に、ようやく 安堵あんどの表情が浮かんだ。

「ところで、明五郎さん、あんたも大火で焼け出されたのかい?」

「わかりますか?」

 明五郎が驚いて尋ねると、釼一郎は腕組みをして、明五郎の姿を上から下まで眺めた。

「その身なりを見りゃね」

「はい……。実は……」

 大きな息を一つ吐いて明五郎が語り出した。


 

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