第81話 伽藍の悪魔 5


 この痛みは幻覚の類だと分かってはいるが──目と小指、そして今しがた千切り取られた耳の痛みに、私は悶絶する。口からは「ふぐぅ」と情けない声が漏れ、心が折れる。


 そんな私を嘲るようには笑い、奪い取った耳を楽しげに指先で弄ぶ。その姿を見て、のだと悟り、私は更なる恐怖に震える。


 おそらくこの幻覚は私が死ぬ事で、私がと向かい合った場面まで戻る。一度目は出血多量ですぐに死んでしまったが、──と言わんばかりの不気味な笑顔で、が私を見る。


 執拗で、陰湿で、徹底的な悪意。人が苦しむ姿を眺め、にたにたと笑う悪魔。このまま二度目の拷問を受けたら狂ってしまう──と、私は病室内に残されたノートパソコンに向かって駆け出し、その手の内に拾い上げた。その際ノートパソコンの隣に落ちていた「空っぽの私たち」が目に入り、それも拾う。拾いながらそういえば──と思い出す。


 鷹臣たかおみは私に真実を伝えようとして殺されかけたと言っていた。その際、この本を持ってきたのだと言っていた。つまり──


「この中にヒントか答えがあ──あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っ!!」


 本を手に持ちながら思案していると、が私の背後から抱きつき、潰れた左目に再び指を捻じ込んでくる。あまりの痛みで私の体はびくんと跳ね、その拍子にの拘束から外れることが出来た。頭の中は痛いという言葉に支配されてはいるが、何とかノートパソコンと空っぽの私たちを落とすことなくから離れられた。


 とりあえずこの場から離れなければ──と、先程開け放った病室の扉へと駆け出し、そのまま廊下へと転がり出る。廊下に出てみれば、人が一人もいない。廊下に面した窓の外も、黒一色で染め上げられている。やはりこれはが作り出した幻覚の世界なんだ──と、再認識しながら廊下を駆ける。突き当たりの曲がり角で後ろを確認すると、がゆっくりと追ってきていた。髪はざわざわと逆立ち、前に突き出した両手の指先がうねうねと蠢いている。


 私は喉元から湧き上がる悲鳴を必死に堪えて突き当たりを左に折れ、無我夢中で走る。ただ、ここがの作り出した幻覚なのだとしたら、逃げても無駄なのだろうということは理解している。私は次の突き当たった壁──階下へと続く階段の前で後ろを振り返り、手に持った空っぽの私たちを開く。こうしていれば、が近付く前に逃げられる。個室に逃げ込むなどもってのほかで、とにかく退路を確保しながら逃げ回り、の真実を暴く他ない。幸いにもまだの姿は見えない。


 とにかく早く──と、ぱらぱらと頁を捲った私は衝撃を受ける。しっかり目を通しているわけではないのだが、この小説が駿なのだと理解する。もちろん登場人物や土地などは聞き覚えのないものとなっているが、私がこれまで書き上げてきた──いや、書かされてきた文章と流れが似ている。


 おそらくこれはかおりのことだろうな──これは下野正樹しものまさきのことなのだろうな──と、理解が出来る。その上で結末を読んでみれば、おそらく駿我するが田村凛花たむらりんかを殺したところで終わっている。終わってはいるのだが──


 「これで何が分かるっていうんだよ鷹臣たかおみいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」と、私は叫んでいた。そう、この小説を読んだところで、新しく得られる情報など何もない。所々を詳しく読んでみるが、私が知り得ていることばかり。そうこうしている間に、視線の先にの姿が映り込む。は突き当たりでこちらに体を向け、「あはァ! アハハはハはははハハハハはハァァぁ──」と、一際楽しそうに笑う。


 私はまたも失禁した。怖いのも痛いのももう嫌だ。体がぶるぶると震える。そんな中、空っぽの私たちの結末の先──あとがきの頁の文面が目に留まった。



 私という存在を初めて頼ってくれたあなたと共に──


 私の名前ペンネームkyokaキョウカ──


 そう──


 あなたの中で狂おしい程に強く香りたいという思いを込め、作品と共にあなたへ捧ぐ──



 という文面が。

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