第390話

いや~何か政宗君を示唆したみたいに思われた。

俺は奥州に行った際に伊達家のお家騒動に巻き込まれ、政宗君とは仲良くなり、色々話した中で彼から聞かれたことを素直に話しただけだ。

「キリスト教ってどんな宗教?」て聞きかれたから、昭和~令和では常識だった、一神教、イエス・キリストが宗祖等々の一般常識と共に聞かれるがままにキリストの奇跡の話や最後について語っただけ。

それを聞いた者がどう考えるかなんて示唆しようも無いぞ。

政宗君はインスピレーションからゴルゴタの丘のエピソードをパロっただけ。

しかし、周りは俺の意見を信じてくれ無かった・・・


「蔵人様・・・申し訳御座いませぬ・・・」

「いや・・・もういい・・・」


政宗君が謝罪して来るが、彼が悪い訳でもない。

確かに俺が話して聞かせたのは事実だし・・・


「辛気臭いの~酒が不味くなるでその話は終いじゃ!」


そう言いつつ酒を煽る慶さん(前田利益)。

政宗君の会見が終わった後、少しして政宗君が謝罪にやって来た。

巷では俺の城落としの話と共に政宗君の金の十字架の話が話題となっている。

それは良いんだけど、政宗君の方の話は俺の発案みたいな話となっているから困ったものだ。


「嫌なこと忘れて騒ごうぜ!」


とパリピみたいな事を言いながら慶さんが誘って来たので、その誘いに乗っかって遊びに来た。

メンバーは俺、政宗君、慶さん、立左りっさ(立花宗茂)、源次郎(真田信繁)、助五郎(北条氏規)といった何とも豪華なメンバーだ。

弥七こと立左は「名前を立花左近将監さこんのしょうげんと改めました。これからは左近将監とお呼びください」と少し前に言って来た。

やひち弥七」と呼んでたのに「さこんのしょうげん左近将監」とか長くなるし、呼び辛い。

しかし、本人の希望なのでそれを叶えようと・・・やはり呼び辛い。

「左近」と呼ぶと左近殿(嶋左近)と被るので、「立左でよくね?」的な事を俺が言ったと思う。

いや、言ったのかな?覚えてないけど・・・

何時の間にかそれが広まり、皆がそう呼び始めたらしい。


「それにしても、風呂に浸かりながら酒を嗜むとは、風流じゃ!!」


慶さんがお風呂を満喫しながら、月見酒としゃれこんでいる。

そして、それぞれで話は弾む。

やはり話題は韮山城の話となり、待ってましたとばかりに助五郎が自分の事の様に自慢げに話し始めた。

皆興味深そうに聞き入り、更に次は政宗君の今回の金の十字架の話なども俺を余所に盛り上がる。

そうなると、立左も自分自身が俺の許で修行した話や、慶さんと共に上杉家に行った話等々が飛び出して盛り上がった。


「う・・・某は・・・丸目様とあまり接点がなく・・・」

「それは仕方ない、ほれ、飲め、飲め」


源次郎が一人凹んで皆で慰める構図が出来上がる。

まぁ面識はあり、彼の親父の影響で俺の事を慕ってくれているのは知っているが、中々に接点は少なかったな。

そんな感じでワイワイと風呂を堪能していると何かの気配が近づいて来た。


「お!猿が来た」

「ほう!獣も名湯に楽しみに参ったのか!!」


慶さんがそう言った直ぐ後に、声掛けされた。


「楽しそうじゃな~仲間に入れて欲しいがー」


現れたのは猿は猿でも天下人のお猿さんだけどな。

俺は暗視でお猿さん(豊臣秀吉)が見えていたので驚かなかったけど、皆は驚いている。


「「「「で、殿下!!」」」」


俺と慶さん以外の者が驚く。

慶さんも意外と夜目が効く様で、気が付いていて「獣」呼ばわり。

まぁ慶さんらしい。


「長さん、仲間に入れて欲しいがー」

「もう勝手に来ているだろ?」


そして、慶さんが酒を勧める。

お猿さんもそれを構わず受け取り、一口飲んで「うまい」という。


「それで?何を話しておったのじゃ?」

「おお!関白様にも是非とも長さんとの話を聞かせて頂きたい」

「ほう!長さんの話か!」


そして、お猿さんは俺との出会いの話をし始めた。


「長さんと初めて会ったは尾張で信長公にお仕えし始めて少し経った頃よ」


ああ、懐かしい話だ。

あの頃はまだ師匠に弟子入りする前で、弟子入りに行く道中で物見遊山的に色々な人物と会ったことを思い出される。

いい出会いも、悪い出会いも色々あった。

印象深かったのは目の前のお猿さんと家さん(徳川家康)、今川義元に北条氏康と後々の世で有名な人物たちだった。

お猿さんと家さんは未だに付き合いがあり、その後も色々あった。

そんな事を考えている間にどんどん話は進む。


「儂は長さんの言に従い、信長公に賭けたのよ」

「その様な・・・ことがあったのですな・・・」


皆興味深げに俺を見る。

なんか俺が唆したみたいになってない?

いや、違うからな!!

心外だという様な気持ちが顔に出ていたのかな?お猿さんがフォローする。


「長さんの御蔭で今の儂がある」


まぁ色々助けて恩は結構売っているとは自分でも思うぞ。

しかし、俺の話ばかりするものだから、恥ずかしいやら何やらで風呂にのぼせた様なので「先に上がっておる」と言い残して遁走したよ。

その後も盛り上がっていたので、色々話しているのだろう。


〇~~~~~~〇


今回はお風呂回でした。

まぁお風呂回と言ってもお色気は全くありませんでしたが・・・

さて、秀吉の温泉好きは前回話した通りですが、小田原征伐時にも諸将の疲れを癒す為として豊臣秀吉は石風呂を作らせたりと色々行ったようです。

現在も太閤石風呂、その近くにある滝は太閤の滝として名前が残っております。

前々回に豊臣秀吉と有馬温泉の話を少ししましたが、秀吉は有馬温泉によく訪れていたことでゆかりの地の一つに数えられています。

有馬温泉やその周辺にはその名残があり、「太閤秀吉像」と「太閤橋」という名の橋があったり、「寧々像」と「ねね橋」等もあります。

秀吉が祈って湯を沸かせた話なども残っており、その由来で「願い坂」という場所もあります。

秀吉の別荘であった湯山御殿という場所あった場所から発掘されたゆかりの品を見ることができる「太閤の湯殿館」等もあります。

最初に秀吉が有馬の地を訪れたのは1579年の事で、播磨別所の本拠である三木城攻略に必要とする道普請の為と云われています。

別所家当主の別所長治が自害し、三木城が開城した後には秀吉が有馬の湯に浸かり戦の疲れを癒したと云われますが、あまりの気持ち良さに湯船で寝こけた話などが秀吉の有馬入湯談として残っているようです。

本能寺の変以降、明智光秀や柴田勝家、徳川家康などと戦を行う合間を縫ってこの地に訪れては疲れを癒していたと云われます。

そんな秀吉お気に入りの地ですが、1590年の小田原征伐後には奥州仕置を行い名実ともに天下を掌握した秀吉はこの有馬の地で「有馬大茶会」というものを開催したそうです。

この有馬大茶会も「北野大茶湯」と比べても遜色ない程になかなかのものであったようで、錚々たるメンバーで行われたようです。

秀吉自身も愛用の銘茶器「鴫肩衝」を態々持参して、大層な力の入れようであったと云われます。

この茶会は今の世も「秀吉を偲んで」という事で行われているそうです。

1594年には先に名の出た「湯山御殿」を建てたほどに気に入っていたようです。

しかしこの御殿は1596年に発生した「慶長伏見地震」で全壊してしまいました。

更に最悪な事に、この地震の影響で有馬の湯屋や民家も大きな痛手を負い、湧き出た湯の温度が急激に上昇したため温泉を利用することができなくなってしまったそうで、その事態を重く見た秀吉は直ちに復旧を行うと同時に、一年間にも及ぶ大規模な改修工事に乗り出したそうです。

その序なのかは判りませんが、近くを流れていた六甲川の氾濫による被害防止策とも合わせて工事したので、有馬の地が水難に苦しめられることはなくなり、泉源はその後凡そ350年間改修工事を行う必要がなかったと云われております。

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