第364話

「御生まれになりました!!」


早馬で淀城から知らせが参った。

儂は待ちに待った知らせを聞き、更に問う。


「して、男か女か!!」

「はっ!男子に御座います」

「茶々!でかしたがねぇー!!」


ここに居ない茶々を褒める。

同じく固唾を飲んで知らせを聞いていた皆も「関白殿下おめでとうございまする」と祝福してくれる。

齢五十を超えて子が生まれるとは思わなんだが、大望の我が子の誕生に歓喜した。

子が生まれる前に聚楽第に落書した不届き者が現れた。

政策批判には目を瞑れたが、「茶々姫の腹の子は関白の子にあらず」の一文に怒りを覚え、下手人を捕まえるように命じると共に門番の者たちも処断した。

今考えるとちと気の毒な事をしたとも思えるが、その時はとても許せる気持ではなかった。

寧々からは「やり過ぎです。小一郎(豊臣秀長)が不在だとお前様はやり過ぎてしまいますね、小一郎意外に止められる者が居ないとは・・・情けない」と言われ、やり過ぎに対して釘を刺された。

確かに小一郎に罰を与え面会を禁じたからお小言を言う者は周りに全く居なかったし、面と向かって止める者などは言うまでも無く居なかったことに寧々から言われて気が付いた。

これは拙いと己自身も感じ、早々に赦免とした。

罰として小一郎に命じて茶々の出産の為に淀城を改修させてはみたが、会って早々に小一郎からもお小言を言われた。


「兄者・・・関係無き者も多く処断されましたな・・・」

「関係無い者?下手人に関わった者は処断するよう命じちょったが、どういう事がー?」


勿論、この件の前に門番たちの処遇については散々叱られた。

「多少の落ち度で死を与えておれば人が居なくなります!!」ときつく言われた。

話を戻し、小一郎は落書した下手人と少し関わっただけで罪に問われ死罪となった者も多いという事に対してもお小言を言う。


「そんな命は出してちょらんがー」

「はぁ~・・・兄者は何と命じられたのですか?」

「落書した下手人に少しでも関わる者は年齢の上下、職業の貴賤、男女の区別なく罰せよじゃが?」


小一郎は大きなため息とともに命令内容を聞いて来たで答えてやった。

そうすると、またため息をしてから言う。


「七つ前の幼児に齢八十の以上の年寄りも処罰されましたし、隣に住んでおった、更には下手人の行きつけの店の者やその日すれ違っただけの者も連座で処罰を受けたのは御存知ですか?」

「いや、関わりのある者を処罰したと知らせは受けたがねぇ~内容までは知らぬぬぞ・・・」


そういえば、そんな者たちが下手人の連座の中に含まれておると聞いちょったが、あの時は・・・

「本当に処断してよいのですか?」と聞かれたで、「関りがあるならば連座じゃ!疑わしいなら罰せよ!!」ときつめに言った気がするが、今更それを言えば小一郎の説教がまだまだ長引きそうじゃし、覚えていない、いや、聞いておらぬ事としようかの・・・

しかし、その事より小一郎が気にしたのは


「兄者をお止めする者は居なかったのですか?」

「うむ・・・居らんかったがー」

「そうですか・・・」


この時は小一郎が思案し始めたし、その後直ぐに話題を変えて事なきを得た。

おっと、いかんいかん、吉報の届いた喜ばしき日に考える事ではなかったがー。

終わったことだしもうよかろう。

伝令で来た者が茶々からの伝言を伝えて来た。


「御子様のお名前を賜りたいと淀の方様が申されて御座いました」

「名か・・・そうよな~・・・!・・・長寿を願い、すてとしよう」

すて様ですな!良き名で御座いますな!!」

「そうか、そうか!!我が子は棄丸すてまるじゃがねぇ~」

「では、拙者は早速戻りまして淀の方様にお伝えして参ります」

「うむ!頼むぞ!!」

「はっ!」


古来より、棄子すてごはよく育つと云う。

故事に倣い、一度棄ててから拾うという事も行うとしよう。


「誰ぞ、我が子が産まれたこと、名をすてと名付けたことを触れ回って来い!!」

「「「「「はっ!」」」」」


さて、我が子が生まれたことで祝賀も届くであろうから色々と準備が必要であろうし、我が子の為に何かしてやれることはないかを考えなければなるまい。

大殿(織田信長)、岐阜の殿様(織田信忠)が逆族・惟任これとう(明智光秀)に討たれたは何故であろうか?

あのような事がまた起こるとは思えんが、謀反と言うのは普通に起こる事じゃ。

諸侯を抑える為には何が必要か、よくよく考えておかねばなるまいて。


「官兵衛達にも相談するか・・・」


先の事を考える必要があるが、今日は喜びを噛み締めながら、大いに我が子の誕生を祝おうと心に決めた。


★~~~~~~★


「千代様、ありがとう御座いまする」

「うむ!その方もよう頑張ったのじゃ」

「はい、お陰様で念願の子を得ることが出来ました」

「子を成したが勝負はこれからなのじゃ」

「これからですか?」

「うむ!七つまでは神の内と言うであろう?」

「左様で御座いますね・・・」

「我は次に待つ者の許に向かう事になるが、その方は先ず子を大事に育てて行かねばの~」

「はい、心得ておりまする」


丸目二位蔵人様の妹君である千代様に身籠る秘訣を伝授頂き、子を成す事が叶った。

嬉しい事に嫡男を産み落とす事が出来た。

正直申せば、高齢の殿下との間に子を成せるか不安があった。

殿下は多くの愛妾を抱えておられるにも拘らず、恵姫以外には中々子を成していない為、もしやすると跡継ぎは生まれないのかもしれないと危惧されたいた。

まさか、我が身に宿るとは思わなんだ。

母の市との縁で千代様が私の許に来て下さったことで起こった奇跡だと思える。

今回の件で秘伝を伝授頂いたのでもう一子設けたい所ではあるが、先ずは生まれたばかりの我が子を大事に育てることが先決であろう。

その為にも千代様にはこのまま残って頂きたい所ではあるが、千代様曰く、子育てでは役に立てないとの事らしい。

残念である。

血の繋がりは無いが、千代様には身内のような親近感を覚える。

まるでもう一人の母のような・・・

それにしても不思議な方じゃ。

初めてお会いした時から時が止まった様に何時までも彼女の美貌は変わらぬ。

本人は妖狐などと言われておるが、本当なのやもしれぬと思う程にお変わりない。


「なんじゃ?まじまじと我を見詰めておるが、如何したのじゃ?」

「いえ、もう直ぐお別れと思いますれば、寂しゅう感じまする」

「わははははは~また何時でも会えように、何をそんなに寂しゅう思う?」

「そうですね・・・またお会い出来ますよね?」

「当たり前なのじゃ!」


そんな話をしておったが、まさか殿下があのような事を諸侯に命じられるとは思わなんだ。

そのことで、大恩のある千代様にご迷惑をお掛けするとは・・・


〇~~~~~~〇


豊臣秀吉の長男、鶴松君の誕生日は天正17年5月27日(1589年7月9日)と云われています。

夏に生まれた子を一度捨てて、他人に拾ってもらうという風習があります。

「拾い子は長生きする」という古事に倣った風習で、夏生まれのすてこと鶴松君は勿論の様に一度棄てられてから拾われるというイベントが行われたようです。

生まれが夏の場合やるというのは新生児を気候の良くない時に外に放置すれば病気したりのリスクが高いという考えからなのかもしれませんね。

特に、冬に儀式を断行して子供が風邪ひいたとかなったら本末転倒もいい所ですから。

この風習は現代でも一部地域で行われるそうで、一度家の庭先に捨てられ、近所の人に拾い上げて貰うという行為をするそうです。

他にも、赤ちゃんが生まれて初めて家外に出た際に、最初に出会った人を「行き会い親」とする地方もあるそうです。

この様に産みの親以外にも育ての親、名付け親等々多くの親を設ける事で子の幸せを願いつつ皆で子供を育てて行くという文化が昔の日本にはあったようです。

このような親を仮親と言いますが、上記に上げたものだけではなく、赤ちゃんを最初に抱き上げたと言う事で抱き親と言ったり、妊娠中に岩田帯(安産祈願の帯)を贈ってくれ人を帯親と言ったり、産婆とは別に出産に立ち会った人を取上げ親とも言いました。

他にも沢山あるようですが、一度棄てられてから拾われるというイベントを「子捨ての儀」等と言ったそうで、拾う役の者を「拾い親」と言いました。

夏に生まれた子に行うと上記で言いましたが、元々は男性42歳、女性33歳の大厄に子どもが生まれると行った儀式だったようです。

この儀式のお作法としては以下の通りとなります。

赤ん坊を、かごに入れ、四つ辻、道祖神などに捨てる置いてから去る

その時、捨てた親は絶対に赤ん坊の方を振り返らず、去ります。

それから、あらかじめ頼んでおいた「拾い親」がそれを見届けた後に赤ん坊を拾います。

その際には、箒と塵取りを持ってやって来て、箒で塵取りに掃き入れる真似をしてからその子を自分の家に連れ帰るといった事をします。

次の日、拾い親がお祝いの品を持ち、赤ん坊の服も替え、勿論、晴れ着を着せて、実の両親に送り届けたら儀式は終了となり、お祝いの宴が模様されました。

徳川八代将軍の吉宗もこの捨て子の儀式をされたことで知られています。

吉宗に対してこの儀式を行ったのは厄年の子だったからですが、秀吉の子の場合は特に厄年と関わり無さそうと思うかもしれませんが、実は鶴松の時は母親の淀の方(茶々)が厄年に当たりました。

女性の初厄の年が18~20歳なので当時18~19歳だった彼女の影響で行われたのかもしれません。

次男のひろいこと豊臣秀頼も同じ「子捨ての儀」を行っているのですが厄年はまったっく関係無い年の子です。

やるやらないは当時も親の考えだったのかもしれませんね。

因みに秀頼も 文禄2年8月3日(1593年8月29日)という夏生まれです。

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