第362話

解せぬ!!

慶さん(前田利益)は俺の知る歴史通りに「傾奇御免状」を得て戻って来た。

一度戻って来た際に、「関白殿下に洒落が通じた様じゃ」と言っていた。

歴史通りなので驚きなど無く、慶さんに対して「だから言っただろ」と自信満々に答えたよ。

慶さんが、再度、登城した後、美羽たちに「もしも、怒らせて慶次殿がその場で捕まっていたらどうするのですか?」と聞かれたけど、「慶さんなら捕まるへまはしない」と言い張った。

美羽たちに呆れられたが、「長様らしい」と言って最後は諦められた。

そして、この会見の様子は慶さんの武勇伝として色々な者の口に上がり流布された。

皆が口を揃えて言う、「流石は天下御免の傾奇者」だと。

それとともにお猿さん(豊臣秀吉)を賞賛する声もある。

「己を揶揄うように猿真似されたのに許した上に褒美を与えるとは、流石、天下人は度量が深い」等々の賛辞がそこかしこで囁かれた。

俺は・・・「傾奇者に天下人を揶揄う提案するとは流石は破天荒な二位蔵人様らしい」と誉め言葉ともそうでもないと言えるような言葉を皆が言う。

「関白殿下は形は猿でも心は天下人」の言葉とともに、関係ない俺の話まで持ち上がる始末。

お猿さんと慶さんは株が爆上がりしたけど、俺の方はトラブルメーカーみたいな立ち位置に置かれたのは何故?

最近、偶に遊びに来るようになった織部殿(古田重然しげなり)は現場で起こったことをつぶさに見ていた一人で、そのやり取りを面白可笑しく教えてくれた。

その際に俺は愚痴った。


「何で俺が破天荒とか言われるのかよく解らん!慶さんが協力を求めたから提案しただけなのに・・・」

「あははははは~二位蔵人様が次も何か面白い事を遣ってくれると思う民衆の期待の表れですよ」


とか、訳の分からん事を言われたぞ。

又左殿(前田利家)からは「慶次に破天荒な提案はお止め下され。慶次は面白いと思えば相手、所構わずに実行に移す性分にて候」とお叱りを受けたよ。

うん、慶さんならやるね・・・てか、やった。

慶さんもその手紙を見せると笑いながら「叔父貴(前田利家)が珍しく慌てたり、白目を剥いておったぞ」とその時の又左殿の様子を教えてくれたけど嬉しくないぞ。

流石は天下御免の傾奇者悪ガキは「又面白きことあれば相談する」なぞと言いよったがな・・・

そして、慶さんはアドリブでお猿さんを亡き者にしようと企てたという。

何故か聞いたら、「売られた喧嘩」としか言わない。

いや~流石に天下人暗殺は不味いだろと思ったけど、「長さんは多少揶揄われた程度で怒る度量ではないと言ったではないか」と言う。

いや、いや、価値観違い過ぎだろ!!

まぁ要らんこと考えると又左殿の様に胃を痛めそうなので考えないでおこう。

慶さんは「天下御免の傾奇者」と呼ばれ、俺は「破天荒」「奇天烈怪奇」等のそれ誉め言葉?と言いたくなるような代名詞で呼ばれるようになる。


「ぶわははははは~それは災難で御座ったな!」


俺は渋面で頷くだけしておいた。

一時はこの件で揶揄われそうだな・・・

慶さんは京に残るというから俺たちは予定通りに九州に戻って来た。

近くを通るので虎之助(加藤清正)ん所に寄り道して今回の話を聞かれたのであらましを説明した。

その感想が上記だ。

絶対に災難とか思ってないよね?

そうそう、東海地方で大地震があり、家さん(徳川家康)に見舞金送ったんだけど、お礼の書状が来たんだけど、それにも「天下人を揶揄うのは程々に」とか書かれていた。

いや、揶揄ったのは慶さんで俺ではない。

世間は実行犯が慶さんで指示役が俺みたいな構図が出来上がっているようだ、解せぬ!!


「落書した者は許されませんでしたな」


聚楽第に落書した者が現れた。

尾藤びとう道休どうきゅうという武士の犯行だった。

慶さんを迎えに来た一人である徳禅院殿(前田玄以)が秘密裏にその落書を消そうとしたが、お猿さんにばれた。

実行犯は勿論の事、門番17名も業務不履行で処刑された。

実行犯の尾藤びとう道休どうきゅうの罪は重いとして厳罰に処されるのは解るが、犯人が捕まる前に門番たちが先に処刑された。

鼻削ぎして1日放置し、次の日に耳削ぎされ、逆さに磔にされて処刑されたらしい。

落書の内容が拙かった。

政策判等々の文言が書かれていたというけど、その中に「茶々姫の腹の子は関白の子にあらず」という一文が特にお猿さんの逆鱗に触れたらしい。

もうそろそろ生まれるというデリケートな時期だったのでお猿さんもナイーブになっていたのだと思うけど、天下人の機嫌を損ねるとこうなるぞという戒めでもあった様な気がする。

この実行犯の尾藤びとう道休どうきゅうという人物は本願寺の信徒の牢人で、お猿さんは本願寺に増田長盛・石田三成を派遣して追及した。

本願寺の対応は迅速で、寺内に居た尾藤びとう道休どうきゅうを自害させ、その首を指し出したそうだ。

尾藤びとう道休どうきゅう本人は「何故こんな大それたことをしたのか?」と聞かれた時、「前田慶次が許されたから」と答えたというが、本人は既に死んでいるし、噂話なので事実は不明。

慶さんのケースと違うのは、先にお猿さんが慶さんに非礼をしたから許された面があるが、天下人に先に喧嘩売れば如何なるか解ろうと思うが、馬鹿は解らなかったようだ。

しかし、これだけでは終わらず、連座含め実行犯に関わる者は軒並み処刑された。

計113人が死刑となったのだからお猿さんの怒りが解ろうというものだ。

処刑になった者は80を超えた爺婆や7歳に満たない幼児や、男女、職業と等々も関係なく、更には罪の有無も関係なく、下手人かどうかの判断もくじで判断されというから滅茶苦茶で、有識者の一部がこれを批判した意見を出したというが、黙殺された。

お猿さんの狂気がこの頃から見え隠れして居るように思えるが、先の歴史を知る俺だからそう感じるだけかもしれない。


「お猿さんは大丈夫か?」

「大丈夫かと言われましても・・・」

「答え辛い事を聞いて悪かった。それにしても秀さん(豊臣秀長)が止めれなかったの?」

「大和大納言様(豊臣秀長)は・・・」

「ああ、そうだったな・・・」


秀さん(豊臣秀長)は先年に彼が治める紀伊の雑賀において材木の管理をしていた代官・吉川平介という家臣が問題を起こした。

熊野の材木2万本の代金を着服する事件なんだけど、この件がお猿さんの耳に入ると、吉川平介は罪を問われ処刑され、秀さんも監督責任を問われ叱責の上、翌年(今年)の年頭の挨拶を拒否された。

兄弟なのに面会謝絶の没交渉となった訳だ。

丁度、ストッパー不在の時期に起こった事件となり、如何に豊臣政権にとって秀さんの立ち位置が重要かというのが解ることとなる。

そう感じたのは豊臣政権の幹部たちの総意だったようで、秀さんの復権が渇望され、それを受けてお猿さんも赦す代わりにとして茶々姫に与えた淀城の改修を命じたそうだ。

豊臣秀吉暴走車を止める為にも豊臣秀長ブレーキの復権が各所から望まれた事となる。

茶々姫の出産予定は5~6月との事を千代が伝えて来たので、千代に今度は伊達家に行って欲しい事を改めて伝えた。

「報酬は好きな物を食べ放題」と書いておいたら、「稲荷寿司を腹一杯食いたい」という事を最初に書かれており、「一度切原野に戻る」と書かれてあったので6月中には戻って来ると思われる。

さて、暗い話は早々に終わらせて、明るい話題を提供しよう。


「時に、虎之助は西瓜すいかは知っておるか?」

「はて、それはどの様な物で?」

「美味いぞ!育ててみぬか?」


〇~~~~~~〇


「傾奇御免状」の対比で「落書事件」は中々に面白いと思い、また、年代的に丁度だったので今回取り上げました。

秀吉が苛烈と言われる一例の事件です。

本文中でも書きましたが、くじ引きで下手人とするか決めたと云われており、時期的にも豊臣秀長が兄・豊臣秀吉に意見し辛い時期だった為にこんな滅茶苦茶な事が行われたようにも思えます。

興福寺多聞院主の英俊えいしゅんという僧侶は「多聞院日記」という歴代多聞院主から引き継ぎで書き続けている日誌においてこの事件について痛烈に批判しています。

この「多聞院日記」は応仁の乱の時代から引き継ぎながら書き足されて行き、1478年~1618年と何と140年分もの事が書き記されています。

英俊えいしゅんを含む三代に渡って書かれた日誌です。

日誌なので内容はざっくばらんで、多岐に渡るようで、日本酒の造り方に関する記述も散見するようです。

この時代は僧坊酒という名で寺内で酒造していたらしいのでなるほどですね。

さて、このお坊さん英俊は猫や犬が大好きだったようで、彼の担当時期の内容には多くの猫や犬が登場しているそうです。

猫の出産を喜んだりや犬が鉄砲で撃たれたと知れば悲しむといった内容があるそうです。

そして、この人物は猫好きに有名なのですが(知らんけど)、日本初の猫に戒名を付けた人物です。

猫好きで猫を飼っていたそうなのですが、愛猫が亡くなるとそれを嘆き日誌に「うちの子が死んじゃった。不憫、不憫」と書いているとか・・・

極めつけは「妙雲禅尼」と戒名を付けております。

「尼」という事は雌猫だったみたいですね。

他にも、この英俊さんは自分の見た夢の話をこの日誌「多聞院日記」に書いているようですが、纏まりが無い為、同じく夢について多くを書いていた明恵みょうえという僧侶が記した「夢記ゆめのき」程には面白くないと云われていますが、日誌なので・・・

因みに「夢記ゆめのき」は約40年間の自分の見た夢を書き記したもので、「御夢記」「御夢御日記」等とも呼ばれます。

明恵みょうえは、鎌倉時代初期の華厳宗中興の祖とよも呼ばれる名僧で、著作は70余巻にも及ぶ文豪でもありました。

和歌にも長けており、「夢の世の うつつなりせば いかがせむ さめゆくほどを 待てばこそあれ」という「新勅撰和歌集」にも選ばれる和歌を残しています。

「この世は夢のようだというけれど、現実だったらどうしよう?夢だからこそ、醒めるのを待つことができるのに」という感じの意味です。

流石、「夢記ゆめのき」という夢日記を約40年も書いた人物らしい和歌ですね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る