第342話

大久保長安、彼奴絶対俺との過去のやり取り覚えているよな・・・

ニッコリと笑う顔が脅しにも見えて来るぞ。

少しだけ投資額を増やすこととしよう。

さて、徳川家を後にした俺たちは次の目的地の相模湾を目指す。

俺の前世での記憶では観光地にしてサーフィンの聖地の様な場所だった。

湘南海岸には何となく憧れのような物があったな~サーフィンはしてないのにな!

相模湾の中央には、水深何と1,000mを超える相模トラフという大きな海底谷があり、湾の北西部分は海岸から急傾斜で深くなっているというのを前世知識で覚えていたので、そこに大型船の停留地を作ることを計画している。

やはり浅い所を掘り下げるより元々深い所の方が予算的にも抑えられるのもあるし、北条という俺の関係では良好な家に話を持って行った方が話が通り易いと考えての事だ。

お出迎えはお銀に風魔小太郎に、北条宗哲が居た。


「よう参られましたな」

「宗哲殿、お元気そうで」

「ふぉふぉふぉ~まだまだお迎えは少し先の様でしてな~この通りですじゃ」


妖怪爺はまだまだ元気のようだ。

北条家を代表してお迎えに来ており、尚且つ、港の作事を彼が担うそうだ。

次に声を掛けて来たのはお銀。


「蔵人様、お久しゅうございます。遠路遥々、ご苦労に御座います」

「お銀も元気そうで安心した」


お銀が労ってくれた。

風魔小太郎は・・・ペコリと頭を下げるのみで、無口だ。

実はお銀は藤林家の関東支部を取り纏める仕事の傍ら、風魔小太郎と結婚した。

長門守からこの件について相談されたのはもう大分前の話であるが、俺は了承したので彼らは夫婦となった。

お銀は藤林の籍を抜いて風魔に所属を変えようかという話も出たけど、現代人の感覚が抜け切らない俺は、特に気にしないことを伝え、お銀の関東支部を取り纏める仕事はそのままとした。

まぁ将来的に風魔一族を引き抜くことも考えているので、特に問題は無いと思う。

数年後に小田原征伐が起これば風魔は野に放たれる訳だし、俺が取り込んでも問題無い筈だ。

そうそう、お銀は風魔お銀と名乗りを変えているし、既に子供も設けている。

三太郎と名付けられたらしいことは長門守から聞いている。


「蔵人殿、左京大夫様がお待ちで御座います」


左京大夫というのは後北条家五代目当主の北条氏直のことで、俺は会うのは初めてだ。

前当主の北条氏政ですらあまり面識が無いのだから仕方ない。

北条氏政とは俺が北条家に滞在していた時に少しあった程度で、殆どは北条氏康と会う事が多かったし、北条一門では目の前の宗哲殿や弟子の源三(北条氏照)が主だった。


「ふぉふぉふぉ~源三も会いたがっておりましたぞ」

「ああ、文は交わしておりますが会うのは久方ぶりですからな今回会えるとよいのですが・・・」

「時間を縫って会いに来ると申しておりましたぞ」


楽しみだ。

関東まで来ることは中々無かったので会うのは本当に久しぶりとなる。

手紙のやり取りはあるので疎遠と言う訳ではないが、旧交を温める事としよう。


「お初にお目に掛りまする。拙者、北条家五代目当主の北条左京大夫氏直と申します」

「これはご丁寧に。某、丸目蔵人長恵と申しまする」


現北条家当主との面会と相成った。

下に置かない対応で今回の港造営の意気込みが感じられる。

隠居した前当主の新九郎殿(北条氏政)も来ている。

そんな彼が次に声を掛けて来た。


「久しぶりですな丸目殿」

「本当にお久しぶりですな新九郎殿」

「今は隠居して截流斎せつるさいを名乗っております」


ああ、北条家は代々当主は新九郎を名乗る。

何でも初代の北条早雲が通称として新九郎と呼ばれていたので当主はそう呼ばれるそうだ。

北条氏政は隠居し截流斎せつるさいを号しているというのでそのように呼ぶこととなる。

彼らにも連れて来ている家の息子たちを紹介した。

面識あるのは重要なので連れて来た次第だ。

会見は無事に終わり宗哲殿がもてなしの宴を開いてくれた。

源三も駆け付けて一緒に酒を飲む。

因みに、当初は当主自らがもてなすつもりだったそうだが、一部異を唱える者が現れた。

その者たちの言い分は「一介の浪人を大北条の当主がもてなすのは如何なものか」というもので、藤林の諜報に筒抜けの様で、俺の耳にも届いた。

俺的にはどうでもいいが、港造営の半金を出すスポンサー様に取る態度ではないよね~と思うけどどうなんだろうね~気心の知れた者たちに労って貰えば満足だから俺的には本当にどうでもいいが、俺以外の者たちの怒りは・・・まぁ酒でも飲んで気にするな!!


「関白(豊臣秀吉)から左京大夫様と截流斎せつるさい様に京に来て挨拶せよとの文が届いたのじゃが・・・」

「北条家では意見が割れておいでですか?」


宗哲殿が聞いて来た。

まぁ諜報からの知らせで知っている。

天子様と皇太子様の聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこうが行われるのに際し、諸大名にそれに伴いはせ参じる様に通達が下った。

お猿さん(豊臣秀吉)は関白の命として通達したが、これは所謂踏み絵のようなものだろう。

来なければ踏み潰すぞという所だと思う。

北条家内では命に従う派と従わない派で真っ二つに分かれていて調整に難航しているそうだ。


「割れておる・・・そこで、外部の者の意見も聞きたいと思うし、実際に関白とも仲の良い蔵人殿の意見が聞きたいという訳じゃ」


仲が良いのは良いのであろうね。

最近はその仲も少しキナ臭い様にも思えるけど、俺の息子の羽(羽長)とお猿さんの娘の恵ちゃんが結婚したばかりだ。


「そうですね・・・天下人に逆らっても先が無いと思いますが?」


よく言うよね~俺は理不尽だと思うと逆らうと思う。

確かに守る者も多いし、長い物に巻かれるのも重要だと思うよ。

でも、理不尽を理不尽のままにしていると相手はつけ上がるし、良い事など無い。

結局は侮られない様にしつつ相手と友好的に付き合うことが重要だと思う。


「左様ですな・・・」

「少なくとも名代の使者を出す位はしないと潰しにかかると思いますよ」


俺の知る史実では小田原征伐が起こっているし、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部という大領地を持つ北条家をそのままにしておくとは思えない。

もし仮に生き残ろうと思うならば、お猿さんの命に従うか、何かしら上手い事をしないと無理だと思うけど、俺の頭でその上手い事を思い付き提案することなど無理な話だ。

それは解っているだと?久しぶりの天の声さんが厳しい・・・いや、何時もの事か・・・


「やはり・・・」


ああ、そう言えば、北条氏直の嫁さんは家さん(徳川家康)の娘だったな。

そして、親戚として説得するとか何とかだった気がする。

詳しい事は前世記憶で覚えていないが、それが原因で氏政は実質的にも隠居をすると宣言するとか何とかだったような?

まぁどうするかを決めるのは本人たちなので成る様にしかならんけどな。


「暗い話はそれ位にして、南蛮の話などお聞かせくだされ!!」


そう言って場を和ませようとして来たのは(北条氏照)だった。

急ぎやって来て歓迎の宴に参加してくれた。

そして、その事で場は和、その後は楽しい酒が飲めた。


〇~~~~~~〇


小田原征伐のカウントダウンが始まる様な重要な時期がこの時期だったと思われます。

聚楽第行幸という一大イベントを利用して諸大名に京に来てこの行幸に参列するようにと豊臣秀吉は関白の名で招請しました。

実質的に命令です。

従わない者に対しては攻め滅ぼすという裏の意味を込めて招請しました。

実際、秀吉から氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政はこれを拒否したと云われています。

その事が原因で、京では小田原征伐が囁かれたことで諸国に風聞として伝わったそうです。

北条家も様子を見る為にそれらの噂を集めた様で、「京勢催動」という報告書が北条家首脳陣に報告されたそうです。

危機を感じた北条家は臨戦体制を取るに至ったとも云われます。

徳川家康は娘のとく姫が氏直の妻でしたので親戚として説得したようで、北条家に対して起請文まで書いて説得に当たったようです。

起請文の内容は、「家康が北条親子の事を(秀吉に)讒言せず、北条の領国を一切望まない」「今月中に兄弟衆(一門の誰か)を派遣する」「豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる」という3項目だったと云われます。

結果、氏政の弟の北条氏規が名代として上洛し事なきを得た様で、一時的に北条攻めの機運は治まったそうです。

しかし、名胡桃城奪取事件というものが起こり、小田原征伐は起こりました。

因みに徳川家康は娘のとく姫ですが、小田原征伐の後、秀吉の肝煎りで池田輝政と再嫁しています。

池田輝政は姫路城を現在残る姿に大規模に修築した人物として有名で、松平姓を徳川より賜り、松平播磨宰相と称された人物でもあります。

姫路城からの由来で姫路宰相とも言われました。

宰相と言うのは正三位参議に叙任されたことから来ており、この参議というのは徳川政権となってからは徳川一門以外の大名での任官されたのは池田輝政が最初だったそうで、その当時は徳川一門として見られていたようです。

因みに因みに、彼は織田信長の重臣であった池田恒興の次男で、石田三成襲撃事件の七将の一人としても有名です。

彼の死因は中風と云われており、前話で語った大久保長安と同じく家康ご自慢の烏犀円を遣わしているそうです。

実は1611年の二条城会見(徳川家康と豊臣秀頼との会見)に同席した一人で、ある種の徳川・豊臣の橋渡し役的な立場でもあった様なので、亡くなった際は豊臣秀頼やその重臣らが輝政の死を聞いて愕然としたと云われています。

可成り優秀な人物であった様で、秀吉は当初、督姫は督姫でも浅井家の遺児である督姫と婚姻させようとしたようです。

しかし、秀吉が家康に相談したところ、「督姫(浅井)は自分の息子の秀忠に嫁がせたいので、輝政には自分の娘(督姫)を嫁がせたい」と家康が言ったことでそのようになったという逸話が残っています。

また、口数の少ない寡黙であまり物事にはこだわらない性格の人物だったようですが、下の者に寛容で信賞必罰しんしょうひつばつを心がける人物と称されるような人物だったようです。

ある逸話が残っており、家康の娘の督姫を娶った際に小牧・長久手の戦いで父の恒興を討ち取った徳川家古参の武士、永井直勝に面会を所望し、父親の最期を話させたと云われています。

その時、直勝が5,000石の身上だと知ると不機嫌となり「父の首はたったそれだけの価値か」的な事を言い、後に輝政は家康にこの件で加増を進言しています。

直ぐに永井直勝は1万石の大名となっていますので聞き届けられたのでしょう。

次回、新キャラ?

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