第309話

先年、大坂城ににてイエズス会宣教師ガスパール・コエリョは豊臣秀吉と会見し、その会見の結果、キリスト教の布教の許可証を発給される運びとなった。

仏教勢力への許可より優遇されていたとも云われる。

日本では古くは飛鳥時代から仏教が根付き、本地垂迹説ほんちすいじゃくせつの考えを基として、神仏習合という日本の土着信仰である神道とインドより絹の道シルクロードなどと呼ばれる広大な砂漠を越え、更には海を渡り日本に伝来した仏教が融合したことで、宗教としては国教となり政治にまで口を出す事も多々ある者たちの抑え・牽制として外圧を利用しようとして優遇したのかもしれない。

それに、秀吉はこの会見時にポルトガルの大型軍艦を2隻欲しい事を告げている。

更に、大陸への侵略を念頭に征服が上手く行けば中国(唐)もキリスト教の布教を許可することを明言したとも云われる。

この時点では天下人である豊臣秀吉とキリスト教布教の為に日本後にやって来たイエズス会の関係は良好だったと言って良いだろう。

しかし、一年足らずでその状況は一変したのかもしれない。


「お主たちはどの様な了見でこの国の民を奴隷として外つ国に連れ去るのだぎゃ?」

「いえ、私どもではなく商人たちが・・・」


九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉はイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを呼びつけ問質していた。

コエリョは日本準管区長(イエズス会日本支部の代表)に就いていたことから、会を代表して会見に臨んだが、一年ほど前に会った秀吉とは思えない程に圧も強く戸惑いを覚えたが、詰問を受けて更なる混乱に陥る。


「商人たちが?」

「いえ・・・」

「あの者たちはその方らの信徒ではないのか?」

「はい、信徒で御座います」

「では、その信徒どもに命じて日ノ本の奴隷にされておる民を解放するように致せ!!」


この時代の西洋人の価値観としては奴隷も所有者の大事な財産で、それを解放させるといういのは財産を奪う行為に等しく、コエリョがそれを商人たちに言って聞かせても応じることは無いであろうことは、言われた瞬間に無理という考えに思い至り、この国の支配者の命でも叶えることが不可能な事であると解ってしまったがゆえに言葉に苦慮してしまった。

この時、秀吉はコレリョに対して四カ条の詰問をしたと云われる。


一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか?

一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか?

一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか?

一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか?


そんな詰問がなされたと云う。


「答えられぬか・・・まぁよい、追って沙汰を下すが、そち達は日ノ本より追放じゃ」

「お、お待ちください!!」


秀吉はそう告げると一瞥すらせず会見の場を去った。

実は秀吉を怒らせないという条件を満たさないのであれば、コレリョは答えようと思えばこの詰問に答えられた。

しかし、もし答えていたら、首と胴が泣き別れしたのは間違いないだろう。

その後直ぐにコレリョ宛に秀吉の書状が届く。

11カ条の覚書で、後にこれを「バテレン追放令の原文」とも呼ばれた。

内容には宣教師が中国・朝鮮・南蛮に日本人奴隷を売っていたと凶弾するものも有ったと云う。

宣教師とポルトガル商人を同一視していたかは不明だが、その内容から、一向宗の様に宣教師が信徒に命を下し従わせることが出来ると勘違いしての事だったのかもしれないが、

長崎がイエズス会領として寄進されており、更には要塞化され、キリスト教信者以外の者

たちが奴隷として海外に連れ去られている事などを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らによって報告されたことで余計に苛烈な対応になったかもしれない。

この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂に在ったイエズス会の教会や病院、学校などの関係施設が次々に破壊されるに至った。

しかし、日ノ本で一カ所だけその災を全く受けず平常運転であった場所が存在した。


★~~~~~~★


「長さん!何とかなりませんか?」

「何とかとは?」

「関白様に追放令を解いて頂く手助けをして頂けませぬか?」


日本来た宣教師のトップたちが丸目蔵人を頼り、大平神社に併設されている大平教会に集まり、話し合った末に蔵人を頼りお願いに来ていた。

特に仲の良いスメ・デ・トーレスにその交渉が一任された。


「トーレスさん・・・俺の立場は浪人で、官位官職は持ってるけど形だけですよ?」

「しかし、関白様と懇意と聞いております」

「まぁね~・・・でもね・・・お猿さん(豊臣秀吉)が無理難題を言っているのは理解しているけど、俺も奴隷には反対の立場なんだよね」


そう、お猿さんの言っているのは結構な無茶振りだ。

そもそもの話、日本にも奴隷制度的に身売りという物が存在し、人の売り買いは行われて来た。

戦に負けた側の領民が身売りされるのは戦国あるあるで、多くの支配者階層の者たちはその領民たちを売ることで戦費を賄ったりもしていた。

ここに外国から買い手が現れた。

そりゃ売れるなら売るよね~国内の者に売るより少しでも高値を付けてくれるなら喜んで売るだろう。

売る者にとって少しでも高く売れるというのは正義なのだ。

お猿さんが事を知り、「奴隷として連れて行った自国民を返せ!」という気持ちは前世で奴隷制度など皆無の環境で育った過去のある俺は理解できる。

しかし、それは自分がもう一方の立場に立てば変わって来る。

例えば、ある製品を買ったとしよう。

その当時は誰も咎めることなく取引されていた商品だとしよう。

しかし、権力者が一方的に「その製品は違法だ!!」と言い始め。

「過去に取引した者も処罰する。処罰されたくなければその製品を指し出せ!!」と言って来たらどうだろうか?

横暴の極みだな。

この製品というのが人だから人権的な事を考えると権力者に正当性があるように感じるかもしれないが、そもそもの話、「買い戻すから連れて参れ」というのが本来では無いだろうか?

その点に関しては一方的だと思うが、買い戻すなどというのは予算的にも厳しいだろう。

買われて行く時には二束三文でも、移動したりすればコストも掛かるし、人は食事をしないと生きていけないのでそういう面も含め維持費が掛かる。

それら諸々の諸経費を加えれば買い戻す時にとんでもない金額となっていてもおかしくない。

それを無償で行えと言って従う者は居るのか怪しいものだ。

俺は売られた人々の事を憂いて買戻しをした。

勿論、商人たちに損はさせないように考慮したので商人たちが買った金額以上の金額を支払っている。

それでもこの時代の人の命は安い様で、500人規模の購入なのに俺の貿易1回分の儲けで十分に変えた。

いや、十分の一の安値で買えたとすら思っている。

オラが国の為政者トップが外国の商人・宗教関係者に無茶振りしているのだが・・・

一応は俺的に日本人奴隷はね~という前世価値観在りつつも、嫁さん含め多くの奴隷購入をしている。


「少しだけ・・・掛け合ってみましょう」

「何卒宜しくお願い致しまする」


流暢な日本語で外国人のトーレスさんが日本式お辞儀で俺に頭を下げた。

悩ましい問題だが、ダチであるお猿さんが将来的に外国で独裁者・宗教的差別主義者と思われるのも何だか納得できないので、少し、ほんの少しだけ意見することとした。


〇~~~~~~〇


伴天連追放令の話となります!!

さて、秀吉の政策の中でも伴天連追放令は注目の政策となります。

この政策の根幹には秀吉がキリスト教が第二の一向宗になる公算を懸念していたなどとも云われ、キリスト教がスペイン・ポルトガルのアジア支配の先兵を作る為の宗教洗脳の様に感じたのかもしれません。

では、ここに至る経緯を説明すると、九州平定後、秀吉は博多を経由して筑前箱崎に滞在し、九州の仕置き(戦後処理)を行っていたと云われます。

そこに天台宗の元僧侶である施薬院全宗らが秀吉の面会を求め陳情して来た際に、この奴隷取引について聞き及んだと言われています。

それを聞いた秀吉は大激怒して、この時、イエズス会の日本準管区長に就任していたガスパール・コエリョ宣教師を呼び出し詰問したと言われています。

南蛮貿易の益を捨てたくはないので当初は詰問と言っても最初から厳しい言では無かったようですが作中では最初から怒りを露わにしている様にと変えました。

実際には、秀吉はコエリョに対して「ポルトガル人たちが多数の日本人を買い漁り、よその国に連れて行くのは何故であるか」と聞いたと言われています。

コエリョはその問いに対して「ポルトガル人たちが日本人を買うのは、日本人が売るからであって、自分たちはこれを大いに悲しんでいます。防止する努力はしたが力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒(仏教徒の事を言いたいのだと思います。)が奴隷を売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることを止めるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるでしょう」と言ったそうです。

まぁ事実です。

売る方が供給を止めるというのは確実ですから言い分としては宗教家らしいと思いますが、秀吉は納得出来なかったようです。

その後、状況を知る為に秀吉は視察したそうなのですが、見た光景と言うのは多くの日本人が奴隷として売られ、船に乗せられて行く様でした。

日本人が外国の商人に家畜の様に扱われる様に秀吉は驚いて再度コエリョを呼び詰問したそうです。

この時の詰問ではコエリョは答えに苦慮したようですが、日本人奴隷が売買される全ての原因を日本人にあるというスタンスであったからなのかは判りませんが、秀吉は怒り、伴天連追放令を出すことに繋がって行きました。

では、奴隷市場はそれ程盛況だったのか?

実は九州征伐が奴隷市場の活性化の原因の一端とも言えます。

九州征伐は前にお話しししましたが、島津征伐とも言える物で、大軍で島津をやり込めました。

島津はこれから攻めよせるであろう豊臣軍に対応する為の急ぎの軍資金の捻出の為、捕虜や捕虜とした他国の領民などを肥後で売ったそうです。

しかし、この時の肥後は大飢饉の影響で他人を養う余裕はなかった為、付き合いで買わされた者たちは平戸方面に売ったそうです。

平戸方面に売られても同じく日本人は養う余裕などなく、頭を抱えた事でしょう。

特に大量に出回った身売りされた人々は日本での引き取り先が無かった為、値崩れし二束三文の価値になり、格安でポルトガル商人たちに売られることとなります。

平戸の方でその商人たちに売れると知ると島津家もそれに乗っかって残りの人々も売り払い戦費を手に入れました。

この流れは近隣諸国に広がり、口減らしで子などを売りに来る者増えたそうです。

そして、親や妻すら売りに来る者も居る程に市場が活性化したそうですが、その影響は九州征伐が終わっても続きました。

その様子を秀吉が見た訳です。

しかし、そんな日本ですが、文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮国との戦争では、多くの朝鮮人が売買されました。

日本軍は現地に城等を築く為に現地人を奴隷の如く使用し、その後は奴隷商に売ることで戦費も捻出したようです。

秀吉は大陸には行っていませんので状況は知っていた如何か・・・自分の所の国民はOUTで、他国はOKって言うのもその時の時代感なのかもしれませんが、何だかな~といった気持ちはありますが、日本でも戦では基本「乱取り」が認められていたのですから、認めないなら別に報酬を渡すなりしないと防げませんから、秀吉も見て見ぬふりかましていたんじゃないかな~と思います。

しかし、実は特に日本が特殊なのではなく、近代まではどの国でもそれが常識なのですけどね。

人権問題はあまり突っつくと時代が時代でも問題視されますので、ここまでで!!

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