第269話

時は少し戻り、日ノ本は切原野、藤林長門守へと書状が届く。


主、蔵人様より便りが届く。

蔵人様の新しくお生まれになった子供たちへの慈しむような賛美する文章が長々と綴られたいた。

そして、最後に依頼が書き示されていた。

内容としては西班牙スペイン葡萄牙ポルトガル英吉利イングランドの貴族籍を得たという事に始まった。

流石は蔵人様と言うべきか、王に気に入られたのであろう。

その恩恵の一つとしてそれぞれの国で5隻の無関税の権利が与えられたと言うものだ。

それに伴い、10隻の貿易船と護衛艦を10隻の計20隻程度の船団を組織するので、その差配をする長を探して欲しいとの依頼であった。

勿論、南蛮まで航海することを前提にと言う事である。

また、その航海に行きたいという船乗りも50人程集めて欲しいとのことだ。

行き成り20隻の船団、それも南蛮の最新の船を用意してとの事なので魅力はあるだろうが、果たしてそのような船団を率いるに足る人材が見つかるかと試案をしていると、妻のお弓が話し掛けて来た。


「あなた、難しい顔をされて如何されたのです?怖い顔が更に怖くなってますよ」

「いやなに、蔵人様より文が届いてな」

「あ~何かご依頼事ですか?」

「ああ」


そう言って読み終わった蔵人様からの便りをお弓に渡す。

お弓は「まぁ!三人も可愛らしいお子様が」「お戻りが楽しみですわ」等々の蔵人様のお子様賛美を読みながら感想を漏らす。

そして、件の案件に差し掛かると何やら考えだす。


「あなた、九鬼水軍のほら」

「九鬼とは志摩のか?」

「はい、あそこの家は何やら揉めていませんでしたか?」

「確かにそのような報告があったな・・・」


お弓の言おう九鬼水軍の事とは、叔父・甥が水面下で争っているという話だ。

九鬼浄隆きよたかと言う志摩で頭角を現した地頭が居た。

彼ら一族は志摩の海を中心として活躍する海賊であった。

その周辺には他にも海賊を生業とする者たちが居り、志摩七島党等と呼ばれていたが、九鬼の台頭で圧され始めた。

志摩七島党たちは危機を募らせて行き、話し合った結果、今は亡き伊勢の国司・北畠具教殿を頼ることとした。

北畠具教殿の力により九鬼水軍は窮地に陥って行ったという。

そんな中、当主であった九鬼浄隆きよたかは戦の中で病に臥し亡くなった。

今から大凡三十年程昔の話である。

窮地に陥っている九鬼の当主になったのはまだ幼い息子の澄隆すみたかであった。

そして、叔父の嘉隆よしたかが後見する形となった。

しかし、実際にはそんな生易しいものではなく、嘉隆は浄隆の子・澄隆と共に朝熊山へ逃亡して命を残す位しか出来ない程に追い込まれた。

その後、転機が訪れる。

嘉隆は故人・織田信長様の配下の滝川一益殿の仲介により、織田家に仕える事となる。

織田家が北畠具教を攻めた時、嘉隆は水軍を率いて北畠の支城を陥落させるなどの活躍をし、それが認められ正式に織田家の家臣団の一員に成れたという。

この時の活躍で九鬼家は旧領復帰され、織田の水軍を担うまでに成長して行った。

ここで問題になるのが、九鬼家の当主は澄隆である事である。

叔父である嘉隆は織田家で頭角を現し九鬼家の実権を握る様になってきた。

逆に澄隆は名ばかりの傀儡とされた訳だ。

澄隆が幼き内はまだよかったが、時が経てば人は成長する。

その事が九鬼水軍の火種として燻っているという。


「して、お弓は何方を口説くと良いと思うのじゃ?」

「そうですね・・・澄隆様が宜しいかと」


諜報部からの報告では年々叔父・甥の仲は悪くなるばかりで、何時事が起こってもおかしくないとの事であった。

早速とばかりに使いを澄隆殿に送る事とした。


「何と!!毒を・・・」

「はい・・・」


何という事だろうか・・・使いを秘かに送った矢先に澄隆殿が何者かに毒を盛られたという。

何者か・・・恐らくは・・・

幸運なことに澄隆殿は使いの者の毒消し(神饌)で命が助かったは良いが、危険を感じ、何と驚いたことにここ切原野に落延びて来たという。


「お初にお目に掛る、九鬼左馬佐澄隆と申す」

「某は藤林長門守保豊と申す。丸目二位蔵人様にお仕えして御座る」


(※九鬼澄隆の官名調べてみたのですが、解らなかったので「左馬佐」としました。叔父の九鬼嘉隆が右馬允うまのじょうを名乗っておりましたので、「左馬佐」としました。実際の歴史では九鬼澄隆の官名は別かもしれませんがこの物語では「左馬佐」とさせて頂きます。)


左馬佐殿(九鬼澄隆)は助けられたことに対しての礼と保護を申し出られた。

早速とばかりに船頭の件を打診すると大喜びされ、お受け頂ける事となった。

これで主・蔵人様へ良きお返事が出来そうだと胸を撫で下ろしつつ、九鬼嘉隆殿へ文を認める。

その後の知らせでは、九鬼澄隆の死去により九鬼家の当主が嘉隆殿になったことを伝え聞く事となる。

そして、九鬼澄隆は日ノ本に居れば命の危険もまだあると判断し、急ぎ南蛮へと旅立って行かれた。

後は蔵人様にお任せしよう。

恐らくは良い様にして頂けるはずじゃ。


後々、丸目蔵人より改名され十鬼とき主馬しゅめ長澄ながすみと名を変えた彼は後に日ノ本一の海将と呼ばれるようになる。

彼の船団を襲った海賊は悉く海の藻屑となり、「mare daemonium海鬼」等と言われ多くの無頼の者たちに恐れられることとなる。

日ノ本だけに留まらず、多くの国々の人々、特に海賊たちにその名を知られるようになるが、これは先の世で起こる別の話。


〇~~~~~~〇


船団の長は九鬼澄隆改め十鬼とき主馬しゅめ長澄ながすみ決定!!

さて、実際の九鬼澄隆は不遇過ぎて可哀想になる程です。

「光と影」って言葉ありますが、叔父である九鬼嘉隆が活躍すればするほど日陰者になって行ったようで、1584年に田城(地名です)で死去しておりますが、死因は病死とされておりますが、一説に嘉隆が家督を奪い取る為に澄隆を毒殺と囁かれています。

それに比べ九鬼嘉隆は華々しい活躍で志摩国を支配し、3万5,000石の禄を得て、⿃⽻藩藩祖となりました。

織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍と言えば彼の名が出る程で、信長配下時代には第二次木津川口の戦いの戦勝に貢献したことが最も有名です。

この海戦で本願寺の孤立化と織田軍の優位は決定的になったと云われており、以後は嘉隆は堺に駐留していたと云われます。

本能寺の変後は織田信雄(信長のバカ息子)に仕えたようですが、小牧・長久手の戦いの際に滝川一益の誘いに応じて羽柴秀吉陣営に寝返りをしております。

まぁ滝川一益は九鬼嘉隆にとっての大恩人なので仕方ないですね。

その頃には権力基盤が完全に出来上がったからなのか、九鬼澄隆の病死が届けられ、九鬼家の家督は嘉隆が継ぎました。

彼の最後は意外な幕切れで、関ヶ原の戦いが起こると嘉隆は西軍に与し、息子の守隆は東軍に与し家の存亡を回避しました。

西軍が負けたことで嘉隆は逃亡しますが、負け側の武将たちは家康たちから仕置きされる立場となります。

勿論、仕置き=ほぼ切腹なのですが、息子の守隆は徳川家康と会見して父の助命を嘆願したそうです。

守隆の功績の大とされこれが了承されたました。

しかし、九鬼家の行く末を案じた家臣が独断で嘉隆に切腹するよう促し、これを受け入れた嘉隆は自害したそうです。

何とも言えない幕切れですが、結構こういう話ってあるある話だったのかも?しれませんね。

まぁその独断で提案した家臣は・・・

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