第243話
個人の移動と軍の移動ではスピードが大違いだね。
流石に軍の移動には時間が掛かるんだよね。
しかし、眼下に広がる光景はその常識を覆す光景だった。
鞆行って戻って来て隆さん(小早川隆景)と話してから伊賀に向う俺たちの眼下には市民マラソンの様な光景が広がっていた。
秀吉の中国大返しって浪漫だよね~とか思っていたけど、実際に上空から見ると前世の記憶で見た市民マラソンのようだ。
応援の旗でも振って沿道に人が溢れていたらまんまマラソン大会だよね。
俺にはランナーが兵士に変わっただけの様に見えてしまう。
その兵士も鎧や武器を持たずひたすらに走っている光景はマラソン大会さながらで、もしかすると順位で褒美でも出すのかも?とか思う位必死っだ。
全ての者が必死な顔で順位を争う様に走り続けている。
多くの者が暑いのか上着を下ろし、上半身裸でマラソンをしている状態だ。
先頭集団辺りの者を見て周りはギョッとしているようだし、農作業をしている農民も手を止めてその光景を見入っている。
上空の遠方からなので表情で思考までは解らないが、その走者たちをボーと眺めている人々を見れば驚いて固まっているとしか考えられない。
え?近くでもお前は思考を読めないだろうと?・・・やかまし!!
まぁ驚くよね~戦国時代では普通と言うか絶対に今まで見なかった光景だよね。
給水所ならぬ補給所?みたいな場所が一定間隔で設けられているようで、兵士はそこに到着したものから順に小休憩を取っているようだ。
前世で市民マラソン等を見た事ある俺から言えば、「あ~市民マラソンみたい」位の感想だが、美羽・千代は初めて見る光景で物珍しいのか「凄い」とか「面白い」とかやれ「頑張れ」だとか色々な感想を述べあっている。
美羽・千代が興味を持ったので上空から結構な時間観戦していたよ。
見つからないようにだって?大丈夫、大丈夫!千代から習った遠見の法で見ているから信じられない程遠くから見ている。
またの名を千里眼と言うらしいけど、5㎞位離れていても遮蔽物が無ければある程度把握できる程度には物が確認できる優れもの!!
流石は仙術だよね~便利だ。
お!お猿さん(羽柴秀吉)発見!!
これも仙術なんだけど、読唇術でお猿さんの喋っている内容確認。
「もう少しで休憩所じゃ!!今日中にはもう少し進むから休憩所に入り次第休息を取っておれ!!」
うん、馬の上から偉そうに叫んでいるようだ。
いや、偉いんだったな・・・
この軍団の長が自ら陣頭に立って皆を鼓舞している姿と言う事が素晴らしいのであろう。
その姿を一兵卒に至るまで見せて軍の団結力を高めてる?
う~ん、戦とか数回しか戦ってないのでそこら辺がよく解らん。
俺の戦は殆どが蹂躙のイメージしかない・・・
兎に角突っ込んで斬り捨てるが基本だ。
まぁ負け戦すら蹂躙してた俺の軍は個人が強いんだろうけど、軍としては如何なの?
そういえば、国元では評価は低かったな・・・まぁ脳筋による脳筋の軍隊だったな・・・
多分、俺の脳みそが戦向きではないのかもしれないな。
指揮らしい指揮をせず武力一辺倒、まさに猪武者とは俺の事を言うのかもしれないな。
その後、美羽・千代が観飽きるまで観た後に伊賀を目指した。
伊賀の手前で人に見つからないように降り立ち、伊賀入りした。
伊賀に入って少し進むとお出迎え。
遠方より監視していたのだろうね~
「お~蔵人様!よう来られました!!」
「
「わははははは~この通りぴんぴんしております」
「何よりじゃ。ところで、家さ、徳川殿は居るか?」
「いえ、半日前に伊賀を出られましたじゃ」
「そうか~一足違いだったか」
「追われますか?」
「いや、今日は伊賀で世話になろう」
「是非そうしてくだされ!!儂も倅も皆も喜びます」
う~ん・・・何か伊賀に来るたびに大げさに歓迎されるんだよね~
特に何かしたという訳ではないと思うけど、三爺も元々は「殿」付けで呼んでいたんだけど、「一族が配下なので呼び捨てにてお呼びください」とか言われたから呼んでいるんだけど、あんまりだからとか思って最初冗談で「三爺」と呼んだらそれが定着しちゃった・・・
まぁ本人も満足の呼び名なので今後とも「三爺」と呼ぶ。
忍者ってもっと影の者ってイメージあったけど、長門守の所の藤林家もそうだけど、百地家も明るいんだよね~
明るいのは問題無いけど、俺の事を崇めるのはちょっとだけでもいいから止めて欲しい・・・
忍者の訓練に興味があり一度見学させて貰ったんだけど・・・
「丸目様の言うことは絶対!!神の指示だと思え!!」
「丸目様の天下を目指す為にはこれ位の事は湯を沸かす程度で熟せ!!」
等々の熱き声援が飛び交った時には引いたぞ。
もうドン引きだった・・・
あれ以来、俺は訓練の場に立ち入らないようにしている。
勿論、「俺のいう事絶対」とか「神の指示と思え」とか「天下目指す」とか根も葉もない事や崇め奉る様な洗脳教育は止める様にと言い含めたけど・・・難色示された・・・
一応は変なカルト集団にならないように目を光らせているが、訓練場には近付かないよ。
「
「いや・・・丹波守、何時も言うけど殿は止めて」
「いえ、殿は殿です!!」
人一倍熱い男、百地
本来は百地家を召し抱えるつもりなど毛頭無かった。
昔になるが手打ちの酒の席で「忍びの技はもっと評価されるべき」とか「忍びこそが次の世の魁」とか何か調子乗って色々言ってたら何だか感動されて召し抱える事となった。
既に藤林家が俺の下には居るから遠慮したんだけど、長門守も「配下にお加えくだされ」とか言うものだから加えたんだけど・・・熱いよ!!熱すぎるよ!!
俺以外は納得ずくの様だから配下にした。
そんな経緯がある。
「一夜の宿を借り受ける」
「一夜と言わず何時までもご逗留くだされ!!」
目がマジだ・・・明かにお約束の方便ではなく、マジで言っている熱気がひしひしと伝わる。
★~~~~~~★
久しぶりの伊賀へのご来訪じゃ、ここは最大限おもてなしせねばなるまい!!
早速、配下の者たちに相談し今日の夜の献立を吟味する予定ぞ。
伊勢より取り寄せ海の幸を用意すべきか、いや、用意するべきじゃ!!
勿論、山の幸は伊賀の地物で厳選した物を用意させよう。
海の幸を急ぎ手配せねばならぬな。
伊勢へと配下の者を一っ走りさせれば新鮮な海の幸が手に入ろうて。
う~ん、美食の殿に今夜の酒の肴として何を差し上げるか・・・悩ましい、本当に悩ましい事ぞ。
しかし、その考える事が楽しい気事じゃ。
おお!!そうであった!!急ぎ里の者に伝えて用意せねばならぬな。
殿の来訪は皆が喜ぼう。
今日は祭りじゃ!!
今は昔となるが、殿の配下となる以前は我が一族も極貧に喘いでいた。
その日の飯にも困り、山野の草を雑炊にして飢えを凌ぐ日々であった。
配下の石川が殿の奥方の一人真里様に害をなす手助けをしたことで藤林家と対立すると思いきや、殿はその寛大な心で我らを許したもうた。
藤林家の者より知らされた時は、一時、一族郎党に至るまで死を覚悟した。
藤林家が隆盛を極めていたことは既に忍びの世界の常識となっておった矢先の出来事じゃ。
その当時、ありえないと儂は思うた。
数年前までは同じ様な状況、いや、藤林家の方がまだ酷かったやも知れぬ。
そこから瞬く間に藤林家は成り上がって行った。
羨ましいと思いつつも大名ではなくただの国人の倅に仕官した?馬鹿か?馬鹿なのか?と思うた。
確かに噂に絶えない人物で金払いも良さそうだとは聞いておったが、大名家等ではなく官位は持つが所詮は国人の倅に仕える?ありえないと思うたものだ。
雇われたのなら解るが仕えると言うのが信じられなかったが、あのしっかり者のお弓殿も賛成だったと聞く。
しかし、話してみれば長門守が酔狂で仕えたのではなく、心酔して忠義を持って仕えておることが一瞬にして理解出来た。
殿は「忍びの技はもっと評価されるべき」と言う。
そんな事を言う者は生まれてこの方見たことが無い。
うわべの言葉かとも疑った。
勿論、忍びの者たちは皆そう思っているが、忍び以外から真剣にそのような事を言われるとは・・・思わなんだ。
忍びが今後どの様な事をしていけば人々の評価を上げて行けるかを懇々と話された。
熱い!心が焼ける様に熱い!!
儂は聞きながら咽び泣いたことを今でも忘れない。
「殿!!」
「いや・・・丹波守、何時も言うけど殿は止めて」
「いえ、殿は殿です!!」
仕方ないな~と言う様に諦め顔でそういう殿。
ここは曲げられぬ!!
長門守の様に「蔵人様」と呼ぶのも考えた。
しかし、仕える主のことは是非とも「殿」と呼びたい。
一種の憧れじゃが、その願いが叶った。
あくまでも儂の我儘じゃが、殿は仕方ないと思いつつ少し文句を言うが、命令はされない。
命じれば何時でも改めるというにだ。
「一夜の宿を借り受ける」
「一夜と言わず何時までもご逗留くだされ!!」
一夜ではもてなし切れぬ。
せめて1年、いや、1ヶ月、いや、十日はご滞在願いたいという意志を込め述べたが伝わったであろうか?
しかし、それは我儘と言うものであろう。
忙しい殿を何時までもこの田舎に留め置くのは罪じゃ。
言葉で伝えたが殿に従おう。
〇~~~~~~〇
秀吉たちを追い越して伊賀に到着。
百地丹波守が出て参りました!!
百地丹波は百地新左衛門正西とも言います。
丹波と言うのは前話でも少し話しましたが丹波守と言う官職名由来のもので、国人なので正式な官職ではなく詐称のものとなりますが、百地家の惣領が代々受け継ぐ官職名だったようです。
百地家は鎌倉時代(14世紀位)に伊賀国黒田荘で悪党として活動した大江氏一党が南下して竜口にまで進出した一族と云われております。
戦国時代頃には伊賀の地の地頭になっていたと云われます。
伊勢国司北畠家に仕えていた様で、忍者と言う側面も持ちつつ国人として北畠家に仕える武士と言う側面もあったようです。
百地丹波の名を一躍世に広めたのは天正伊賀の乱だと云われています。
この乱は伊賀惣領一揆とも呼ばれます。
織田家と伊賀十二人衆との戦で、武士と忍者の戦いなどとも呼ばれます。
事の発端は北畠家の養子となっていた織田信長の次男・織田信雄が伊賀を領国化しようとしたことが始まりです。
天正伊賀の乱は一次・二次の2回あり、一次では石山本願寺との抗争が激化した織田信長が一旦手を引いたことで一時終結します。
しかし、ある程度落ち着いた時期に伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た伊賀国の裏切り者が現れたことで再侵攻が行われました。
二次では再び織田信雄を総大将に5万(10万とも云われます)の兵で伊賀国に侵攻したようです。
丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷、堀秀政、等々、他にも多くの優秀な武将が脇を固め万全の態勢で織田軍の侵攻が開始されました。
この二次では織田軍が勝利しましたが、非戦闘員含む約3万余が殺害されたと云われます。
この当時の伊賀の人口が9万人程だったと云われるので大凡1/3の人々が殺されており、織田信長が行った三大大虐殺の一つに数えられる程のものとなりました。
ちなみに、長島一向一揆(門徒約2万人虐殺)、越前一向一揆(約2千名討取り、1万2千名が捕虜となるが殺害される)が残り2つです。
この作品では一次はありましたが、二次は行われませんでした。
そこら辺も書こうかとも思いましたが、蛇足と思い書いておりません。
実際には藤林長門守は主人公と共に行動しておりましたのであまり書く意味無いと判断した次第です。
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