第239話

話は上手く纏まったようだ。

あの後、黒官さん(黒田官兵衛)と恵瓊えいけい和尚は何故か意気投合して一刻程話し込んでいたそうだ。

和議の話の行方にヤキモキしていたお猿さん(羽柴秀吉)が気になって様子を見に行けば、和睦交渉とは関係ない雑談で大盛り上がりしていたので「お主ら双方に悠長な事をしている場合では無いであろうがー」と言って窘めたとか。

何をそんなに語り合うことがあったんだろうね?

俺があの場に行った時は雰囲気から険悪な感じが漂い、交渉決裂待ったなしと言った感じでお互いに親の仇でも見るような目で睨み合っていたのにね。

多分、そう見えただけ?まぁいいけど。

何故、意気投合したのかは知らないけど、黒官さんが恵瓊えいけい和尚をそれはそれは丁寧に送り出したと聞いたし、順調?

まぁ交渉は上手く行くと俺は確信していたけどね。

お猿さん(羽柴秀吉)も秀さん(羽柴秀長)も首尾よく話が進んでいると黒官さんが言った事でホッと胸を撫で下ろし、彼を褒めちぎったけど、何故か黒官さんは「丸目殿の御蔭です」と言った。

御蔭とか言う割には無表情で言うものだから本当に俺の御蔭と思っているのか疑ってしまったよ。

まぁ黒官さんは名軍師だし、ポーカーフェイスと言うやつで感情を消しているのだろうけどね。

やはり出来る男は感情すらもコントロールするんだね~凄い凄い!!

やっぱり交渉とかする人は日頃からそんな感じで頑張ってるんだね~俺の様な付け焼刃の交渉術とは訳が違うと思い脱帽ものだよ。

まぁ感情を殺してとか俺には無理だと悟ったよ。

さて、毛利の方でも大急ぎで城主たちの意志を確認したようだ。

恵瓊えいけい和尚が高松城の城主さんに確認したところ、「毛利の為なら」と言い切腹OKを言ったそうだ。

うは~The武士だよね~

それはそれでかっこいいとは思うけど、俺は切腹とか絶対しないぞ!!

この結果を受けて、お猿さんが俺に言う。


「上様(織田信長)の自害を毛利方に漏らされたと聞いた時には長さんの阿保めと思うたがー、流石は長さんじゃ。それもこれも全てが計算の内であったようじゃな」

「お、おう・・・そんなの当たり前だろ~(汗)」


オフッ・・・計算?何それ美味しいの?

俺は何も考えて、いや、一応は誠実に事に当たろうと思っての行動だったけど・・・まぁいいか~結果オーライなのが俺の座右の銘だ。

え?行き当たりばったりだろだと!!・・・考えるより産むが易しと言うだろ?世の中なんてそんなものさ。

下手な考え休むに似たりとも言えるな。

物事を複雑に考え、下手な駆け引き考えるから時間が掛かる。

物事何て物はそういうものなのよ~

調子乗ってるな~だと!おう、ノリノリよ~

まぁ羽柴勢に悠長な時間の余裕はないと思うけどね。

速攻で京に戻れば戻る程に時は味方になるからね。


「長さん、非常に助かった。この礼は必ず!!」

「おう、秀さん、期待して待ってるよ」

「はい、兄者(羽柴秀吉)も長さんのご苦労は解っておりますからきっと大きく報いるでしょう」


うは~凄い感謝されてる。

何かそこまで苦労していないのにここまで感謝されると罪悪感湧くわ~


「ところで、この後は如何されるので?」

「そうですね~和睦を見届けたら会っておきたい方とか毛利領に居ますし、少しそちらに行って来ますよ」

「ほう、ではその後にでも京に戻られるので?」

「そうですね~家さん、徳川殿の安否確認後に京に戻る予定です」


俺は信長さんに家さん(徳川家康)と共に饗応の接待を受けていた途中で事件に巻き込まれたので、長門守たちに家さんの事を任せて俺は本能寺に行き、その後、その足でお猿さんたちに情報を知らせに来たことを話した。

そう言えば、来た時には信長さんの自害とか話すのが先で、事の経緯や他の事を話すことを失念していたので丁度良いので今話した。

黒官さんが家さんの1人の家臣の名前を挙げ、どの様な様子だったかを聞いて来たけど、そんなの覚えてないので正直に解らないと答えたんだけど、胡乱な顔されたよ・・・何故?解らんけど、黒官さん的に要注意人物?なのかもね。

全ての事が片付いたのは何とその次の日の事で、本能寺が燃えてから僅か3日目の事となった。

早々、実は俺が色々動いている間に、美羽・千代が間者を捉えていた。

俺たちがお猿さんたちに情報を聞かせた時より一日と少し遅くその者は現れた。

惟任(明智光秀)の手の者で、書状を携えていたらしい。

内容としては毛利家にお猿さんの出来るだけの足止めの依頼と所領安堵等々。

俺の知っている歴史でももしかすると捕まったのかもしれないけど、美羽・千代が捕まえてくれたことでお猿さんに更なる恩が売れたようだ。

さて、お猿さんを見送ったら先ずはあの人に会いに行きますか。


★~~~~~~★


上様(織田信長)と中将様(織田信忠)の首を取ることは出来ず、徳川殿もどうやら取り逃がしたようじゃ。

そして、親類の細川家も未だ日和見で味方に付くかどうかの回答は獲られないままだ。

細川殿がお味方下さらないことで、周辺の者どもも日和見に徹し、こちらの様子を窺っているだけの状態じゃ。

本能寺で上様を討ち、京を手中に収めるまでは上手く事が運んだ。

けちの付け始めは何処だったであろう?

安土城を抑えようと動けば三介様馬鹿(織田信雄)が城を燃やすし、徳川殿は取り逃がすと散々じゃ。

しかし、まだ致命的なことではない。

着々と事を成し、ジワジワと織田家の持つ所領の実効支配を強めておる。

物見の間者の知らせでは、柴田勢の動きは今の所無いという。

数年前に上杉家とは和睦し、不可侵の約を取り決めたのは今回の謀反に際し懸案事項であった。

今の所はまだ柴田殿の耳に上様の事が伝わっていないのやもしれない。

だが、そろそろ伝わって何時こちらに攻めよせて来るのか・・・


「殿!!間者より知らせがあり、殿より託された書状を毛利に持って行った者が未だに戻らぬとのことで御座います」

「左様か・・・」


羽柴殿の足止めを依頼する書状は羽柴殿に抑えられ、毛利方に渡らなかったのやもしれぬな。

しかし、羽柴殿と毛利は備中で睨み合いの最中と聞いておる。

急に和議を求めれば何かあったと疑われようし、交渉は時間が掛かろう。


「取り合えず今は捨て置け」

「宜しいので?」

「それよりも東じゃ」

「柴田殿にも動きはありませぬな」

「西よりも東の方がこちらに早く来る公算が大きい」

「如何にも・・・しかし・・・羽柴様もやり手ですから」


ふむ、内蔵助(斎藤利三)は羽柴殿の動きも気になる様じゃ。

確かに東の柴田殿が先に動くというのはあくまでも予想じゃ。

羽柴殿が先に動くことも考えて行動せねばな・・・


しかし、東を注視して西を疎かにした訳ではないと思うが、私の遥か予想の上を行かれ、近日の内に羽柴勢と対峙する事となろうとはこの時まだ考えすら及んでいなかった。


〇~~~~~~〇


備中高松城の戦いが終着しました。

さて、ここでクイズ?

実は作中で信長の呼称が歴史と少し違います。

これ解る方中々の歴史通ですよね~多分。

では、早速、答え合わせ!!

作中ではあまりコロコロ変えると読み辛い解り辛いかな~と思い、「上様」の呼称である程度統一しました。(※初期は「上総介」途中「右府」呼びでしたけどね)

しかし、実際は織田信忠に織田家の当主の座を渡して以降の信長の呼称は「大御所様」に変わったとも云われています。

「大御所様」と言うのは隠居した将軍か将軍の父が呼称したもので、徳川家康も将軍職を息子の秀忠に譲って以降そう呼ばれました。

隠居した親王、摂政・関白の実父も「大御所様」呼称で呼ばれましたが武士の間では基本的に前将軍か将軍の父なのですが、将軍職を得る寸前まで上り詰めた事と権威付けでそう呼ばせていたのかもしれません。

江戸幕府では大御所呼びは将軍職経験者のみと厳格に決めていたようです。

11代将軍の徳川家斉が自分の実父を大御所呼びしようとしたらしいのですが、幕臣に反対されたと言う事もある程に江戸幕府では明確に権威付けしていたようです。

さて、何故紛らわしくなると感じたかと言うと、信長が家督を息子に渡して「大御所様」などと呼ばせたとも云われますが、息子の信忠も家臣たちに「上様」と呼ばれる存在でした。

その為、紛らわしくなると考え、作中では統一して信忠を「中将様」と呼ぶことにした訳です。

まぁ作中では名前が出て来る程度で出番無かった人物ですし。

では、何時から信長が「大御所様」と呼ばれることになったのかと言うと、1575年に長篠の戦で織田家が勝利を治め、信忠が正五位下の官位を朝廷から貰い、同年後日に秋田城介あきたのじょうのすけと言う官職を貰いました。

それに伴い、信長も家督を信忠に譲り、信忠に岐阜城も渡し、美濃・尾張両国の支配権も渡したことによりそのようになったようです。

さて、もう一つ、信長は1572年頃に息子の信忠が元服した頃位から「大殿」と呼ばれるようにもなっています。

上総介・殿→大殿→上様→大御所と言った感じで呼ばれていたようです。

人によって少し呼び方変わりますので大殿と上様は結構被って呼ばれたようですし、大御所呼びとなった時も人によっては大殿と呼んだ者も居たようです。

まぁそこら辺は信長が許せばOK的な部分なのでしょうけどね。

それからそれから、「右府」と呼ばれた時期もあります。

また、「弾正忠」と呼ばれた時期もあります。

本当に親しい人物たちはずっと「三郎様」と呼んでいたようですけどね~

なんせ織田信長の正式名称は「平朝臣織田三郎信長」となります。

変わらない部分だからこそ本当に親しい者には「三郎」呼びさせていました。

因みに、真名の「信長」呼びは失礼に当たるので家来が「信長様~」とか言うと「無礼者!!」と言われバサリと斬られても文句言えません。

因みに因みに、「大御所様」呼びを信長が晩年に呼ばせた理由として、足利義昭に対しての当て擦りではないかとも云われます。

先にも述べましたが、「大御所様」と言うのは隠居した将軍か将軍の父が呼称で、更には、隠居した親王、摂政・関白の実父のみに許された呼称なのですが、かつて足利義昭は信長の事を「義父」とまで呼びました。

そこからとも言われますが、実際に「大御所」と信長が呼ばれたかどうかは本当ははっきりとしておらず不明とも云われますが、嫌がらせの天才信長が使わないかと言えば使ったんじゃないかな~と私的には思います。

実は作中で「大殿」呼びと「大御所」呼びは使うかどうか迷いました。

「大殿」呼びは普通に使われていた記録がありありと残っているようですし、「大御所」呼びも信長主人公なら数話作れそうなお題なので呼ばせたかもしれませんが、コロコロ変えると紛らわしいのでこの作品では信長の呼称としては大体「上様」とさせて頂きました!!

まぁ前半「上総介」と中盤少し「右府」は使いましたけどね~そこはご愛敬ということで!!

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