第214話
摩利支天様たちとお会い出来たことでここ庵の効果が継続されることになったことは多くの者を喜ばせた。
勿論、俺も嬉しいぞ。
そんな中でも信長や竜様(近衛前久)は俺が留守中に借り受けることを望んだ。
そして、本拠地の切原野の方にも庵の作成を行う予定だ。
俺は取り合えず九州に一度戻ることとした。
そして、年内はこの旧山科邸改め丸目邸を信長に貸す事となっているので存分に茶を啜って欲しいものである。
今回も堺から博多を経由して戻る予定とし、今後の為にも人材確保の為に一度は平戸に行き奴隷購入を行う予定である。
現在の平戸は南蛮貿易の最前線で、奴隷市場も活況らしい。
次の計画の為にも人材確保は重要案件だ。
さて、人材確保としては京や他の地でも行っている。
前回の大水の際に困窮した者たちを藤林の者たちが多く助け確保している。
藤林の諜報をしつつも普通に生活を行う者たちを多く抱えることに成功したようだ。
困窮した際に手を差し伸べて引き入れる手法に何となく悪いなとも思うが、救われるのだしWinWinのはずだ。
そう言った者たちの事を一般的には「
厳密にはスパイの事を「
何か見下した言い方で俺的に受け付けなかったので変えさせてもらった。
諜報部門ではこの諜報員たちの事を「現地特派員」と呼ぶこととした。
通称「
特に危険なことはさせる予定は無く、自分たちが見聞きした情報を上に上げるのが仕事で、何かを強要することはない。
情報と言うのは何気ない事でも寄り集まれば一定の方向が見え有用な情報に変わることもあるし、こちらで情報を蒔く人材にも彼らはなる。
勿論、有用な情報には報酬を与える事としているが、互助組織的に困った時に助ける感じで普段は情報を何気なく上に上げて貰うこととしている。
情報は「今この地域では〇〇が安いだの高いだの」や「近所の〇〇と言う人物が・・・」等々の地域的な話から「信長が〇〇した」とか「〇〇と言う事件が起こった」等の京や事件の中心地から伝わってきた情報等々の有り触れたものが殆どだ。
そう言った情報も集めれば力になるし重要なのだ。
まぁ俺の持つ資金がどれ位あるか既に自分ではよく把握していないが、それなりにあり、余裕があるから出来ることだと思う。
こういった人員は人数的には多いけど、最終的には一国に一人の元締め的な者とその配下の幹部を置き情報を精査、地域別に更なる元締めを置きそこでさらに精査、そして、全国を統括する総元締めが集積した情報から行動指針を決めると言う感じのピラミッド型の組織を作っていく予定で今はその前段階ではあるが着実に組織は育っている。
前世で大企業が活用していたビッグデータの戦国版と言った感じの事を考えている。
現段階ではまだまだ人員が足りていないが、それでもそれなりの成果を出していて、色々と活用されているようだ。
特に、商売として足りない所に足りない物を持って行くことで高値で売れると言う仕組みではそれなりの利益が上がり、提携している商人たちから協力した見返りとしてそれなりの報酬も得ている。
諜報員たちには無理に情報を集めようとして命を散らす様な事にならないようにとは厳命している。
藤林の武力的な実働部隊も組織しており、そちらも現段階では人員不足なのでこれからと言った感じだ。
さて、畿内の統括はお金に後は任せ一路俺たちは堺を目指した。
それから、堺から九州を目指し、先ずは博多に到着した。
九州は耳川の戦いで大友が島津に敗れた事や、龍造寺が台頭して来たことで、九州は今、大友・島津・龍造寺の三つ巴の闘争が繰り広げられている。
特に龍造寺の躍進が凄いようだ。
帰宅後に向かう予定の平戸は龍造寺家の勢力下に現在は組み込まれている。
そこを治める大村純忠は昔に会っているが小物感が滲み出た様な者だったと記憶しているが、現在は中々のやり手のようだ。
龍造寺の旗下に入ったが親族の有馬勢を攻めることになった際は空砲を撃って如何にも頑張って攻めている様に演出し、龍造寺を騙し騙し親族で協力して被害が出ないようにうまく戦っているようだ。
あ~これって常套手段なんだろうね~何か関ケ原の戦いや大坂夏の陣で真田家がやったことまんまだな~と思ったよ。
それはそれとして、藤林の諜報はマジで優秀!!
それを看破していた。
恐らくは大村軍の中に現特の者が居るのかもしれないが、俺もその存在は解らないし、大村も誰がそれかなんて見分けもつかないだろう。
特に敵対している訳では無い者が日頃から情報を集め精査しているから判る物で、情報が漏洩しているなどと言う考えすら相手にはないかもしれないね。
さて、移動の最中、藤林の者より織田軍が丹後・丹波を平定したと言う知らせを伝えてくれた。
情報伝達のスピードも以前以上に上がったな。
丹後・丹波の情報を四日でここまで伝えて来た。
現時点で日ノ本一の情報伝達スピードだろう。
長門守たちは更なる伝達速度の向上を目指すようだ。
俺が「情報はその内容だけではなく速度も値段に繋がるよ」と言ったからかもね。
元々から情報を得る速度と言うことを重要視していたようだし、伝達もと言われると納得だったのかもしれない。
そして、話は少し変わり、やはり家さん(徳川家康)の所の奥さんと嫡男が家さんに下剋上を仕掛けようとした様だ。
こちらもちょっと前に伝えて来られた。
伝達速度的にも十分日ノ本一だし、重要度等々色々な面でも現時点での最高値だと思うよ。
お銀たちもいい仕事をしているようで安心するよ。
現在、東海・関東方面担当のお銀がこの問題に当っているという話だったが、どうやら家さんの所は一段落したようだ。
俺の知る歴史通りになるとすれば奥さんの築山御前と嫡男の信康は三途の川を渡る事となるだろう。
そこをどうこうしようなど思っていない。
家さんたちがどうするかを選択するだけだ。
俺たちはあくまでも必要と思える情報を売るのみ。
戦国時代ではよくある一コマ、親兄弟と言えど食うか食われるかの行動を起こせば、成功すればいいが失敗すれば自分に帰って来るだけだ。
奥さんたちはクーデターに失敗して奈落の底に落ちただけの話だろう。
俺的には友達の家さんが無事ならまぁ問題なしだね。
さて、頑張ったお銀たちには悪いが、次にお願いしているのは武田家のことだ。
数年以内にはこちらも動きがあるだろうし、出来れば助けたい人物もいる。
色々検証していたが、歴史が変わるのはどうやら
兆候が現れたら直ぐに動く予定だが、移動速度をどうにか上げないと間に合わないこともあるかもしれないな。
その準備の為に色々と行う為にも一旦九州に戻りそれを試し検証し構築する予定だ。
一応は見当を付けているのであるが、試してみない事には解らないので先ずは試すことが必要だろう。
更に、今後の為に他にも々と動く予定である。
手始めはその検証。
それから次に人材確保難だけど、いい人材がいると良いな~
★~~~~~~★
丸目殿が去った後、旧山科邸は故人の遺言により丸目春麗殿に贈られた。
そして、山科家の嫡男にはする必要もないと思うが三千貫を贈ったと言う。
立派な葬儀も取り仕切った上にそのように金子まで渡すとはと思うが、丸目殿には丸目殿の考えがあるのかもしれないが、円満に譲渡された。
そして、現在、この旧山科邸は丸目砦と呼ばれている。
屋敷を囲む堀に見事な石垣に白壁が四方を囲む。
館と言うより砦だろうと皆が館ではなく砦と呼ぶので通称ではあるが丸目砦と呼ばれる。
この場は有事の際の天子様の避難所の一つにも指定されている場所で、丸目殿が京を発たれる際には天子様より院の警護にあたる「禁廷の士」と言う称号が送られた。
丸目殿の配下の者たちは朝廷よりその場の警護の任も仰せつかる形となった。
丸目殿は約束通りに年内のこの砦の貸し出しをしてくだされた。
しかし、ここで物言いがつく。
他にもここを借りたいと言う者が出た。
近衛殿(近衛前久)もその一人だ。
呆れた丸目殿は「某不在時は好きにして構いませんが、喧嘩しないように仲良く使ってください」と言われたので借りたい者が順番に借りる事となったが、流石に今の儂に面と向かって物申せるものは少なく、近衛殿と順繰りに使う仕儀と相成った。
先ず、年内は儂が使う。
そうそう、丸目殿より朗報を聞く。
この砦の中にある庵は丸目殿が摩利支天様にお願いし丸目殿の生存時には今まで通りとして美味しい茶を飲めることとなったそうだ。
神と交渉するとは・・・やはり丸目殿はただ者ではないようじゃ。
それから、丸目殿の奥方たちとお市が仲良うなった。
丸目殿が在宅の折にはよくよく遊びに出掛けていたようじゃ。
丸目殿を取り込む一助となるやもしれぬ。
丸目殿と縁続きとなるのはお市の頑張りにかかっておろう。
どれ、お市に発破をかけておこうかの~「次に丸目殿が京に来た折には夜這いでも仕掛けてみよ」と言ったらお市はどの様な顔をするであろうか?
儂の見た感じでは丸目殿もお市に見惚れておったし、お市も足蹴しく通うたは満更でも無かったのやもしれぬ。
お市の供の者も丸目殿が子供たちも可愛がっていたと聞くし、悪い組み合わせではなかろう。
さて、次に丸目殿が京に参られるのが楽しみじゃ、いや、その前に儂が九州に向うのが先やもしれぬな。
〇~~~~~~〇
さて、少し下準備的に色々やります。
戦国時代にも情報伝達と言うのに価値を見出した人物たちは居るようです。
私的に素晴らしいと思ったのは石田三成でしょうか。
石田三成は前にも取り上げたと思いますが、太閤検地の際の「検地尺」を発明したりと言う中々の知恵者ですが、外交戦略や情報収集に関しても非凡だった人物です。
中でも豊臣秀吉の天機となった本能寺の変の際の中国大返しは石田三成の活躍が凄まじいです。
先ず、秀吉軍は本能寺の変が起こった際の所在地は中国攻めの途中で備中高松城を水攻めにしており、毛利軍とも対峙しておりました。
秀吉は信長に援軍を要請をしており援軍待ちの状態でしたが、京よりの早馬で本能寺の変が起こったことを知らされます。
これは諸説あります。
本能寺の変が起こったことを知った毛利方の間者が秀吉軍に捕まり・・・等々。
しかし、諸説の中で一番信憑性が高そうなのが石田三成考案の早馬の伝馬制でしょうか?
三成は戦地においても色々な情報を仕入れる為に京と現地を早馬で行き来できるシステムを構築したと言われています。
そして、いち早く京で起こった事件を仕入れ、今度はその早馬の仕組みを利用して中国大返しと言う奇跡的な進軍を差配したと言われております。
秀吉は「二十七里を一日一夜」と書き残しているようですが、これは秀吉の誇大広告です。
しかし、実際は約200kmの道程を10日で踏破したと言われています。
これも驚異的なのですが、備中高松城から中間地点の姫路城までの約92kmを、2万の軍勢を率いて僅か2日で走り抜けたことが一番の脅威です。
この際に用いられた道は早馬の為に整えた道だったと言われます。
事前に道も均していたので可能だったと思うと、その下準備をした三成は中々やりますね。
次回はこの中国大返しが霞む様なことやります!!
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