第205話

羽柴長秀は丸目蔵人と別れ一路兄の羽柴秀吉の増援に向かう。

到着早々に小寺殿に長さんの伝言を伝えることとした。


「小寺殿」

「何ですかな小一郎殿」

「実は長浜の地にて丸目三位殿とお会いしまして」

「ほう!噂の御仁ですな!!」

「はい、私も兄もそれから半兵衛殿(竹中重治)・小六殿(蜂須賀正勝)も懇意にして頂いている人物です」

「して、その丸目三位様が如何されました?」


私は小寺殿に長さんより言われた「幽閉の相」を伝える。

小寺殿は訝しげな顔をされ、「会ったことも無いのにそんな事が解るので?」と言われる。

私もその疑問に答えるすべは無く、「丸目三位殿の言われることですから」と答えお茶を濁した。

小寺殿は信貴山城の戦いで松永久秀殿を討伐した後に、兄が播磨に進駐した際に居城であった姫路城本丸を提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになった方だ。

その手腕は半兵衛殿に引けを取らないと思う。

しかし、少し自信家の面が強い様な気がするし、長さんが言う「幽閉の相」というの謎の相はもしかすると敵方の説得にでも赴いてそこで捕らえられ・・・

実にありそうではあるが、あまりその事を五月蠅く言うのも失礼だろう。

伝えたので後は信じるか信じないかだけで己が判断となるだろう。

少し時が経ち、早馬で兄に第一子の誕生が伝えられた。

兄の喜び様は大きく、戦場にありながらも歌え騒げの大騒ぎとなった。

瓢箪から駒とでも言うのであろうか?大騒ぎを知った敵城は何故かその隙を突いて夜逃げ同然に退却していて、後日、斥候を放てば城はもぬけの殻だと言う。

私は但馬国の生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城攻めに向かう事となった。


★~~~~~~★


羽柴藤吉郎様の弟、羽柴長秀殿が儂を呼び止め何やらけったいな事を言われる。


「小寺殿」

「何ですかな小一郎殿」

「実は長浜の地にて丸目三位殿とお会いしまして」

「ほう!噂の御仁ですな!!」


噂に聞く御仁だ。

羽柴軍の中ではよく話題に上がる人物で、藤吉郎様もよく語られるし、その御仁に対して崇敬の念すら感じる。

その内お会いするのが楽しみであるが、行き成りその御仁の名を告げられるとは・・・何かあるのか?


「はい、私も兄もそれから半兵衛殿(竹中重治)・小六殿(蜂須賀正勝)も懇意にして頂いている人物です」

「して、その丸目三位様が如何されました?」

「はい実は・・・」


長秀殿が申されるには、丸目三位様は儂に「幽閉の相」という意味の解らぬ相が出ていると告げられたそうだ。

確か昔に丸目三位様は「天啓」を聞くと聞いたが・・・人相まで見るのか?と思うが、会ったことも無い者の人相をどうやって見るのだ?

意味が解らぬ。

まだ、そう言う「天啓」があったと言われる方が信じられるわ。

皆が言うのを信じない訳ではないが、どうやら変人の類なのやもしれぬ。

長秀殿は「では、伝言を伝えましたぞ」と言って儂の下を離れた。

そして、少し時は経ち、早馬にて藤吉郎様の第一子のお生まれになった報が届いた。

この早馬の仕組みを考えたのは藤吉郎様の子飼の石田何某という者のようだ。


「三成!その方の考えたこの情報伝達の仕組みの御蔭で一早く我が子誕生の知らせを知ることが出来たがね~でかしたがね!!」

「いえ、お役に立てて何よりです」


そう、三成だったな。

藤吉郎様の配下の者たちは知恵者が多いようじゃ。

竹中半兵衛殿を筆頭に蜂須賀小六殿に弟の長秀殿も中々の知者じゃし、それにあの石田三成・・・さて、儂も負けてはおれぬな。

前々より目の前の城には色々と工作を仕掛けておった。

そろそろその成果が・・・成果が出る前に城はあっけなく落ちた。

儂の今までの努力は何だったのか・・・第一子誕生の報が知らされると藤吉郎様が喜ばれ祭りの様な大騒ぎとなった。

二日間の大騒ぎは目の前の城にも伝わったようじゃ。

後々に知る事となったが、城では羽柴軍の大騒ぎで何やら大きな作戦が行われる物と勘違いし大混乱をきたした。

今の騒ぎに乗じて逃げようと言うことになり、大急ぎ二日目の晩に逃げ出したと言う。

本当に夜逃げ同然で、城に行かせた斥候も驚く程であった。

手柄を一つ逃したことで一人歯ぎしりする程悔しい思いをしたが、仕方なし。

それから調略は他の場所でも行っていき、宇喜多和泉守殿(宇喜多直家)を調略することに成功する。

これには柴田軍一同が儂に喝采し、藤吉郎様よりお褒め頂いた。

しかし、荒木摂津守殿(荒木村重)が裏切ったことで儂の状況が一変する。

彼の誘いに乗り主家の孫四郎様(小寺政職まさもと)がその謀反に呼応してしまった。

荒木摂津守殿(荒木村重)を翻意させるべく彼の居城である有岡城(兵庫県伊丹市)に乗り込み説得を試みることとした。

対面して話せば説得できると言う自信はある。

しかし、一瞬「幽閉の相」という言葉が頭を過る。

藤吉郎様たちにも「危険だ!行くな!!」と止められた。

しかし、やはり自信があるので儂は向うこととした。


「荒木摂津守殿、御考え直し頂きたし!!」

「わははははは~何を馬鹿な!!既に裏切っておるのにどの面下げてあの悪魔(織田信長)に会えと?」

「大丈夫です!某が御取成し致しますにて」


説得は失敗し儂は幽閉された。

一年以上の時を幽閉されたことで足を悪くした・・・

もっとしっかりと儂に詳しい内容を丸目三位殿が伝えてくれれば・・・会っても居ないのに憎しみが増す。

助言をくれた事などより会っても居ないことで怒りの矛先がかの御仁に向かってしまい、その後も関係は悪くなってしまったのは言うまでもない。

死ぬ間際に後悔したが、既に遅きに失した。

ただの八つ当たりであり、貴重な助言をくれた相手を恨む我が器の狭量な事・・・嘆いても嘆いても何も変わらぬが、この関係が違えば・・・

キリスト教に入信し、神を信じるようになったのは、多分、「天啓」を聞くと言う丸目殿を妬んでのことなのやもしれぬと今更ながらに思う。

日本古来、仏教のなどの神仏は儂に「天啓」をくれなんだと思い異国の神に救いを求めたが・・・考えてみれば丸目殿が「天啓」を得て儂に伝えてくれたのやもしれぬと思うと後悔も沸くが、もう儂の命の灯は後僅か・・・既に寝床より動くことも・・・


〇~~~~~~〇


黒田官兵衛中心の話でした!!

主人公と敵対的な立場で絡む形となって行きます。

彼は秀吉が最も恐れた配下と言われています。

四国攻め位の時期に高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し、「シメオン」の洗礼名を与えられております。

徳川家康も要注意人物の一人として黒田官兵衛が関ケ原の戦い前後で九州で暴れ回った功績をあまり認めませんでした。

息子の黒田長政に対しては勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増移封をしたのですが、官兵衛に対しての勲功恩賞は井伊直政や藤堂高虎の勧めで行い、上方や東国での領地加増を提示するに留まっていますが、これは飛び地になる事もあり官兵衛(如水)は断わり加増されませんでしたが、これってもしかすると息子の長政との離間策だったのかもしれませんね。

1604年、京都伏見藩邸(京都市伏見区深草大亀谷敦賀町)にて死去したと言われます。

享年59歳で辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」と言うものでした。

「もう思い残す言葉も無い、ついに(私も)あの世に行くことになったが、道には迷わずに行けるだろうし後は成り行きに任せよう」という意味です。

1603年に徳川家康が征夷大将軍となることで天下の趨勢が確定しました。

その翌年に黒田官兵衛(如水)が亡くなると言うのも何だか不思議ですね。

そして、黒田官兵衛(如水)の死に際は結構有名かもしれませんが、自分の「神の小羊」の祈祷文と愛用のロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いて無くなったと言われます。

その際に幾つか遺言的に述べています。


一つ、自分の亡骸は博多の神父の所へ持ち運ぶこと。

一つ、息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること。

一つ、イエズス会に2,000タエス(約320石に相当、大体4,200万円相当)を与え、うち1,000タエスを長崎の管区長に、1,000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てること。


キリスト教の葬儀も行いましたが息子の長政は仏式の葬儀もおこなっているようです。

徳川幕府二代目将軍の徳川秀忠は黒田官兵衛(如水)を「今世の張良なるべし」と評したそうです。

豊臣秀吉は「官兵衛がその気になれば、儂が生きている間に天下を取る」と言ったと言われます。

しかし、豊臣秀吉の有力側近は弟の豊臣秀長と茶匠の千利休であり、黒田官兵衛(如水)は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったと言われますが、現代では秀吉の「軍師」と呼ばれます。

軍師と言うのは政治・外交・軍事の指南を行うものという意味ですから正確には軍事のみの軍配者なのかもしれませんが、「官兵衛がその気になれば、儂が生きている間に天下を取る」と言うものには続きがあります。

それを聞いた者の一人が秀吉に「官兵衛殿は10万石程度の大名ですよ?」と言ったそうです。

秀吉はそれを聞きあきれ顔で「お前達は奴の真の力量を知らない。奴に100万石を与えたならば簡単に天下を奪ってしまうわ」と言ったそうです。

これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と言い、直に剃髪し如水と号したとしたと言われます。

この官兵衛の行動は世に言う天下人の腹心の末路を知るが故の行動で、剃髪=現世利益を求めません的な行動として秀吉に見せた態度なのです。

秀吉はそれを聞き「常に世に怖しきもの」として2人の人物を挙げます。

その人物たちとは徳川家康と黒田官兵衛なのですが、徳川家康と比較しながらも「黒田の瘡天窓(頭の皮膚病の事)は何にとも心を許し難きものなり」と官兵衛を評したそうです。

簡単に言えば「官兵衛はこれだから油断できん!!」てことですが、そう言うことからも過大評価にもつながったのかもと思いますし、冒頭に述べた秀吉が最も恐れた配下と言われる所以なのでしょう。

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