第80話
島津四兄弟勢揃いである。
俺の因縁の相手、家久君も居るよ。
4人共俺より年上の様であるが、先生と呼んでくる。
「丸目先生一手ご教授願えます!」
「何時でもどうぞ」
目の前には島津
正眼に構えお互いに睨み合う。
彼は四兄弟で一番地味な人である。
しかし、彼らの祖父である先代の領主、日新斎さんは彼の事を高く評価していた様で、「智計並びなく」と褒めたと言うことを噂で聞いた。
領地が近いこともありその手の噂は家の方にも届いていた。
地味だからと言って弱い訳ではない、よく言うだろ「能ある鷹は」である。
伏兵と言う物は何処に隠れているか分からないモノである。
さて、構えを見るに中々に出来る。
流石、修羅の国(主人公が勝手にそう思っています)
頭脳派ではあるがちゃんと修羅の様だ。
構えは正眼であるが今にも斬り掛かって来そうな気迫を飛ばしてくる。
ここで示現流が流行るの解るよ。
しかし、丸目蔵人、剣豪に御座る!!
攻撃をいなし、美味い具合に逸らしながら指導する。
兵を率いれば彼らに俺は勝てないだろうが、こと
「狙いが見え見えですよ」
俺はそう言ってから相手の攻撃に合わせ相手の切先の横っ面を叩き打突の行方をコントロールしそっと相手の首元に切先を添える。
「参りました!流石、今義経!!丸目先生は流石にお強い!!」
え~~そうでもあるかな~・・・天の声さんが「少しは謙遜しろよ!」と言うが気にしない、気にしない!!
褒められるの嬉しいし~
「丸目先生!次は某と!」
「いや!某と!」
ここ数日は早朝の朝稽古の素振りの後は立合うがメインで教えている。
俺と門弟の弟子たちで手分けして稽古に出向いて来た者たちの相手をしている。
流石、修羅の国(主人公が勝手にそう思っています)、女性陣も薙刀などの指導をして欲しいと押しかけてきます。
薙刀は咲耶と吉兵衛に指導を任せている。
吉兵衛は弟たちの中で一番物事を器用にこなすオールマイティーさを見せる。
剣術だけではなく槍や薙刀も達者なので任せている。
さて、休憩がてら他の者の立合いを見学しよう。
今行われている立ち稽古の対戦で好カードなのは美羽VS義弘と真里VS家久だろう。
美羽と義弘はよく立合いをする。
義弘さんは美羽たちの事を最初に女の子と見下すとまでは行かないが、舐めていた節がある。
これは義弘さんだけでなく俺の弟子になった者皆に言えることだし、ここより前に立ち寄った伊東さんとこでも同じ様な物であった。
しかし、立合いをし負けると一転して美羽・真里を認め嬉々として挑んで行く。
そこには一遍の侮りも無い。
負けた時に「女のくせに」など言おう物ならば「じゃあ、男のくせにその女に負けたんですね~」と言い返されるだけだ。
まぁそう言うように俺も言い含めているが・・・
実際そのような件は数回何処でも起こっている。
勿論、そんな事を言うような者は性根から叩き直されるように扱かれるので、大体3~4日で自分の意見を改める。
さて、そんな事より対戦を観よう。
美羽VS義弘さんはお互いに構えているが微動だにしない。
面白いのが2人とも上段に構えている。
美羽は俺のタイ捨流の構えを見て、いたく気に入った様で上段に構えることが多くなった。
上段斜めに構える美羽に対し義弘さんは上段正面に構え切先が斜めに向いた様な構えだ。
お互いに一撃を狙っているのが解る。
怪我をしないようにと言う配慮から勿論、寸止めにしているが、勢い余ってという事はあるが、この2人なら多分大丈夫であろう。
一瞬、義弘さんが先に動いた。
間合いを詰め上段より勢いよく振り下ろした木刀は「ブン!」と凄い風切り音と共に振り下ろされた。
美羽はそれを上段に構えたまま切先を斜め下に向け倒して相手の振り下ろしを
上段に構えていても防御は疎かにしないように指導したので当たり前の様にこれをするが、中々に勇気がいるし一歩間違うと大怪我をするが美羽は難なくそれをする。
勢いを流されて態勢を崩した義弘さんの首後ろに切先をゆっくりと落として美羽が勝利した。
うん!美羽よ完璧だ!!
次に見るのは真里VS家久さんのカード。
真里は下段の構えを取った。
家久さんは正眼に構えている。
真里は俺が信綱師匠の話を語って聞かせた時に下段を見せて下段の有用性を語るとそれが気に入った様で下段を好む様になった。
下段と言うのは後の先を特に意識した構えで、相手の攻撃を
しかし、防御だからと言って攻撃しない訳ではない。
スキを突いて先に仕掛けることもある。
現に真里は家久さんに対して先に仕掛けていった。
真里の面白い所は最初に下段に構えてはいるが途中からは上段に構えたりと相手の出方次第で変化して相手を翻弄するところが実に良い。
俺は「下段だからと言って防御を意識するな」と教えた。
後の先を考えつつも先の先を意識することは重要だ。
構えが防御傾向だからと言って心も防御に依る必要はない。
決着は真里の勝ちだった。
うん!自分なりの解釈で自分の剣をものにしつつある2人はここ修羅の国でも安定の勝ちを積み上げている。
気が付けばここ島津家に3カ月も滞在して指導することなってしまったが、また機会があれば指導しに来ることを約束して次の場所へと旅立つことと決めた。
次は肥前を目指すこととした。
出来れば会ってみたい九州の二大熊の一角、
会えると良いな~
え?もう一匹の熊?そんなもの言う必要は無いだろう?
〇~~~~~~〇
弟子たちも順調に育ってきております。
そして、因縁の相手、島津家久と今回会ったことにより歴史がどのように変化するか?
先の先の話ですがお互いの性格などを知る機会があり史実道理になるかどうかお楽しみください。
次に向かう肥前の
そして、薩摩から肥前に行く途中はには勿論、陸路で行くと肥後と筑後を通り抜けますが、さてその道中で何があるか?
更に、船旅と言うのもありますがどの様に舵を切るか・・・
ルートは置いておき、次の重要人物になるであろう
大友・島津と九州での三つ巴の戦いを行ったことから九州三強の一人と言われ「肥前の熊」と言われた人物です。
個人として「五州二島の太守」と言う称号を好んだようです。
何故「熊」か?・・・肥満体だったようで大きい図体で性格も獰猛だったことから「熊」と呼ばれたとか何とか・・・
宣教師ルイス・フロイスの書簡の報告で、隆信は肥満体のために六人担ぎの駕籠に乗っていたらしいですから事実のようですね~
九州で最も下剋上を成した人物としても知られ龍造寺本家を乗っ取り、
しかし、そんな竜造寺隆信も苦労人で、7歳で出家したかと思えば主家の
この時16歳だったようです。
そして、命を狙っていた者が討伐されたかと思えば曾祖父が亡くなり後ろ盾が居なくなります。
しかし、曾祖父の遺言により水ヶ江龍造寺氏の家督を相続します。
後ろ盾の居ない隆信は求心力が無く一族の説得などに苦心したようで、その説得にくじ引きなどを用いたという逸話が残っています。
そんな苦労からなのか、この頃から思い切った行動をとる様になった様で色々とやります。
本家乗っ取りとか主家を倒したりとか等々です。
まぁその苦労などから猜疑心が強くなり獰猛な性格になったのかもしれませんね。
最後は後世に
島津家久軍と有馬勢から挟撃されて、敗北を喫したようです。
ここでも出ました島津家久!!
この時、龍造寺側25,000に対して島津・有馬連合軍は5,000と戦力差5倍の圧倒的に不利な戦で勝利しています。
島津の天王山的な戦では家久がかなりの確率で大活躍してます。
そんな高スぺ武将に挑んだ史実の丸目蔵人・・・涙目ですね。
次は熊の所に向かいます!!
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