私は個人的に最強の「兵法家」は柳生宗矩だと思っています。
前に兵法家は軍師じゃなくて剣術家だと書かれていましたが、私はそうしたのが柳生宗矩で、その前はまだ軍師(軍略家)の要素を濃厚に含んでいたと思います。
宮本武蔵が禄高2000石に固執してたこととか、『五輪書』が剣術技術書じゃなくて軍略も含んでることとか。
そのことからすると「勝つために手段を選ばない」武蔵は、軍略家としては正しいんですよ。
で、そこで最強だったのが柳生宗矩じゃないかと。『孫子の兵法』でも、最上は「戦わずして勝つ」。
そして、柳生宗矩は「将軍家御指南役」、つまり、この上が無い最強のポジションです。
そこで戦いの無い時代に対応して「剣禅一如」「精神修養の剣」とかに衣替えし、「御留流」とか言って「戦わない」ことで至高の座を守ることに成功したと、そういう意味で、最強の「兵法家」かなと思うのです。
まあ、自分で衣替えした「剣術家」としては大したこと無さそうなのが、ご愛嬌なんですが(笑)。
作者からの返信
コメありがとうございます。
面白い考察です!!
確かにそう言える側面強いと思いますが宗矩は意外と強かったようですよ?
ただし、それより強い人間がゴロゴロいましたけど・・・
その一人が丸目蔵人佐ですね~
丸目蔵人佐との逸話はまさに宗矩の戦略勝ちでしょうしね。
追記です。
多分、かなり先になりますが武蔵、宗矩はうんちくで取り上げる予定だし登場します!!
大和の、氏素性がはっきりしてる豪族柳生の坊っちゃんと、今一素性のしれない宮本武蔵が仲良く出来るわけがないという気もする(^o^;)
一刀流の伊藤一刀斎の後継者小野某さんも柳生と比べると小身の出もあって石高に恵まれてないことを考えれば、宮本武蔵も決して冷遇とまでは言えないような。
まあ、刀の刃渡りにまで制限がかかり、槍の街中での所持もままならない平和を目指した時代に、法の網をくぐるかの様な、短めの刀での二刀流の開祖ってのは好かれるはずがないとは思う。
作者からの返信
コメありがとうございます。
戦国の香残す大名からは好まれたみたいで武蔵はお客様扱いでしたからね~
柳生家は徳川が安定するほどに役割を終えて行きますけど、宗矩が亡くなるまでは可成り凄いことになってましたしね~
しかし、明治維新まで柳生藩は残ったし、華族となり子爵になって陸軍の軍人になったそうですからなんやかんやで勝ち組?でしょうね~
武蔵はたしかめちゃくちゃ当時としては体が大きくて、握力が出鱈目に強かった(青竹を握って潰す)という記録が残っていたかと
二天一流の二刀流については武蔵しかできなかったというのは大いに有り得そうです
作者からの返信
コメありがとうございます。
武蔵の評価の難しいのは、一番剣術の全盛期の塚原卜伝・上泉信綱などの時代から少し外れることと、あの時代では剣術のベクトルが柳生宗矩によって変えられたことですね~
強いは強いのでしょうけどメディアの力が大きいと感じさせる人物だと私は感じております。
当時、武蔵の事を剣聖と言う者は居なかったようですが、現代では剣聖扱いされているのも特徴的な人物ですね~