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>運さえもう少しだけ良ければ天下人は三好だったのは間違いない。
この時代だと『天下』は近畿一円を指す単語の様だし、
1718~1720年に発刊されたシャトランの『歴史地図帳』などに見られる様に、
三好長慶→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康の四人が天下人の系譜扱いで、
江戸初期位までは三好長慶の評価も高めだったかと。
江戸中期以降だと三好長慶の評価は低下した様ですが、
それは、『秩序の破壊者』の側面が嫌われたのかな?、と予想しています。
(無能な働き者)足利義輝とのタッグによる部分はあるけど、足利幕府体制の『家格と身分による秩序』を崩し、実力主義の台頭を招いた訳だから。
主人公の『三好長慶』評が同時代のそれより低そうなのは、
江戸中期以降に形成された『三好長慶』評に引っ張られたのだろうな、と解釈しています。
作者からの返信
コメありがとうございます。
御詳しいですね~
基本的に現代の一般常識を基軸として考えておりますので、主人公が低いと言うより現代における一般的な三好長慶の評価が低い事を言っておりますのでご意見の通りですね。
私の見解では三好長慶は信長以降の3人と違い自分がトップに立って政権運営をしていなかったことが現代で天下人と思われなかった要因かな~とか思ってます。
信長も将軍家を傀儡として使っていましたが、足利義昭を京都から追放してからは完全に新しい仕組みを構築していましたし、長慶には「日本の副王」と言う異名が付くのに信長には副王とか付かないことを考えてもそうじゃないかな~とか思ってます。
長慶は旧来の仕組みを上手く利用したけどそれ以上が無かったので王ではなく副王なんだろうな~と思ってます。
歴史談義大好きなのでまたコメントお待ちしております!!
三好長慶と大内義隆と長宗我部元親は跡取り息子を亡くしておかしくなったと思います。それまでは3人とも有能なのに。
戦国が終わってたから息子の盛親の方が家潰した扱いで元親の評価そんなに悪くないですけど、実際は晩年の元親の駄目さ加減で長宗我部は潰れたようなモンですし。
作者からの返信
コメありがとうございます。
多分同じような理由で武田信玄もかな~と思います。
普通に考えて跡取りを死に追いやってしまった自分の行動で少しおかしくなってしまい勝頼への継承がお座成りになったのかな~と思います。
勿論、自分があんな死に方すると思っていなかった部分もあると思いますが、用意周到な信玄らしからぬ感じですしね~