第50話

飛騨高山で修行すること1年余り。

え?修行回じゃないの?って?・・・修行なんてする方は充実しているがそんな聞きたいの?木刀振ったり、立ち稽古したり、筋トレしたり、たま~に山にキャンプ行ったり、釣りしたり川で泳いだりしただけだぞ?

結構楽しんでるな~って?1年以上住んでれば多少は息抜きするだろ?それとも何か?修行に明け暮れろと?師匠も一緒にキャンプ楽しんでたぞ!!釣りとか「精神修行に良いな~」とか独り言ちって嬉々として釣りしてたぞ!!修行もちゃんと頑張ったぞ!!そこが聞きたいと・・・まぁ終わったことだし気にするな!!

さて、修行中にも色々なNEWSがこの山奥にも伝わってくる。

伝わって来た興味深い大きい出来事としては、浅井あざい六角ろっかくに戦で勝ったこと、中国地方の勇・8か国の国主の尼子あまこ晴久はるひさ死去、十河そごう一存かずまさ死去、美濃の国主の一色いっしき義龍よしたつが死去、上杉謙信が小田原にカチコミかけたり、第四次川中島が起こったことかな~

まぁ多分は歴史通り?なんだろうな~残念なことに第四次川中島の戦い、通称、八幡原はちまんばらの戦いでは多くの者が亡くなった。

武田信繁も帰らぬ者となった。

1度くらい会ってみたかったが、残念ながら会うことは叶わなかった。

仲良くなった者の死は悲しいから会わなくて良かったのかもしれないな・・・

喜兵衛からお手紙が来てどうやら川中島の戦いで初陣を飾ったようだ。

すげ~な~あの戦いが初陣とか・・・

武田信繁の死は喜兵衛からの知らせで知った。

散々信繁談義した仲だし気を使って知らせてくれたのだろう。

喜兵衛の手紙からは本当に残念でならないと言う気持ちが滲み出て居た。

会った人物ではないので俺はそこまで残念と言うような気持ちはわかないが、惜しい人物をなくしたのは間違いないだろう。

武田信玄と息子は後々対立するが、信繁が生きていればそれも無かったような気もしないではない。

俺のあくまでも私見ではあるが、武田信玄の息子の義信が後を継いでいれば、家中は荒れなかったんじゃないかな~と思う。

武田勝頼と言う人物が無能という事ではなく、優秀でも無理な物は無理なのだ。

継ぐべき人間に家督を譲れなかった家は大概没落する。

それがこの厳しい戦国時代の法則だと思う。

勿論、周りが盛り立ててくれれば問題はそこまでないが、そうならないのがイレギュラーな出来事なのだ。

まぁ武田さん家の問題は俺がどうこういう問題でもない。

大事件の中に十河そごう一存かずまささんの死去報あるけど?誰それっていう人居る?

あ~念の為に説明しておくと、三好長慶の弟さんで三好家の重鎮ね。

ここからが三好家の衰退と言う人もいるね~

ああ、そう言えば三好実休じっきゅうて弟さんもそろそろ亡くなるな。

戦死(討死)で、知らせを聞いた長慶は句を詠んだとかなんとか。

てか、三好長慶程に運無い武将中々居ないぞ~よく戦国最強武将は誰だ!!とかTVとか雑誌で特集するだろ?

大体が織田信長が1位なんだけど・・・俺から言わせれば何言っているの?だよ。

三好長慶以外無いだろ?

信長は時代の寵児、運で言えば秀吉1位で2位信長!これ間違いなしだと思うよ~

それに比べ長慶は運が悪すぎて天下から転げ落ちた人!!

運さえもう少しだけ良ければ天下人は三好だったのは間違いない。

織田信長が恐れたと言う武田信玄と上杉謙信と比べて、圧倒的に三好長慶の方が恐ろしい存在よ~敵だらけの中であれだけの権勢を誇ったって驚愕だよね~まぁそんな三好さん家の御不幸は今に始まったことでは無いからな~運合わせて考えると織田信長が1位分るけど・・・まぁいいや~

今はこれからの事だ!!

1年余りの修行で俺も大分新陰流の動きが様になって来た。

しかし、下地がタイ捨流なので様になって来ただけ・・・似ている部分も多いから混乱するのだ。

それに比べ定国さんは凄げえ!!

この1年余りで格段に新陰流を極めて来た感じがする。

そして、師匠はまたそろそろ居を移す予定の様だが定国さんはここに愛着がわいた様で残りたいと言っている。

う~ん、決めるのは本人なので、俺が言えることでは無いので、もしここで別れたらその内また俺が会いに来たいと思っている。


さて、やはり定国さんは師匠と別れてここで研鑽を積む模様。

頑張って欲しい!その内に陣中見舞いに来るからな~


「蔵人、今回も頼む」

「了解であります!!」


今回も俺ナビゲートで旅に出ます。

師匠も田舎で英気を養ったようで復活して御座る。

今度こそ京を目指すとのことだ。

1年余りで魚の事はすっかり忘れているので尾張はスルーして京に向かおう!


次回 風雲急!疾風怒濤の京都編!!始まるよ~


★~~~~~~★


【注意】

末尾のうんちくはこれ以降〇~~〇で区切りますので必要ない方は飛ばし読みください。


〇~~~~~~〇


三好長慶は本当に運が悪いです。

三好長慶が生きている間は三好家が間違いなく天下を牛耳っておりました。

そもそも三好家は細川京兆きょうちょう家の家臣の1家でした。

家格から言うと将軍家の家来の細川家の家臣となります。

将軍から見てこれを陪臣ばいしんと言います。

それで、殆どの名門の者たち(将軍の家来の家)からは下に見られていました。

特に隣接地域の名門の近江六角・紀伊畠山とかは目の敵にしていました。

全国的にも三好家の事を「成り上がり者」と見られ見下されていたようです。

また天下を牛耳ってからも同格の者たちにも「成り上がり者」として蔑まれ下に見られていました。

まぁだから苦労したんでしょうけどね~

そもそも親父が死んだのが長慶が12歳の時、それから成り上がって最終は幕府内で相伴衆そうばんしゅう(管領の次の役職、要は幕府内では上り詰めた訳です。)になり、朝廷から従四位下修理大夫しゅりだいふに任ぜられています。

後世では「日本の副王」と言われるほどに権勢を誇ります。

しかし、今回出て来た十河そごう一存かずまさと言う弟にして軍部の要の1人が死去するし(1561年)、三好実休じっきゅう、またの名を義賢よしたかと言う甲斐武田で言う信繁のような存在の実弟が1562年に戦死します。

嫡男の三好義興よしおきは1563年に早世そうせい(若くして亡くなること、22歳だったようです。)しで散々です。

跡継ぎ予定だったこの義興も可成りの優秀な人物だったようですが、運が無い家ですね~本当に。

その不幸続きで精神を病んだ巨人、三好長慶は1564年に実弟の安宅あたぎ冬康ふゆやすを誅殺します。

病んでいたのか何か思惑があったのかは不明ですが、病んでてもおかしくない状況ですね~事実として少しだけ言動や行動がおかしかったようですし・・・

その隙を突いて政治的ライバルであった松永久秀が画策したと言われていますが事実は不明です。

1564年同年に三好長慶は病死します。

享年43歳だったと伝えられております。

その後、3年位で大三好は内紛でボロボロになりますから三好長慶と言う人物が如何に凄い存在かこの事実からでもわかります。

まぁ運が無いのに一時期とはいえ天下を牛耳るまで上り詰めた三好長慶がどれだけ凄いか・・・言うまでもなしですね~え?散々語っただろうって?ほほほほほ~気にしない気にしない!!

あ!1つ言い忘れました。

三好長慶の運の無さは作者の私見ですが城が関わっているようにも感じます。

長慶の父である三好元長もとなが飯盛山いいもりやま城にて一向一揆の軍勢に囲まれて自害しております。

最後が壮絶で切腹したのですが、腹を掻っ捌いた後にその腹の切れ目から自分の内臓を取り出して天井に投げ付けたと言うから凄い最期ですが、本当に出来たか・・・出来たとして凄い精神力です。

そして、長慶は1560年まで居城として使っていた芥川山あくたがわさん城を元三好家が居城として使っていた飯盛山いいもりやま城に戻しました。

その年から三好家の運気がガラリと変わったような出来事が色々続きましたが・・・三好長慶にとってこの城は鬼門だったのかも・・・

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