第44話

「是非とも弟子にしてくだされ!!」


師匠が帰って来ると速攻で弟子入り志願する奥平おくひら定国さだくにさん。

師匠は困惑して俺と豊を見詰める。

時は半刻ほど戻る。

集中できないと言った俺に呆れた豊と奥平さんにちょっとムッと来た。

はいはい、豊は一応は教えてくれているのでまぁ百歩、いや千歩、いやいや万歩譲って許そう。

え?料簡りょうけんが狭いな~と?・・・千歩譲ろう・・・

しかしだ、原因となっているジッと凝視する彼、奥平さんは許されない!!

客だろうって?俺の客じゃない!師匠の客だ!!

もっと駄目だろうと・・・いや、彼はきっとろくでもない挑戦者だ!ここは一つ豊がらしめてやろう。

お前がやれと?ははははは~俺は入門仕立ての卵の殻すら割れていないまんま玉子ちゃんよ?そんな者が相手するとかありえんからな!!


「奥平殿、見ているだけではお暇でしょう」

「いや、見ているだけでも大変勉強になり興味深い」

「いえいえ、師匠を待つお客様をもてなすのも弟子の務め!」


豊が俺の何やら怪しい気配を察知したようで、腕を引っ張り少し離れた場所へと連れてくる。

何だよ~今から奥平さんをこらしめ・・・おもてなししようとしてるんだぞ!!


「おい、長、何か悪いことを考えているだろ?」

「い~や~全く」

「俺の目を見て言ってみろ」


俺は豊の目をじっと見詰めてもう一度先ほどと同じ言葉を言う。

数々の事を乗り越えてきた俺には御茶の子さいさいヨ~「天恵」とか「天狗」とかよ~

あまりにも俺が目を逸らさずにじっと見詰めるので豊は諦めた様に息を吐き俺の考えを聞いて来る。


「それで、何をくわだてようとしている?」

「いや~先ほどの奥平殿の態度が少し・・・いや可成りムッと来たから、お手合わせでもして頂こうかと思ってな」

「ほう!面白そうじゃ!!」


俺はニコリと笑うと豊も笑う。

ちまたでは悪い笑みとでも言うのかもしれないが二人とも大変いい笑顔である。

豊は速攻で俺のはかりごとに乗って来た。


「よし、面白そうだし乗ってやる」

「流石は心友!!」

「じゃあ長よ、頑張れ!」

「はぁ~?ここは高弟こうていの豊の出番だろ?」

「はぁ~?企てた者の責務だろ?」


ジャンケンで決めることとなった。

そして、今回は俺が負けて奥平さんと俺が対戦することとなった。

仕方ない、面倒臭いがいっちょもんじゃるか~


「奥平殿、是非一手立合いましょう」

「それは有難いが良いのか?」

「いいんです!!」(川ピー慈英風)


何時もの様に放送倫理規定に抵触したようでが入った。

そんなことはどうでも良いと?何でそんなこと言うんだ?はよ話勧めろ?ははははは~せっかちさんめ!

そして、立合ったんだが今の玉子ちゃんな俺では相手にならないと二三度打ち合って理解したし、豊が余りにもゲラゲラと笑うのでタイ捨流の封印解除。

これはお遊び!稽古でないので

あっさりと三連続で勝ちました。


「失礼仕った!!是非弟子に!!」

「いや~某自体が今、信綱師匠の弟子でして・・・」

「う・・・上泉殿に弟子入りすれば其方とまた打ち合えるという事か?」

「え~と・・・そうなりますね~」


はい、冒頭に戻る。


事情を説明して師匠は溜息を吐きながら弟子入りを認めた。


後に彼は奥山おくやま休賀斎きゅうがさいと名乗る。

一年ほど上泉信綱の下で新陰流を学び、後に奥山神影流を創始し、海内無双かいだいむそう(東海道エリアで敵無し)と呼ばれ、多くの弟子を持つ身となった。

姉川の戦いに参加し功を上げ徳川家康の目に留まりその後重用された。

それはさて置き、ここに後に上泉門下四天王と呼ばれる面々が揃ったのであるが・・・


(姉川の戦いで当時家康の家臣で奥平信昌のぶまさと言う人物が居ました。彼については下記うんちくで少し詳しく?語りますが、この人物が見事な戦いぶりだったので「誰に手解きを受けた?」的な事を家康が聞くと、「奥山流」と信昌のぶまさは答えたそうです。家康は当時から有名だった奥山休賀斎だと直ぐに気が付き、休賀斎は召し出され仕官したと言う説もあります。7年間家康に剣を教え、その後に御台所御守役(築山殿付き)を命じられて病に伏すまで務めたそうです。奥山休賀斎は教え上手だったようで、多くの門人を輩出しておりますが、中でも小笠原おがさわら長治ながはるが凄いです!明(中国)に渡り矛を習得して「八寸はっすん延金のべきん」と言う奥義を編み出したらしいのですが、帰国後に多くの者と立合いましたが無敗で、上泉信綱でも適わないだろうとまで言われたそうです。残念ながら失伝して、後に後世の人間によって復元されましたが当時のままかは・・・幻の剣技の一つとして知られています。丸目蔵人佐とは晩年に会うことは可能ですが・・・はてさてどうすべきか・・・)


★~~~~~~★


奥山休賀斎は奥平おくだいら貞久さだひさの七男として生まれました。

この奥平貞久という人物は三河国亀山かめやま城主の奥平定能さだよしに仕えていたようです。

奥平定能は奥三河(東北部の山間部)の有力者で、山家三方衆やまがさんぽうしゅうと呼ばれる一角でした。

あの有名な奥平信昌のぶまさのパパとなります。

奥平信昌を知らない人の為にご紹介。

この当時は今川義元に服属しておりましたが、後に徳川に服属します。

時は1573年、武田信玄が死去した情報が奥平家に伝わると、当時武田に服属していた奥平家は徳川家に寝返ります。

それを知った武田勝頼が怒り一万五千の兵で奥平信昌の居る長篠ながしの城を取り囲んだそうです。

その際に登場するのが鳥居とりい強右衛門すねえもんと言う武士ですが、城の窮地を伝える為に岡崎おかざき城にいる徳川家康の下に命懸けで伝令に向かいます。

家康も武田の動きを察知し同盟相手の織田信長に援軍要請していたそうです。

強右衛門が岡崎に到着すると丁度、織田の援軍が到着しており、信長・家康両名に状況を伝えることが出来たそうです。

明日には援軍に向かうので安心して休むように言われた強右衛門は味方にその事を少しでも早く伝えたいと言い張り長篠城に引き返しました。

長篠城から見える山から味方に狼煙を上げたそうなのですが、そこで武田に捕まります。

「味方に援軍が来ないと伝えれば悪い様にしない」的な事を言われそれを強要されて、それに嫌々合意した強右衛門は長篠城の味方の見える位置へ引き立てられたそうです。

そこで、「織田・徳川連合軍がここに援軍で向かっているぞ~それまで頑張れ!!」的な事を言ったそうですが、その約束を違えた言に怒った武田勝頼は彼の処刑を命じました。

それを聞いた城兵奮闘し二日後に援軍が到着してそれまで守り切り落城はしなかったそうです。

この強右衛門の忠義に感銘を受けた武田方の武士がそれを書き残して自分の背負い旗にしたそうです。(落合左平次道次背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図として残っております。)

強右衛門は日本一有名な雑兵等とも呼ばれます。

また、日本の戦国版走れメロスとも・・・

話大分逸れておりますが、強右衛門が城を出る時に残した辞世じせいの句が泣けます。


『我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士もののふの道』


と言う物です。

武士の鏡の様な句ですが、実行した事と句が重なると説得力が増し実に良い辞世の句だと思います。

察しの良い読者はもうお解りと思いますが、この句を紹介したかった!!


実はこの戦いは武田家滅亡に繋がる序章で城の名前からお察しかと思いますが、長篠の戦いへと繋がっていきます。

そして、奥平信昌のぶまさはこの時の城を守り切った功で大般若長光だいはんにゃながみつと言う今は国宝指定を受ける太刀を拝領します。

この太刀は今は東京都国立博物館に所蔵されているそうです。

この刀が何故国宝指定されたか?と言うのは来歴が凄まじいです。

足利義輝→三好長慶→織田信長→徳川家康→奥平信昌~~→伊東巳代治みよじ伯爵(大日本帝国憲法の起草者の一人、要は当時の偉い人)

ネーミングも面白くて鎌倉時代にこの刀は当時破格の600の値が付いたそうです。

大般若経と呼ばれる経典がありますがこの経典が600あるそうです。

そう駄洒落です!

そして、製作者の長光さんの名を付けて大般若長光だいはんにゃながみつ!!

ついでについでに、奥平信昌は家康の長女亀姫かめひめ(実は築山御前との間に出来た子)と結婚しますが、この時の褒美の一つでそうなったようです。

生涯、奥平信昌はこの亀姫と添い遂げ側室を置かなかったそうです。

ええ話ですね~

今回はうんちくマシマシでお送りしました~

ここら辺に丸目が関りになれそうにないので今回はうんちくとして語りました!!

奥山休賀斎どこ行ったって?・・・これから度々登場させるので彼のうんちくは何時でも語れます!!

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