編集済
ささやかな誤字を発見したのでお知らせまで。
>この武田信繁をリスペクとしていて
孫次郎さんは家康公、秀忠公のお師匠様では?
隆慶一郎『捨て童子 松平忠輝』でも忠輝の師匠役やってたような。
弟四天王の残り3枠
豊臣秀長(弟と聞いてこの人を忘れるなかれ)
香曽我部親泰(この人も有能で忠実な弟)
残り1人が迷うのですが、既に登場した北条氏照かなあ。
島津義弘は兄の後を継いじゃった(そうじゃない説も最近あるらしいですが)ので、毛利両川は父と甥は助けたものの兄とは仲があんまり良くなかった説(そうでないと元就が三本の矢の説教をしない)があるので除外。
作者からの返信
コメありがとうございます。
誤字報告ありがとうございます。
早速修正させて頂きました。
『捨て童子 松平忠輝』懐かしいです。
私も昔読みましたが、面白い作品ですよね~
結城藍人さんの弟四天王、中々興味深いですね~
人により違いがあると思いますよ~
元就の3本の矢は創作らしいですね~
元就は死に際に1本なら折れる矢が束になれば折れにくいと言ったようですが、死に際?そんな余裕ないよね~ってことで三子教訓状と言う元就が3人の息子に書いた書状が元と言われています。
と言うより3本位だと折れます!!
1本ならこのように折れる!バキ!!2本も少し力を入れるとこの通り!バキ!!しかし、3本なら力を入れようと!バキ!!あ・・・
て展開しか目に浮かびません!!
兄弟仲は悪くなかったようですが、領土が一気に増えたことと、大内の内紛を見て仲間内での争いの愚を元就が感じ子供たちにその愚を犯さないようにと説くためとか、下剋上を禁止し長男の家督相続を確定し毛利家本家の権威を守る為とか言われますね~
毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の3人の連名と花押まで押させたと言うからかなりの念の入れようですね~元就らしいと言えばらしいですが。
1、奥平さん
2、島津義弘、小早川隆景、三好実休
あまり自信なしw
作者からの返信
コメありがとうございます。
2はいい線いってますね~それもありかもと思いますが私的に絶対外しちゃいけない人を外している様に感じますが、如何ですかね~次話で答え見てご納得いただけると良いな~とは思ってます。
最新資料によると箕輪落城は永禄9年です。
柳生宗厳の印可状は永禄8年。
言継卿記での記載が永禄12年から。
上記から類推すると上泉武蔵守一行は、箕輪落城前に関西方面に移動はしているけれども京都には到着していない事となります。
今回書かれた内容ですと箕輪落城が永禄6年と言われていた過去の文献の記載のように思われます。
作者からの返信
コメありがとうございます。
お目が高い!
都合のいい様にしているのであまり史実と照らし合わせると齟齬が出ると思いますよ~
書く前に文献漁ってみたんですけど1566年(永禄9年)箕輪城が落城と言う説が正しい様に感じますが、それだと上泉信綱を色んな所に引っ張り回せないので落城を速めております。
仕えている所がピンチなのにフラフラと何処かを回ること難しいですからね~
それに、余り遅いと色々な戦国イベントに乗っかれないのである程度都合の良いように弄っているので史実の年表を追うと混乱すると思います。
あくまでも創作なので史実に合わせるより面白いと考えたものを採用してます。
それを踏まえてお読み頂ければと存じます。
ストーリーの現在の年代は1560年位なので、大体そろそろ桶狭間ですね~一応歴史的大事件は出来るだけ史実通りの年代に持ってこようとは思ってます。
追記です。
一応書いてはいませんが主人公が北条に行ったことで北条の上野攻略の本気度がUPして歴史が変わったて感じで私の中で勝手な言い訳をして箕輪城の落城を速めてます。
加賀ルートだと少し違う形で上泉と会うまでは書く予定だったのでお許しを!
弟四天王かって言われると微妙ですが
地味に宇喜多忠家って有能弟上位に入ると思います。
あの兄に殺されないでむしろ信頼されてる時点でいろいろおかしいですw
異論しか認めませんw
武田さんちですと典厩さんが有能すぎて下げられがちな逍遥軒さんも
決して無能ではないとは思うんですが、こちらも異論しか認めませんw
北条さんで思い出しましたが
既に出てる氏照さんの影に隠れてますが、氏規さんもかなり有能な気がします。
もちろん異論しか認めませんw
作者からの返信
コメありがとうございます。
作者の独断と偏見マシマシで選んでおります。
考えるの楽しんで頂いた様で何よりです。