第六章⑤ わたしのトロフィー

 十二月の二十四、二十五日は、その前後に比べるとお客の数は少なかったが、対応する店員も少ない状態だったのでやはり忙しかった。


 ナンパ目的の男性客が、サンタクロースの格好でなんのテレもなしに店内に入ってきて驚いた。最初のインパクトに全てを賭けていたのだろう。


 しかし、彼の意欲は買うが、残念ながらわたしの知る限りこの日店で新しい幸せは何も生まれなかったと思う。


 忘年会に加えて秋田出身の学生たちの帰省が始まると、店の混みようはいよいよもって恐ろしいことになってきた。


「熱燗7、モスコミュール2、ストロベリーミルク4、ソルティドック2、リンゴ酒フィズ1お願いします!」


「大根サラダ3、薄焼きピザ3、皿うどん2、焼き鳥盛り合わせ10、塩6、タレ4で!」


「おい、ジョッキがねえぞ。誰か洗い場に入れ!」


「ごめんなさい、ほっけの開き落っことしました!」

「またか、みどり」


 もうみんな常に小走りである。


 宴会が終わると、大きなお盆に山となってあふれかえるほどの空いた食器を載せて運ぶ。


 ジョッキを片手で五個同時に持つ。小指を立てて持つようにすると、それが支えになって持ちやすいのだ。


 二十八日の仕事納めを迎えて、社会人の客がさらにどわっと加わる。


 店の一日あたりの売り上げ金額は、五十万円を越えると相当な忙しさで、終わった後みんな動くのが億劫なくらい消耗してしまうのだが、二十九日にその金額は八十万円にまで達した。


 昼間に由里ちゃんが電話をくれた。

「お父さんが説得してくれました。わたし古川商業を受験します」


 彼女のかすれた声はわたしに力を与えてくれた。


 三十日。高木くんが熱を出す。


「大丈夫、うつる病気ではないみたいだから」


 彼はそういって、赤い顔をしながら走り回った。


「うつる心配なんかしてないよ。無理しちゃだめだよ」


 しかし他の人たちも体調は良くない。わたしも少し前から頭痛がして薬を飲んでいる。


 一人欠けたらドミノ倒しのように総崩れになってもおかしくない。無理せざるをえないのだ。


 いつもならば実家でこたつに入って一日ごろごろしたり、年末年始に寝正月するためにお菓子を山ほど買い込んで至福に浸っている時期だというのに。なんという年末。


 生ビールの入った大きなドラム缶を取り替える。なべ用のガスコンロを並べる。酔っ払いに声をかけられたら、笑ってやり過ごす。


 チーズスティックを一本かじる。カクテルの原液が切れてしまったら、すばやく皆に通達する。


 膨大な量のジョッキを前にして、わたしは洗い場に座り込んでしまいそうになったが力を振り絞る。一心不乱にスポンジで洗いものを続けていると高木くんが通路の暖簾から頭を出して、何かわたしに声をかけた。


「え、何?」

「あけましておめでとう。みどり」


 わたしは驚いて壁に掛けてある時計を見た。知らないうちに年が明けてしまっていた。まったく気に留めている余裕がなかった。


 いつもならばこの時間は家族と正座して、笑顔でお互いに挨拶を交わしているというのに。


 いや、もはやいうまい。わたしはもう子供ではなくなってしまったのだ。自分の力で行けるところまで行くしかないのだ。


 よって、ここはクールに。

「あけましておめでとう、高木くん。今年もよろしくね」


「みどり気付いてた?」

「何が」


「今日お前、一回も怒られてない」

「・・・・・・あ!」


 これには本当にびっくりした。しかし言われて見ればそうだ。初めてのことだ。


 わたしはいつのまにか、怒られたらどうしようと案じる余裕もなく走り回っていた。それが良かったのだろうか。


 バスケの試合でも、土壇場になると集中が極限に高まって、チームの心が一つになったような気がしたものだ。


 みんなと仲良しだったわけではなくて、チームメイトといえども苦手な人はいたけど、なにもかもどうでも良くなった幸せな瞬間があった。


 部活が終わってこれから大人へとなっていく自分について考えた時、この先あんな時間が訪れることがあるのかと思うと寂しかった。


 現にこうして苦しいことばかりだった。


 けれど、現にこうして楽しかった。


 元旦の朝は昼まで寝ていた。また頭痛がしたが実家に電話をかけて、元気な声を作って親に新年の挨拶をした。


 六日の夜に八時くらいまで働いてから電車で実家に帰る予定だった。まだ先は長い。


 それから近所の神社に歩と高木くんとで初詣に行った。


「やせたね、みどり」

 歩が驚いた。


「そうなのよ、いいでしょ?」

 わたしと高木くんは疲れ果てていたし、歩はまだいつもの元気はないようで三人とも言葉少なだった。


 わたしはお守りをひとつ買った。

「みどり、縁結びだな」

「縁結びね、長友」

「断言しないで。ちがうよ」


 その夜も壮絶な数のお客さんが押しかけた。故郷で久しぶりに会う旧友との楽しい時間。学生もいれば、年配の方もいる。わたしも来年はこういう正月を過ごしたい。


 座敷の入り口のところで、男性のお客さんが二人陽気に立ち話をしていて、お盆を両手でもつわたしはその先に行きたいというのに立ち往生してしまう。


 わたしはまた怒られるのが怖くてどいてくれと言えずにいた。するとそこに高木くんがやってきて、人懐っこい笑顔で話しかけた。


「すいませーん、こいつ、通してやっていただけますか?」

「おー悪い」


 お客はにこやかに道を開けてくれた。


「ありがとう、高木くん」

「おう」


 やさしいではないか。


 高木くんの、こういう明るくて物怖じしないところは素直に感心する。


 彼はまだ熱が引いていなかった。休憩時間につらそうにしている姿を一度だけみかけた。


 二週間後に控えたシビックタイプRの納車が、彼の精神をかろうじて支えていた。


 今の高木くんの姿を見ても、コンちゃんは意味のないことと断じてしまうのだろうか。


「お願いします!」

 店長のキレ気味の声が響く。


 わたしは焼き鳥盛り合わせを手早くお盆に載せる。振り返ったところに、汗だくで両手にチューハイのジョッキを持つ高木くんがいた。ぶつかるところだったが二人で体をひねって、ステップを踏んできれいにすりぬけた。


 瞬間、お互いがスローモーションになったような錯覚を覚えた。彼のことを、心を、とても近くに感じた。


「わり」

「ども」

 

 高木くんの横顔は笑っていた。わたしもきっと笑っていた。


 一月二日、この日、売り上げ金額はついに百万円まで伸びた。

 

 そしてやっとたどり着いた。一月六日。


 本当にやっとだ。三が日を過ぎたらようやく客足が落ち着いてきた。高木くんの体調もなんとか持ちこたえた。


 八時だ。わたしはこれから実家に帰る。そしてこの店でのバイトも今度こそ終わりだ。次はないと思う、恐らく。


 店長は得意先と飲みに行ってしまっていたので、店は気楽な雰囲気が漂っていた。彼にはすでに挨拶はすましてある。


 わたしはテーブルをきれいに拭いて、区切りのついたところで調理場の太った店員と、髪を縛った店員に「すみません、それじゃそろそろ」と声をかけた。


「おう、そっか」


 わたしは二階の更衣室で着替えた。ほっとした。なんとか務め終えることができたのだ。


 迷惑ばかりかけちゃったけど、あいつは駄目だったなーと語り草になってしまうのかもしれないけど、自分の意地のようなものは見せることが出来たと思う。


 階下から店のざわめきが僅かにもれ聞こえてきた。ついさっきまで身を置いていたその音は、もう既に懐かしさを帯びて遠ざかり始めていた。


 着替え終わって客席フロアに下りたところで、髪を縛ったほうの店員が厨房の奥に向って叫んだ。


「みどり帰るってよー」


 すると、予想外のことが起きた。

 おばちゃんたちがエプロンで手を吹きながらわらわらと表に出てきたのだ。高木くんたちバイトの面々も、仕事の手を止めて集まってきた。


「えっ、えっ?」


 店の人全員とわたし一人が対面する形になった。みんな穏やかに笑っていた。


 わたしはてっきり誰にも惜しまれずに去るのだろうと思っていたのだが、そうではなかったのだ。


「気をつけて帰んなよ」

「今日までご苦労さん」

「次はお客で来いよ」


 太った店員がビニール袋をわたしに手渡した。


 中身は、折り詰めの容器に入った散らし寿司。店長がいないもんだから店の高い食材を勝手に使って魚介類がびっしりと入っている。

 いくら、えび、細く切った卵焼き、貝に刺身。


「電車のなかで食ってけ」


 わたしは手を振り続けるみんなに何度も頭を下げながら店を後にした。


 帰省の荷物は持ってきていたのでそのまま駅に向かい、自転車は駅裏の駐輪場に停めて九時の電車に乗ることが出来た。


 動き出した電車の窓からは街の光がきれいで、わたしが毎日降りて登った明田地下道があっというまに通り過ぎていった。


 座席に腰をおろして、ホームの自販機で買ったあったかいお茶を一口飲んでから、色あざやかな散らし寿司を膝の上で広げた。


 それはあまりにおいしくて、わたしは子供のように泣いてしまった。

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