第六章④ 歩とマーくん
マーくんは戻ってこない。歩は彼が去って行ってしまった方を泣きそうな顔で見つめている。
「だって、しょうがないじゃないの。本当にわたしなんかよりずっとお似合いだと思うんだもの。わたしと一緒にいたって、マーくんはつらい思いするだけなのが分かっているんだもん。これから色んなものがずれていく一方なのよ。だからわたしなんかより」
「歩」
わたしはコーヒーをスプーンでゆっくりかき混ぜながら言った。
「次にわたしなんかっていったら、ひっぱたくよ」
「俺はひっぱたきはしないけど」
高木くんがフライドポテトをかじる。
「それ以上もたもたしているんなら、俺があいつを追いかける。わかるよね。ここで歩が追いかけなかったらもうそれっきりだ」
歩は一度立ち上がろうとして、再びしゃがみこんだ。数秒頭を抱えていたが、ついに意を決した彼女は立ち上がった。
「長友、高木くん、わたしちょっと行ってくる」
「いってらっしゃい」
「ごゆっくり」
店の窓から、凄いはやさで自転車をかっとばす歩の後姿が確認できた。由里ちゃんが「いい脚力してますね」と感心した。さて、この子にも状況を説明しておくか。
「家庭教師と生徒の禁断の愛ってやつですか。ほえー、想像し難い大人の世界だ。わたしはボールを追いかけていれば幸せなもので」
「俺と由里ちゃんの間で何かが芽生えるようなものか」
由里ちゃんはじっと高木くんを見つめて、「すいません。まったくぴんと来ません」と返した。
高木くんはむっとして「小さいからか? 俺が小さいからか?」とまくしたてた。
「こいつはこいつでいいところも少しはあるのよ」
「へえ」
それから十分ばかり。内心は表に出て行った二人のことが気になっていたが、三人はまったりとくつろいでいた。しかし、そろそろかなとめぼしをつけたわたしは、コートを手に立ち上がった。
「迎えにいってくる」
「おう」
大通りを歩が消えた方向に少し行くと、こっちに向ってとぼとぼと自転車を手押しして歩いてくる彼女の姿を見つけることができた。
歩の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。でも、きれいだった。わたしはジーンズのポケットからハンカチを取り出して、彼女の顔を拭いた。
「歩ってばせっかくがんばって化粧したのに」
「わたし断ってきたよ、ちゃんと」
「そう・・・・・・。うん、ご苦労様」
「でも家庭教師は続けるから。必ずあいつを秋高に受からせてやるんだ」
「そうこなくちゃ」
できることならば、幸せそうにはにかむ歩の姿を見てみたかったが、彼女が魂を削るようにして出した結論ならば、もはやわたしがいうことは何もない。
歩は悲しいほどに根がまじめなのだ。つきあってみれば案外何とかなるとは、最後まで思えなかったのだろう。
『いつまでも応援し続ける』
『わたしの八月と三月は甲子園にいくために一生予定を空けておく』
歩のさっきの言葉。
あれは彼女なりの愛の告白だったのではないだろうか。
そして別れの言葉だったのだ。
彼女は帰った。何度も謝りながら去っていった。
店に戻ると、高木くんと由里ちゃんが面白い雰囲気になっていた。かなり長い沈黙が続いていたのだろう。お互い別方向を向いて、高木くんは車のカタログを、由里ちゃんは参考書を読みふけっていた。
由里ちゃんはわたしに気づくと、助かったとでもいうふうにぱっと顔が明るくなった。
「みどり先生、おかえりなさい。どうでした」
「うん、決着ついたよ」
わたしはそれ以上言わなかった。由里ちゃんはそんなわたしの様子に答えを察して、小さく頷いた。高木くんはカタログに目をやったままで、ふうっと息をついた。
「なんだか、予想外の展開になっちゃったわね。けど、だからこそ、カラオケにぶわーっといっちゃおうか」
「いいですね」
由里ちゃんが参考書をしまうとき、黒いかばんから古川商業の入学案内が覗いているのが見えてしまった。
「由里ちゃん、それ持ち歩いているんだ」
「あっと、いかんいかん。すみません。未練がましいですよね」
「謝ることじゃないわよ」
入学案内は高木くんの車のカタログと同じで、何度も読み返したためにあちこちに折れ目や汚れがついていた。思いの深さがそこに見て取れた。
「それさ。ちょっと俺、見てもいい?」
「はい?」
高木くんは由里ちゃんから入学案内を受け取ると、ぱらぱらとページをめくった。
「お、進学実績だ。あれ、こんなにいいんだ」
高木くんの目が細かく動く。由里ちゃんは眉をしかめて彼の様子を眺めている。
「有名私立への指定校推薦枠を持ってる。・・・・・・これスポーツ特待生じゃないみたいだな。ふうん」
「高木くん、なにか気になるの?」
何度も見返してから、彼は入学案内をテーブルの上にそっと置いた。
「ここ、スポーツだけが売りの学校から方向転換を図っている最中だね。進学コースができて年々実績が向上してる」
「え、そうなんだ」
わたしも入学案内に改めて目を通してみる。ほんとだ。
「商業高校を名乗っているけど、進学校といっていいレベルだよ。俺が家庭教師やったとき秋田市内の学校のレベルを調べたけど、北高と変わんないんじゃないの」
高木くんは、「前のほう見て」と私のもつ入学案内のページをめくって、指で『進学コース』の出願、試験の日程を指し示した。
「間に合うよね。出題傾向もあんまり偏屈でなければ、いまからの準備で大丈夫だろ。由里ちゃん、北高いく力があるんでしょ?」
「高木くん、スポーツ枠じゃなくて普通に受験しろって言ってるの?」
由里ちゃんは、日程のページを見つめながら、戸惑いの表情を浮かべている。
「バレー部員は全員『総合コース』です。『進学コース』の生徒は勉強に専念する為に部活に所属することは禁じられているんです。それに選考合宿に参加していなければ入部もさせてもらえないはずです」
「有望な選手ならば、慣例を破ることってあるもんだよ。少なくても、もぐりこむことができれば、可能性はゼロじゃなくなる」
三人の間に言葉が消えた。
やがて高木くんが、かつて見たことのないほど慎重に言葉を選びながら話しだした。
「無責任なことはいえない。ただ確かなのは残っている方法がまだあるってことだ。進学コースで勉強もがんばることを約束すれば、親を説得できるかもしれない。でも両立は大変な道だ。補習や試験なんかで練習に出られない場合もあるはずだから、風当たりだって強くなることがあるだろう」
わたしは彼の横顔をじっと見つめていた。
見とれていたのかもしれない。
「なあんだ」
由里ちゃんは、高木くんを指差しながらわたしに言った。
「ちゃんとした人じゃないですか」
「ひでえな」
「誰もちゃんとしてないとはいってないけど、まあそうね」
彼女は笑った。
「高木さんのいうとおりです。残っている方法がまだあった。わたしには取り急ぎそれがなによりも大事なことなんです。わたしは物分りのいいふりして笑っている場合じゃないんですね」
由里ちゃんの目に光が宿る。
三人で店を出るとき、ドアの外のところで由里ちゃんは「メリークリスマース!」と叫んで高木くんを突然抱きしめた。身長の関係上、高木くんの顔は彼女の胸のあたりに押し付けられた。
良かったね、高木くん。
人数は減ってしまったけど、なくしたと思った希望をもう一度拾うことができた由里ちゃんのテンションの高さも手伝って、カラオケは盛り上がった。
二時間歌ったあとで解散して、わたしはそのまま労働へと向うことにする。高木くんはもともとの予定通り今日は休める。
「んじゃ、働いてきますわ」
「みどり先生ご苦労さま。今日はありがとう。わたしもうひと悶着、やってみます」
「またね、由里ちゃん。わたしにも何か協力できればいいけど」
「こっそり電話します。相談に乗ってください」
「うん」
由里ちゃんの大きな後姿を高木くんと二人で見送った。彼は寒そうに肩を震わせて歩き出した。わたしもついていく。自転車の鍵を開けながら、高木くんが自分にも言い聞かせるように呟いた。
「さ、ここからが正念場だあ」
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