第七章 かもしかを見た

第七章① 由里ちゃんの受験

 ぐっすり眠って目を覚ましたときには十時を過ぎていた。


 実家から戻ってきて初めての休日。


 あの恐るべきバイトの日々が終わっても数日は神経が高ぶった状態が続いたが、ようやく落ち着いてきたようである。


 『大変な苦難』を我々は乗り越えたのだ。次はそれによって得た正当な報酬を受け取る番だ。


 黄色いカーテンを開けると窓は結露の水滴がたっぷりついていた。


 手で水滴を拭くと外は雪だった。天気予報では今日は荒れるとのこと。風はいまのところそれほどでもない。


 ストーブの電源を入れて着火までのもったいつけたうなり声を聞きながら、わたしはベッドに腰掛けてひと震えしてから着替えをした。


 今日はわが戦友、高木優斗にとって生涯忘れ得ぬ日となるだろう。


 彼は今頃ホンダのディーラーにいるはずだ。シビック・タイプRの納車のために。


 おとといもディーラーに足を運んだそうだ。おそらく昨日も行ったのではないかと思う。


 何故か。


 手続きは終わっていたし、日付を間違えたわけでもない。


 彼は、すでに工場より到着して細かい整備が終わるのを待つ、カバーをかけられた自分の車の姿をわざわざ見に行ったのだ。


 至近距離まで近づいたが触りはしなかった。


 今日この日、ドアを開けてエンジンをかけるその瞬間に初めて触れると心に決めていたのだ。


 昨日の夜は眠ることができなかったのではないか。かばんに芳香剤や大きなバックミラーを詰め込み、浮かれた足取りでディーラーに向かったことだろう。


 ローンを組んだのは彼の父親だが、今日の納車には同行しない。父親にも思いはあって、わざわざ埼玉から来ようと言ってきたのだが、高木くんは断った。今度乗せてやるからと笑って申し出を断ったそうだ。


 部屋の電話が鳴った。


 寒い日には不思議なもので、電話の音すら冷たく聞こえる。受話器をとる前から不吉なものであるかのように思い込んでしまいそうになる。


 しかし、それは和さんからの電話だった。


「起きてた?」

「失礼な。人を何だと思ってるのよ。この時間はさすがに起きているわよ」

 今着替えたところだけど。


「暇だったらさ、今日飯でもどう?」

「和は暇なんだ」

「悪かったな」

 暇なんだ。


「わたし昼間は用事があるけど夜ならいいよ。ごはん食べにいこ」

「うん、どこか希望ある?」


「駅のあたりにしよっか。実は今日ね、由里ちゃんの見送りにいくのよ」

「みどりが家庭教師やってた子? 古川商業を受けるっていう」


「そう、明日がついに進学コースの受験でさ。電車で今日のうちに学校のある宮城県の古川市に移動して宿泊するの。父親は出張で秋田を離れているから母親が一緒に行くって」


「母親って、確かみどりとは関係が」

「ええ、よろしくないですことよ。だから電柱の影からでものぞきに行ってくるわ。わたしに出来ることなんてそんなものよ」


 わたしは由里ちゃんの見送りが終わったら駅前のお店をめぐるつもりだった。


 和さんに買い物までつきあってもらったら、完全にデートになってしまうなあと内心思っていたが、彼は六時半ころ駅前の停車場にやってくると言ったのでそうはならないだろう。


 部屋がだんだんと暖まってきてもう一眠りできそうな心地よさだが、電車の時間が迫っていたのでわたしは身支度の続きをした。


 外の雪はまだまだ軽い準備運動といったところだ。


 由里ちゃんとはうまいこと言葉を交わすことができた。


 駅の広い構内でも背の高い彼女はすぐに見つかった。


 柱の影のわたしと目が合った制服に濃紺のコートを着た由里ちゃんは、トイレに行くふりをして、母親を置いて一人でこちらへと歩いてきた。


「先生、来てくれたんだ」

「いい準備できた?」


「はい、先生のおかげです」

「あれっぽっちでそんな」


 クリスマスの後、わたしたちは一度ファストフード店で会った。そんなに時間は取れなかったが、古川商業の過去問の分析をして、彼女にちょっとしたアドバイスをした。


「母は完全に納得はしてなくて、ぶつぶつ言ってます。落ちればいいと思っているのかも」

「仕方がないよ。受験は許してくれたんだから良かったじゃない。普段通りにやれば必ず受かる。普段よりちょっとくらいミスしても十分受かる。しっかりね」


 わたしは白いコートのポケットから、初詣の時に買った紫色のお守りを取り出して、由里ちゃんの大きな掌に渡した。


「ありがとうみどり先生。行ってきます」


 彼女は母親のもとへ戻っていった。


 母親が由里ちゃんを見る目には冷たさが感じられた。


 改札を抜けたところでもう一度こちらに視線を向けた由里ちゃんに手を振ってから、わたしは駅の外を出た。


 ビルの隙間から笛のように風のうなり声が低く響き始めていた。雪も少し大粒になっていたが、道行く人たちはさほど気にしているようでもない。


 高木くんに指摘されるまで気がつかなかったのだが、東京の人は雪が降るとなんと傘をさすのだそうだ。「どうしてささない?」と彼が聞くので、わたしは「どうしてそんな必要がある?」と答えておいた。


 フォーラスに入って、最上階の映画館も含めて巡回していった。


 映画を観る予定がなくても、わたしはポスターを眺めて時間をつぶすのが好きだった。


 自分がもし映画館のもぎりだったら、ああ貧しい子なんだなと同情してこっそり中に入れてあげたくなってしまうくらいに、映画館の前を行ったり来たりするのが常だった。


 和に映画観ようと誘ってみてもいいかも。『タイタニック』もう観ちゃったかな。


 先月のバイト代は手取りで十三万を越えていた。時給の低い秋田でこれは驚異といっていい数字だ。


 買おうと思えば何でも買える状態のウインドウショッピングは、気分がいい。


 今日は荷物を増やしたくなかったので、CDを二枚とアクセサリーをひとつ買っただけに留めた。


 お金の使い道については歩のようにPHSを買うという案も考えられたが、あれは高い通話料をずっと払い続けなければならないのだからちょっとためらう。


 そのあとイトーヨーカドーを見てまわった。更には、普段は高いので敬遠している西武も覗いてみた。


 日が沈む頃には雪がいよいよ強くなってきた。


 待ち合わせの六時半近くになったので、駅の前に戻った。わたしと同じように誰かを待ち合わせている人が数名いた。


 さっきイトーヨーカドーで買った本を待っている間読もうかと思ったが、屋根の下にいても雪が吹き込んできて、本が濡れてしまうのが嫌だったのでやめておいた。


 駅前の通りを車が群れを成して通り過ぎていく。雪の向こうのヘッドライトは一塊になって、滲んでいるように見えた。


 時間を過ぎてしばらく待っても和さんは来なかった。


 途中冷えたので一度トイレにいって、その間に来ていたらまずいと思って急いで引き返してきたのだが、やはりまだ彼の姿はなかった。


 さて、寒いなあ。


 彼に限って、わたしとの約束をすっぽかすなどということがありえるだろうか。


 十分ありそうだなあ。今までの行動パターンからいって。


 そのときバイクの音が聞こえた。


 泥雪を散らしながらわたしに近づいてきた青と白のバイク。


 黒いダウンジャケットを着た和さんの後ろには、こげ茶色のコートを着た小柄な女性がしがみついている。


 和さんと歩だった。


「なーがーとーもー!」


 駅前に歩の叫びが響く。バイクがわたしの目の前に止まった。


「よかった、会えた」

 歩はバイクから飛び降りて、ヘルメットを脱いだ。


「ずるい、歩まで和さんのバイクに乗った。もう乗ってないのわたしだけじゃん」

 わたしは真剣に抗議した。


「それどこじゃない。長友、緊急事態よ」

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