第六章② 明田地下道

「で、長友は、クリスマスイブも出勤になっちゃったのね」


「出られるかって聞かれたから、あまり考えずに『はい』っていったらさ、その日はバイトで出るのはわたしだけでしたとさ」

「ほかのバイトさんたちは、みんな予定があるってこと?」


「高木くんは見栄で言っているだけだけどね」

「悲しい子だ。でも昼間は少し時間取れるでしょ」


「そうね。遊ぶ?」

「うん」


「面子はどうしようか。高木くんは予定あるっていってたからなあ」

「いじめないの。・・・・・・あのさ」


 そこで歩が言葉を濁した。


「どうしたの」

「うん、えっとね。受験勉強、前に比べればだいぶ根詰めてやってくれているんだけど、ちょっと疲れてきてんのね。だから、ちょっと気晴らしをさせてあげようかなと」


「マーくん?」

「マーくん」


「イブに会うってこと?」


「そういうのじゃない。長友、本当にそういうのじゃないから。確かに二十四日にって話してるんだけど、その、そういうイベントの日のほうが、遊びに連れ出すにも話すきっかけとして良かったというか。本当にそういうんじゃないから」


「分かった分かった。わたしも由里ちゃんに会いたいな。状況はどうなってんだろ。バイトで大変でも、やっぱり心に引っかかっているのよね」

「あ、それいいんじゃない? 由里ちゃんも連れ出そうよ。今のうち学校の帰り道でも待ち伏せして話すれば、なんとかなるでしょ」


 なるほど待ち伏せ。ただうじうじしているよりはずっとよさそうだ。


「高木くん、そういうわけだから二十四日、大丈夫だよね」


「しょうがないなあ、みどりにそこまでお願いされちゃなあ。あっちの予定はキャンセルだな。あっちにがっかりさせちまうなあ」

「うん、高木くんそういうのいいから」


 校舎の階段を降りながら高木くんとそんな話をしていると、掲示板のところで講義の変更を確認しているコンちゃんを見つけた。


「みどり、あの人は予定あるに決まってるよなあ」

「そりゃそうでしょ」


「でも一応聞いてみるか」


 コンちゃんがこちらに気付いて、満面の笑みで手をぶんぶんと振った。


「和也がねえ、ちょっと都合が悪いんだって」


 高木くんが尋ねたところ、そんな答えが返ってきた。


「でもわたしも別に予定入れちゃったの、ごめんねえ。お、そうだ優斗くん誕生日おめでとう」

「あ、覚えていてくれたんですね。どうもです」


 おや。わたしはすっかり忘れていたが、そういえばそうだった。


「一つ大人になったんだから、バイトだけじゃなくて色々ちゃんとしなくちゃ駄目だよ」

「そうっすねえ。でもちゃんとってどういうことなのか近頃わかんなくなってきているんですよね。和さんみたくわが道を行くのも悪くないじゃないですか」


「優斗くんは、なんだかんだで正確な判断が出来る子だとわたしは思ってるよ。君みたいのがわたしには本当はあっているのかなあ。そう思わない? 和也は変だもの」


 冗談でも。


 例え何の意図もなくこの場限りのものとして発した冗談だとしても、言ってはならないことが人にはある。コンちゃんが和さんに言ってはいけない言葉というものが明確にあるのだ。


 彼はコンちゃんが自分を認めてくれていることを、どれほど心の支えにしていると思っているのか。


 わたしはその目の怒りの色を隠すことができていなかっただろう。何か言おうとしたその前に、高木くんの言葉が私をさえぎった。


「身に余るお言葉ですねえ。でもすいません。遠慮しておきます。俺、好きな子がいるんで」

「やだな冗談よ。あれ、わたしいま振られちゃった?」


「俺のことは忘れて、どうか自分の幸せをつかんでください」

「なによう、なんだか本気で悲しくなるじゃないの」


「ま、コンちゃんにだって分からないことはあって当たり前なんですから」

 高木くんの最後の言葉は、しばらく宙に浮かんで粉雪のように揺らめいているようであった。


 コンちゃんと別れてしばらく歩いたところで、高木くんは「コンちゃん、指輪してなかった」と呟いた。


 コンちゃんが今年の誕生日に和さんからもらったという、右手薬指に輝いていたはずの銀の指輪。


 わたしは高木くんに、コンちゃんについてわたしが知っていることを話すべきなのかとも思ったが、やめておいた。


 彼の夢をわざわざ壊すこともない。それに、彼はわたしなどよりもよほど状況を把握しているのではないかと、このときふと思ったのだ。


 ん? 好きな子?




 由里ちゃんの中学校に一人でいってみた。


 二回目の張り込みで校門から出てくる彼女を見つけることができた。


 粉雪が舞うなか、コートとマフラーをつけて寒そうに首をすぼめる由里ちゃんは、わたしの姿を見ると一瞬顔がこわばったが、わたしが笑顔で手を振ると、こたつに体ごと飛び込んだときのようにほっとした表情に変わった。


 ああ、もっと早く来てあげなくちゃいけなかったなあ。


 歩きながら話した。


「ああ、昨日はバレー部の練習に出てたから、遅かったんです」

「お母さん、練習に出ることは許してくれてるの?」


「古川商業に手続きをなんにもしてませんから。向こうのバレー部の関係者にも、母が直接電話をして断りを入れてしまったし」


「選考を兼ねた合宿っていつだっけ」

「もう先週終わりました。これでジ・エンド」


 由里ちゃんは首を傾げて寂しげに微笑んだ。わたしは目を閉じて天を仰いだ。


「そう」


「でも北高にいく準備は割と順調ですから。もう家庭教師は頼んでないですけど。だから、イブの日は大丈夫ですよ。母も少しは負い目があるみたいで、近頃やさしいんです」


 彼女と手を振って別れた。それから居酒屋に直行する。


 雪が強くなってきた。わたしは自転車を漕ぎながら白いコートのフードを頭に被せた。


 その日は高木くんが十日ぶりの休みだった。


 平日だったのだが、忘年会が二件入っていた。


 今日も店員に怒鳴られ、お客に怒鳴られ、大変だった。


 伊集院光に顔もフォルムもよく似たお客さんに、ナンコツが固いと怒られて難儀した。


 わたしは初め冗談で言っているのかと思って、「ナンコツは固いのが当たり前じゃないですかあ」と笑って返したら、なんだとこらあ、と始まった。


「じゃあ、お前これ食ってみろよ」

 食べなくても分かるわよ。この店のナンコツはこりこりして、とても美味しいのよ。


 大きな体のお客さんに凄まれて、わたしは足が震え出してしまった。大声を聞きつけ、太った店員が駆けつけてとりなしてくれたのだけど、わたしはしばらく胸がどきどきしていた。


 忘年会が片付いてから焼き魚で晩御飯になった。今日は空いたお座敷でわたし一人だ。


 さっきの恐怖が抜けないわたしは食欲が出なくてほとんど食べることができなかった。あげくには、ここのところのいろんなものがまとめてこみ上げてきて、ぽろぽろと泣いてしまった。


 仕事が終わって、疲れ果てたわたしが店を出ると外は大雪になっていた。


 風も強い。道路にはすでに雪が二十センチほど積もっていた。ためしに自転車を漕いでみたのだが危険だ。押して家まで帰るしかない。


 見上げると、闇の向こうから大きな雪が降り注いでくる。


 高木くんが一緒なら、こんな非常事態でも二人で騒ぎながら帰れると思うのだが、一人でもぞもぞ歩いていると気分が沈み出した。


 吹雪の向こう側を覗き込もうとしていると、だんだん距離感がおかしくなってくる。ゆっくり落ちて来る雪が、放射線状に広がっていくように見えた。


 居酒屋からアパートまでの途中には、由里ちゃんの住むマンションがあった。暗闇の中吹雪にさらされているその建物を見上げながら、わたしは彼女のことを思う。


 それから明田地下道をくぐる。


 降りる途中で雪のために滑って危うく転んでしまうところだった。線路の真下を通るときも、風が強く吹き込んでいて寒かった。


 そして自転車を力こめて押し上っていく途中、踏ん張っていた足が滑ってわたしは今度こそ転んでしまった。


「きゃ」


 自転車が横に倒れてわたしは両手をついた。右ひざも強く打った。


 立てないほどの強烈な痛みではなかったが、わたしはその体勢のまましばらく動かずにいた。


 やがて自転車を立て直してまた歩き出した。


 誰も助けてくれる人がここにはいないのだから、自分で起き上がるしかないのだ。


 なかなか近づいてこない上り坂の終わりを見やりながら、わたしは和さんのことを思う。


 彼はこのまま光を失ってくすんだ存在へと変わっていってしまうのかもしれない。


 自分はいったい彼に何を望んでいるのだろう。そういえばまだ彼のバイクの後ろに乗せてもらったことがない。


 陸橋を上りきると、また大粒の雪がわたしの体に吹き付けた。


 いま気温はどの位だろう。


 一刻も早くアパートに帰りつきたいと思う一方で、わたしはこのままどこかにいってしまいたくなった。


 孤独と無力感に押しつぶされそうなのに、それらから逃れようとする気も起きない。吹雪にむかって、好きなだけわたしを痛めつければいいじゃないかと叫びたかった。


 そうだ。わたしはふと思いつく。


 久々に深夜のラーメン屋、上海に行って、あったかい牛タンラーメンが食べたい。

 

 あの店には夏に和さんといったきりだ。


 それがいい。急にお腹もすいてきた。あの柔らかい明かりの下で、巨猫に触って遊びたい。


 吹雪はさらに激しい。道に積もった重たい雪が自転車のタイヤにからみつく。吐き出す吐息も大きくなって、熱いのか寒いのかよく分からないまま、わたしは救いを求めてあのラーメン屋を目指した。


 わたしは実感する。自分が今、大変な苦難の真っ只中にいるのだということを。


 ともすれば気持ちなど、簡単に折れてしまう。


 医者が過去の病気を理由にするなといったことを思い出す。それはとても難しいことだから、彼はわたしに諭してくれたのだ。


 うまくいかないことばかりだけど、せめて美味しいラーメンで少しでも元気を取り戻したい。


 しかし、歩いても歩いても、白い風の向こうに明かりは見えなかった。店の前まで行ってわたしは愕然となる。


 白い紙に赤いマジックで大きく『臨時休業』そんな、なんてこと。こんな些細なことすら叶わないというのか、わたしの人生は。


 自転車を放り投げてしまおうかと何度も思いながらアパートにやっと帰り着く。少し熱が出ているような気がしたが、それを計ることすら億劫で、わたしはお風呂にも入らずすぐに眠り込んでしまった。

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