第六章 わたしのトロフィー
第六章① 12月は高木くんが走る
「みどり、まずいことになった」
高木くんが唐突にそう話しかけてきたのは、十一月の終わりのことだった。
わたしは図書館の新聞閲覧コーナーで、木製の閲覧台に掛けられた新聞をぺらぺらとめくっているところだった。
何個もある閲覧台には、大手の新聞が一通り揃っている。
わたしは各紙の社説を読み比べて、同じ問題についての意見の違いを自分の中で咀嚼させて血肉とする作業にいそしむことが日課なのだった。
まあ、それをやるときは、だいたいレポートの提出が迫っていたりする時で、机に教科書を広げたまま、ここで気付けば一時間ちかく時間をつぶしてしまったりもするのだがそんなことはどうでも良い。わたしのインテリジェンスタイムを邪魔するとは不届きな奴。
「この前の居酒屋でさ、最後のほうで新人が入ったじゃん。二人」
「ああ、うん。しばらく続けるつもりがあるっていってた子たちだよね」
「続かなかった」
「どっちが?」
「どっちもだ」
「あらら大変ね。これから忙しくなるんでしょ」
「そうなんだよ。急遽バイトの募集を始めたんだけど、誰も来ない。だいたいくそいそがしい時期にまったくの新人なんか来たって役に立たない。ちゃんと教えている時間なんてとれないし。だからさ、みどり、もう一度、働いてくれない?」
「ええ? わたしじゃまた足をひっぱちゃうだけだよ」
「でも前回、一通り仕事は教わっているじゃん。即戦力が必要なんだ。ほかにあてがないんだ。店の人たちすげー困ってる」
「歩はどうなの。即戦力ってのはあの子みたいなのを言うんじゃないの?」
「すでに当たってみた。土下座する勢いで頼み込んだけどだめだった。なんでも家庭教師の仕事のほうでも修羅場を迎えたらしい」
「それは勉強が大変だっていう意味の修羅場でいいんだよね?」
「たぶん。厨房のおばちゃんたちがさ、みどりはどうだろうっていいだしたんだよ。お前この前やめるとき、店の人たちに手紙を渡しただろ。『また機会があれば働かせてください』って、あれにいたく感動したみたい」
「社交辞令だ」
「いやあれこそが、みどりの魂の言葉だ」
わたしは押し切られた。
由里ちゃんの家庭教師をクビになってから家と学校の往復だけの日々が続いていて、心の中に澱がたまりはじめていたところだったのだ。
気分を変えるために、それもいいかもしれないと思った。前回の経験を活かして、今度こそうまいことやれるかもしれないし。
そういうわけで、わたしはその翌日高木くんと一緒に再び居酒屋の階段を降りた。長友みどりはつくづく学習をしない生き物である。
「どのくらい出勤できそうなの」
髪を後ろでしばったほうの男性店員が、まず確認してきた。この前は家庭教師と並行しての労働だったこともあって、週三日体勢だった。
「お店、忙しいんですよね? がんばって週に四日だったら何とかお手伝いできると思いますけど」
「週五日、来れないかな」
「五日ですか」
わたしは答えに窮した。それではバイトではなくもはや社員に近い労働条件ではないか。
事態は思ったよりも深刻なようである。
わたしは考え込んだ。厚意でやってきたわけだから、断っても別にかまわないとは思う。
しかしその場合、高木くんはどうなるだろう。彼はここ数週間で疲労が更にたまってきているようで、体重も落ちて見える。
彼がラーメン・ライダーズに入ったために増加した5kgは、すでに消化し終わったようだった。この上、人員不足で忘年会シーズンを迎えることになったら。
わたしは口を開けば彼に対して憎まれ口ばかりたたいているような気がするが、本心では断じて彼がここまできてずっこけることなど望んではいないのだ。
「分かりました。週五日で」
「うん、頼む。それから年末年始は大丈夫? そこがピーク中のピークなんだわ」
年末年始も? わたしはさすがに躊躇した。
わたしが今まで過ごした二十回の大晦日とお正月は、すべて本荘の自宅で家族と一緒にであった。今年も当然そうなのだと何の疑いも持っていなかった。
「高木くんはどうするの」
「ああ、俺は埼玉に帰らない。今年の冬休みはずっとこっちにいるよ」
「そうなんだ」
「ひと段落ついたら、自分の車で帰るんだ」
彼は朗らかに笑った。これからわたしたちの前には苦しみが待ち受けているというのに。彼にはその先の光しか見えていないようだった。
仕方ない。つきあってやるか。
黒い制服とエプロンに身を包むんでわたしは溜息を一つついた。
十二月に入った最初の週末。さっそく忘年会の洗礼が我々を襲った。五十人を越える規模の宴会が二つ重なる。
下駄箱に靴を入れて、番号を一個一個読み上げるだけでも一苦労だ。飲み物の注文も、そのつど十個以上が一気にくる。
「スクリュードライバー1、ウーロンハイ2、ソルティドッグ2、熱燗4、コーラ3、お願いします!」
伝票を読み上げる声が厨房に響く。
あまり大きな声では言えないが、飲み放題コースのお客様にたいしては、なるべく酒、原液類を消費しない方が店としては利益になる。
だから、カクテルは極力薄く作るし、ビンビール15本とか注文されても、なるべく出すのを遅くして、それから実際には10本しか出さなかったりする。飲み放題の場合だとお客だってそう厳密には見ていない。
わたしは早速やらかしてしまった。
「みどり、もってって!」
例の三人彼女の男の子(三人官女みたいだ)が叫ぶ。わたしは彼が手際よく作った飲み物を、大きなお盆に全部のせる。
「お願いします」
「はい!」
お盆を両手でもって、ふらふらしながらわたしは厨房の狭い出口にかかる濃紺の暖簾をくぐって座敷に向う。そしてすぐ戻ってくる。
「ごめんなさい、全部こぼしました」
「全部かよ!」
ふきんを持ってあたふたとしていると、壁一枚隔てた調理場から髪を縛った店員の「やっぱり歩にしておけばよかった」という声が聞こえてきた。
帰り道は高木くんと二人になることが多かった。
粉雪がちらつき、高木くんのお気に入りの黒いニット帽は、再び活躍の季節を迎えた。
自転車を漕ぎながら色々と話した。途中のコンビニでお茶を買って、店の前でしばらく話し込んだりもした。
たまに彼はビンビールの蓋にサランラップを巻いたものを自転車のカゴに入れて、がたごとと音を立てて帰っていくときがあった。
これは、飲み放題で出したものの、お客が全くの手付かずで残して帰ってしまったものだ。こういうことがあるから、いわれた通りの本数を出すわけにはいかないのだ。
見極めがまずくてあまってしまったものは、各自こうして持ち帰って後で美味しく戴くのである。わたしはさすがに遠慮したが、生活の知恵が色々あるものだ。
ラーメン・ライダーズの忘年会もうちの店でやった。
わたしと高木くんが奮闘している情報を聞きつけて、部長さんがうちにしてくれたのだ。
「ありがたいんだけどさあ。ほかあたってくれたほうが、その分僅かにでも楽になるんだけどな」
「こら高木くん、そういうこと言わないの。その通りだけど」
和さんとコンちゃんと、クマさんが一同に会している姿をみると、本人たちはなごやかなのだが、わたしばかりが背中に汗を滝のように流し続けていた。
和さんがトイレにたった時に、下駄箱のところですれ違った。かけ回るほかのバイトに追い立てられるようにその場を離れたのでろくに話せなかった。
「元気? 和」
「みどり、負けるな」
それだけだった。彼はまだ、元気がないようだった。
和さんには、いつでもお日様のように、元気でいて欲しいものだ。
歩が厨房に入ってきて、おばちゃんたちに挨拶した。
「少し働いてけ」
「だめっすよー、酔っ払っちゃってんもん。わ、長友のカクテル作りが、早くなってる」
「そうかね?」
追い立てられるように毎日無我夢中で働いているのだから少しは成長して当然なのだが、歩に誉められて嬉しかった。
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