第五章⑤ 彼女にとっては意味がなくても
コンちゃんはわたしに気付いてこちらにやってきた。
体育館のコートで走り回っていた彼女は、その白い肌に僅かに赤みが差している。明るい色の髪の毛を斜めに束ねていた。
「みどりって元バスケ部だったよね。ひまなら混ざっていったら?」
コンちゃんは清らかに笑う。
わたしが彼女越しにコートの方を伺うと、向こうもこっちを見た。数学科の同級生たちのようだ。高校の同級生だったあの彼がいたら少しいやだなと思ったが、幸いその姿はなかった。
全部で八人いるが、女子はコンちゃんだけだった。
「靴、ないもん」
「置き靴で多分サイズあるよ。そんなに汚れてないから」
わたしは今日ジーンズで学校に来ていたので、上着を脱げば運動するのに差し支えない格好をしていた。
「んー。じゃあ、ちょっとだけ」
「OK」
コンちゃんは振り返って、仲間たちのところへ小走りで戻る。
「助っ人が来たよ。バスケ経験者」
男の子たちから歓声があがる。ブランクがずいぶんあるのだから、過度な期待はしてほしくないものだ。
靴を履き替えて、簡単なポニーテールに髪を結う。足や背中を軽く伸ばしながら、わたしはコンちゃんの様子を観察していた。
男の子達に囲まれて楽しそうに話す彼女は、至って普段通りだった。
このような女子が自分だけという状況だったら、わたしなら多分萎縮してしまうだろうし、ほかの女生徒の評判が気になって小心ぶりをいかんなく発揮してしまいそうなものだ。
しかし彼女は当然のように堂々と振舞っていた。多分昔からこういうお姫様のような状況に慣れているのだろう。
わたしが現れたことによって中座していた試合が再開された。
疲れ果てていた男の子と入れ替わりに、わたしは参加した。
コンちゃんは相手チームだ。
味方がチェストパスで、わたしにボールを渡した。
しっかり受け止めて、一回二回とボールを突きながら周りの人たちと、その向こうにそびえるゴールを見回した。
懐かしい。この光景。手に響くこの感触。わたしは自分で思っているよりもバスケットボールに未練があったのだろうか。
ボールを突くそのたびにわたしの胸はどきどきと高鳴り、かつての血潮のようなものが蘇ってきた。これじゃ歩を笑えない。
足が以前のようにはまったく回らないことに愕然となったが、遊び半分の和やかなムードのなか、わたしも楽しく遊ぶことができた。
ひとゲーム終わった後、みんなでコート横のベンチに腰掛けて談笑した。
わたしはコンちゃんと話した。何の気なしに高木くんの車の件を話したら、彼女の顔が少し険しくなった。
「優斗くんには悪いけど、それって意味のあることなのかな」
「本人にとっては大事なことなんですよ、きっと」
「でもね、みどり。彼はそのたくさんのアルバイトのせいで、学業がおろそかになっているんでしょ。成績が悪くちゃ、就職するにも不利になっちゃうじゃないの。それじゃ車一台買えたところでどうにもならないよ。わたしの意見だけど、彼のやるべきことは日々の生活をまじめにこなすことだと思う。ちゃんと授業に出て、レポートを提出して、それが前向きになるってことだと思うんだけど、違うのかな?」
わたしはコンちゃんの顔を眺めながら、少しの間、彼女の言葉について考えてみた。
コンちゃんもじっとわたしのことを見つめ続けていた。
その目には、自分が正しいことを進言しているのだという確信の光が満ちていた。正論というものを信奉している人間の目だった。
コンちゃんは彼女を正論から引き離そうとする人間を憎む。彼女から和也さんを奪って、自分のいるところと違う場所へと連れて行こうとするものを憎むのだ。
しかし彼女は、それと同じ理由で、自分たちを引き離そうとする忌むべき存在であるクマさんに惹かれてしまうという矛盾にきっと陥っていくのだろう。
「コンちゃん、質問」
「ん? なあに」
なんだろう? わたしは何を聞くつもりなのか。
「上海と時代屋。コンちゃんはどっち派ですか」
「ああ、ラーメン・ライダーズの派閥争いね。わたしは時代屋かな」
「へえ。わたしは上海です」
「そう」
休憩が終わり、もう一試合することになった。
わたしは体もあったまってきたところだったので、引き続きの誘いに快諾してコートへと飛び出した。
スリーポイントラインの手前でわたしはボールを受け取る。左45度。好きな位置だ。いってみようかな。
するとコンちゃんがわたしの前に立ちはだかる。腰を落として、シュートにもドリブルにも対応するつもりだ。
こんなことで張り合っても、それこそ無駄ってものだけど。
わたしはそのとき、彼女に負けたくないと思った。
少なくてもバスケはわたしの土俵である。ここで負けたら、わたしは彼女にまるで何一つ勝てないかのように思い込まなくてはならなくなる。そんなのはごめんである。
コンちゃんのことは今でも好ましく思っているけど。でも。
わたしは一度ボールを味方の男の子に戻した。
コンちゃんに、なあんだ、勝負しないの? と拍子抜けしたような表情が浮かぶ。
まあ、そうあわてなさんな。
私はゴール下に侵入するようなそぶりをわずかに見せる。それから、元いたスリーポイントラインの外までひょいっと戻る。
コンちゃんもわたしに合わせて、下がって、もう一度距離をつめてくる。
そこにパスがきた。
わたしはゴールを見つめて、スリーポイントシュートの体勢に入る。
コンちゃんがわたしの前に勢いよく飛び込んでくる。彼女は右手をのばして、ブロックしようとした。
コンちゃんは、先ほどから見ているとなかなか筋のよい動きを見せていたが、別にバスケ部だったわけではない。
シュートフェイクを一つ入れれば簡単にブロックをかいくぐってシュートを放てるはずだ。
しかしどういうわけなのだろう。わたしはこのとき、かつて何千回も練習したフェイントの技術をコンちゃん相手には使いたくなかった。その価値がないと思ったのだろうか。
なのでこのときわたしがしたことは、シュートの一連の流れをほんの一瞬止めてリズムを変えただけだった。
コンちゃんはジャンプした。わたしはまだ飛んでない。
「わあ」
空振りに終わって通り過ぎていくコンちゃんを尻目に、わたしはフリーの状態でシュートを放った。
まるで、わたしは何もしないでシュートを打っただけで、コンちゃんは勝手にジャンプして素通りしていったように見えたかもしれない。
わたしが凄いのではない。ずうっとそればっかりやってきた人間と、センスが良いだけの人間の間には、このくらいの差があるものなのだ。
よし、ちゃんと打てた。
ボールは、ゴールのリングに吸い込まれた。
みんなが騒ぐ。
「おおーすげー」
「何だ今の」
「コンちゃんが間抜けにみえた」
コンちゃんは天を仰ぎながら、「ひどいこと言うなあ」と笑った。
試合が終わってから彼女は、無邪気に「バスケ、またちゃんとやればいいのに、大丈夫そうじゃない」とわたしに笑いかけた。
わたしは胸の奥底にしまってある大事なものを、彼女に引っ張り出された挙句に踏みにじられたような気分になって、早々に体育館を後にした。
自転車を漕いで風に髪の毛をなびかせながら、わたしは少しくしゃくしゃになってしまった大事なそれをきれいに折りたたんで、元あった場所にそっと戻しておいた。
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